序章
先ず初めに、熱い、痛いという思いがあった。
人は死の直前に、走馬灯を見るという。自分の人生を、くるくると回る影絵のように振り返る、アレだ。
俺は、それを見ていた。呆然と。しかし、こうやって他人行儀に見ていると、俺の人生は、ちっとも面白みがなかったものだなあ、と思う。
本当に、何も無い。特別仲の良い友人がいたわけでもないし、彼女の一人もいなかった。自分の生涯を語りなさい、なんて言われてしまったら、原稿用紙一枚埋めるのに、四苦八苦してしまいそうだ。
魂は輪廻転生、なんて、全く信じていなかったけれど、もし生まれ変われるなら、今度はもっと濃い人生を歩みたいなあ、なんて事を、悠長に考えていた。
ああ、身体が熱い。いや、もう熱いを通り越して、何の感覚もない。そうだ、確か火事かなにかで、それで俺は―
なんて事を考えていたのだが、どうも限界らしい。何だかぼうっとしてきた。手の感覚も、足の感覚も、何も無い。
あ、俺はこれから死ぬんだなあ、つまらない人生だったなあ、などと、これまでの平々凡々とした人生を後悔してみたが、思ったところでどうにもならない。何も聞こえない。何も見えない。何も感じない。
やがて俺の意識は、薄れゆき、そしてすっかり霧散してしまった。
……あれ、おかしい。そう思った。だって俺は死んだはずじゃないか。助かる可能性なんて、まるでないくらいに追い込まれていたじゃないか。
でも、どうやら俺は死んでない。僅かに手や足の感覚が戻ってきている。肺に、澄んだ空気が取り込まれる。当たり前なはずの出来事に、新鮮味を覚えている事に少し驚きながら、ゆっくりと目を開けてみた。
そこにあったのは、バラバラに崩れ落ちた、石や煉瓦造りの建物が辺りに存在する、街らしき場所……いや、人一人見当たらないその様子は、とても街とは呼べない。まさに、廃墟だった。
此処は何処だろう、そもそも俺は確かに死んだはずでは、と混乱しながらも起き上がると、遠くから、豚が鼻を鳴らしたような音がした。
音がした方を向くと、そこに居たのは、1mに届くか届かないかという全長で、顔の面積の大部分を占めるくらいの巨大な鼻を持ち、焼けただれたようなボロボロの耳に、裂けているかのように広い口、鈍い緑色の肌、という異形だった。それはまさに創作物に出てくる、ゴブリンのような姿。そんな奴が、5、6匹は居た。
「どっ、どうなってんだ……?」
俺はそれを見た時、目を丸くし、そして、まるで小説かなにかの物語のような、今まで歩んできた人生とはまるで違う目の前の出来事が、到底信じられなかった。だって、俺が今いるのは現実だ。創作の中じゃない。……しかし、現実というのは時と場所によって変化するもので。
もしかして、異世界に転生した、という奴なのかな、と混乱した頭で仮説を立ててみたものの、仮説の正しさを判定してくれるような人間など、見渡せども見渡せども誰一人居ない。正直出来の良い、いやこの場合、出来の悪い、かな……とにかく、これは夢だと思ってしまう。
そんな風に、俺が困惑している最中、ゴブリンみたいな連中は、口元から涎を零しながら、木で作ったと見える棍棒を手にし、こちらに向かって歩いてきた。その目には、友好的な色などちっとも無かった。
「待ってくれ!俺は敵じゃない!」
そんなゴブリン達の敵意を感じ取った俺は、両手を上げて、自分が無害であり、敵意など無いという事を証明しようとした。そのジェスチャーが通じるかどうかは定かでは無いが、なにか上手い事心を通わせたり出来るんじゃないかな、と呑気なものだった。
だが、奴らはそれをまるで意に介しなかった。突如一匹が棍棒を振り上げ、猛然と飛びかかってきたのだ。危険を感じ、瞬時に俺が後ろに飛ぶと、俺が居た場所に、恐ろしい勢いで棍棒が振り下ろされた。地面がひしゃげたその威力に、俺はゾッとする。もしすんでのところで避けていなければ、俺の頭は、スイカ割りのスイカみたいに砕けていたのかもしれない。
俺は、ありえない、コイツ何考えてるんだ、と思い、恐怖した。何の躊躇いもなく、木の棍棒を振り回してくるとは、とても戦える相手ではない。俺は身体を反転し、奴らから逃げようと駆け出そうとした。
瞬間、俺はギョッとした。逃げようとしたその先、というより、四方をゴブリンの群れに囲まれていたのだ。何匹いるのだろう。十、二十……いや止めよう、気分が悪くなってきた。
ゴブリン達は、大勢で囲んで、自分達の優位性を確信したのか、愉快そうに鼻を鳴らした。ふざけるなよ。こんな現実があってたまるか、図に乗りやがってこいつら!
そんな具合に、最早俺は、これから殺されるかもしれないというような恐怖で、足をすくませ、顔を青ざめさせる事を忘れて、目の前の、人を馬鹿にしているように笑うゴブリンに対して、頭に血をのぼらせていた。
何が死だ、ふざけやがって。死のリアルな感覚を、俺は体験したぞ。もう経験済みだ、恐れるものか、怖がってたまるものか!そんな事を思うと、恐怖心は露と消え、代わりに怒りと闘志が湧いてくる。
「こうなりゃやってやるぞ!舐めるなよ!」
俺は両手を上げて、ファイティングポーズの構えを取った。人並み程度には鍛えてきたつもりだ。死ぬとしても、タダで死ぬのは耐えきれない。何匹か道連れにしてやるぞ、と極限状態に追い込まれた俺は、おそらく生まれて初めて、本気の殺意というものを抱いた。
一際大きな一匹のゴブリンが、こちらに向かって、余裕綽々といった様子で歩いてきた。その人を舐めきった態度が有難い。束になってかかってこられたら、なす術が無かっただろうに。
ひた、ひた、とゆっくり歩を進めていたゴブリンは、突然棍棒を振りかぶり、凄まじい速さで走り出した。来た!と緊張する身体に、落ち着け、と深く呼吸をし、酸素を巡らせる。棍棒は短い。ゴブリンの腕も酷く短い。棍棒込みでも、俺の方がリーチは勝ってる。
十分に引きつけ、ゴブリンの腕がピクリと動いたその時。俺の全力の蹴りが、顔面に炸裂し、奴を弾き飛ばした。誰かを蹴る、初めての感覚に、極限状態の戦闘でアドレナリンが出ていた事も手伝ってか、俺は非常に高揚していた。凄い手応えだった。
だが、ゴブリンは、そんな俺の高揚を撃ち壊すかのように、蹴りなどまるで効いていないと言わんばかりに、瞬時に、勢いよく起き上がってきた。その口元には、邪悪な笑みが浮かぶ。
一矢報いる事すらままならないのか、と唇を噛み締めた俺は、次に、奴らの低い背丈を見て、飛び越えて逃げられはしないか、という無謀な事を考えついた。無謀と分かっていても、思いつく限りで、すがれる選択肢はこれくらいしかない。
無事逃げおおせたら、その時は覚えてろよ、と何とも小物ったらしく思考を巡らせると、俺は落ちていた建物の破片らしき石を手に取った。くるりと身体を回転させ、ありったけの力で、ゴブリンに向かって投擲すると、その方向に俺は走り出した。
幸運にも、一匹のゴブリンの目に、投げた石が突き刺さると、そいつはもんどり打って倒れた。チャンスだ、今だ!と俺は、ゴブリン達の頭上を飛び越えんと跳躍した。
しかし、それは防がれた。頭上を飛ぶ俺を見逃すような、甘い連中では無かったようである。ゴブリンは、瞬時に棍棒を振って、空飛ぶ俺の足に命中させた。激痛が走る。あまりに見事な対空だ。ふざけやがって。
足を破壊されては、まともな着地が出来るはずもなく、地面に投げ出されたかのように倒れるしかない。背中を強打し、僅かの間、息が出来なくなった。
なんて話だ、こんな事になるなんて。非力な自分が情けないやら、ゴブリンにムカッ腹が立つやら、複雑な感情が脳内を渦巻く。しかしそんな感情とは、どうももうすぐおさらばみたいだ。
弱りきった獲物をあざ笑うように、ゆっくり、ゆっくりとゴブリン達が向かってくる。本当に恐ろしいのは、痛みでは無く、死でも無い。何も出来ずに死んでしまう、己の無様だ。そんな事を、考えていた。
棍棒が、頭に振り下ろされる。手でガードしようとしたが、守りきれるはずもなく。衝撃と痛みで、一瞬、完全に意識が飛んだ。
頭痛が酷い。意識や視界がぼやけて仕方ない。どんな所かも分からない世界に来て、何も出来ないまま、早々に死ぬのか。屈辱、恥辱、憤怒、悲嘆……どれほど言葉を重ねようとも、今の俺の感情を言い表せそうに無い。
ゴブリンが、トドメを刺そうと棍棒を振りかぶった。死を、覚悟した。なんたる死に様、なんたる無様……
その瞬間、頭上で、目をくらますほどの眩く強い光が出現した。光はそのまま雨のように、俺を避け、ゴブリン達に降り注いだ。光が、奴らの身体を焼いていた。
ゴブリン達は、悲鳴をあげる暇も無く、あっという間に身体は焦げ、そして消えた。薄れゆく意識の中、ゴブリン達を攻撃していた時とは打って変わって、なんて穏やかで、優しく、綺麗なのだろう、と俺は包み込むようなその光に見惚れていた。