ジレンマ
テオとエナがその小さな雪国に着いた時、外はすっかり暗くなっていた。
しんしんと降る粉雪が、ガス灯の明かり中に浮かび上がり、幻想的な雰囲気を醸し出している。積もり始めた雪は音を吸い込み、街に静寂の帳<とばり>を下ろしていた。
「冷え込んで来たな」
テオが白い息を吐いて言った。
「ええ、今日はもう湯浴みをして休みたいわ」
エナは赤い鼻を啜りながら頷く。
二人は身を寄せ合い、宿を探して、物寂しい通りに消えて行った。
翌朝。
「うわあ!」
窓を開け、鎧戸を開けたエナは、感嘆の声を上げた。
国中に雪化粧が施され、一面が真っ白に染め上げられていた。積雪の白と建物の煉瓦の黒が、見事な対比を成している。空からは以前として雪が降り続けており、それにあらがうかのように、煙突はもうもうと煙りを吐き出していた。
「おい、寒いから閉めてくれ」
エナが外の景色に見とれていると、ベッドのテオから苦情が飛んできた。
「あ、おはよう」
「ああ、おはよう」
二人はそっけない挨拶を交わすと、顔を洗い、寝巻を着替えた。
宿を出た二人は、向かいのレストランで朝食を注文した。
ウェイトレスが皿の乗ったトレーを運んで来る。
メニューは黒パンとボルシチ、温野菜サラダにヨーグルトだった。
暖炉には薪がくべられ、店内をほどよく温めていた。
「たまにはこういうのも、悪くないわね」
エナはピアノのレコードに耳を傾けながら、くつろいだ表情で言った。
「そうだな」
そういってテオがスープを啜った時ーー
ーー突然、雷のような怒声が上がった。
窓際の席で、うなだれた男が身体を小さくしていた。。
その向かい側には、顔を真っ赤にさせた女が、仁王立ちしている。
「ええ? よく聞こえなかったわよ! もう一度言ってごらん!」
「だから、えっと、......その、無理だよ」
男は弱々しい声で首を振った。
「だからなんでよ!? あたしを愛してないの!?」
女性が身を乗り出し、男の胸倉を掴んだ。
「だって両方なんて不可能だよ......君とずっと一緒にいれば仕事ができないし、出世のために仕事に勤しめば君といられる時間は少なくなるし」
男が視線をさ迷わせて弁解する。
「フィルマの夫は彼女と四六時中一緒にいるけれど、ちゃんと出世もしていると言っていたわよ! あなた、私に恥をかかせる気!」
「あ、あいつは自由業じゃないか」
「みっともない! 男の癖に言い訳なんて!」
女がカッと目を見開き、男の頬をひっぱたいた。
「朝っぱらからよくやるわねえ。人目もあるっていうのに」
「あの男、すっかり尻に敷かれているな」
テオとエナが窓際の男女を見て感想を言い合っていると、隣のテーブルから一人の老貴婦人がやって来た。
「あなたたち観光客? この国は初めてかしら?」
細い鎖付きの老眼鏡を鼻にかけた、品の良さそうな人だった。
「ええ」
「ああ」
と二人は頷く。
「急に驚いたでしょう? でもこの国では、珍しくない光景なのよ」
「そうなの?」
エナが意外そうな顔をした。
「そうよ。新婚夫婦はああして絆を深めていくの。私も若い頃は、無能な夫を調教するのに苦労したものだわ」
労貴婦人は懐かしそうに遠い目をして言った。
「......」
テオが怪訝そうに小首を傾げる。
「この国は女性が強いのね」
エナが感心したように言うと、労貴婦人は含みのある表情で首を振った。
「いいえ。ただ自由になっただけよ」
「どういうこと?」
「昔、この国では女性は不当に虐げられていたの。男尊女卑という悪習によってね。男も女も本来平等なはずなのに、男というだけで優遇され、女であると言うだけで不遇な扱いを受けるなんておかしいでしょ。それを数十年前になってようやく、是正しようという声が上がったの。男女平等運動が始まって、ちょうど私たちの世代がその中心を担ったわ。デモ活動を行ったり、法律を改正させたり。あの頃は私も随分やんちゃしたっけね」
「じゃあ、おばあさんは歴戦の戦士なのね」
エナがニカッと笑う。
「あなたもこの国で、男の手綱の締め方を学ぶと良いわ」
そう言い残し、労貴婦人は自分のテーブルに戻って行った。
「だってさ」
エナがニヤニヤ振り返ると、
「冗談じゃない」
テオはくしゃりと顔を歪ませた。
朝食を終えた二人は、目抜き通りに足を向けた。
何軒か店を梯子し、靴下やインクなどの雑貨を新調していく。
塩や香辛料を補充し、露店を冷やかした帰りのことだ。
ドンッ
テオの肩に若い女がぶつかってきた。
「痛ってえな!」
女はその場でしゃがみ込むと、目を細めて睨んでくる。
「ぶつかってきたのは、そっちじゃない」
エナがあきれたように指摘すると、
「お嬢ちゃんは黙ってな!」
女が見下した口調で吐き捨てた。
「何々?」
「男がぶつかってきたんだって」
「うわー、可愛そう」
騒ぎを聞き付け、わらわらと通行人が集まって来る。
「こりゃ骨が折れちまったかもな」
女が大声で周囲に見えるよう腕を掲げてみせた。
「そこの男、慰謝料払いなさいよ」
野次馬の一人が責めるように言った。そうだそうだ、と加勢の声が上がる。おそらくは女の仲間なのだろう、揃ってだらし無い格好をしていた。
「そうさね。銀貨四枚で許してやるよ」
「断る」
テオが即答すると女が気色ばんだ。
「こいつ! あたいを舐めてんのかい!」
腕を伸ばして胸倉を掴んで来る。よほど力が入っているのか、シャツの第一ボタンがはじけ飛んだ。
テオがその手を振り払おうとすると、見知らぬ男が間に割って入った。そのままテオの手を引っ張り、女から引き離す。
「いけない。彼女に手を出してはダメだ!」
「俺は捕まれたから、手を払おうとしただけだ」
テオは心外そうに答える。
「この国では、女性に手を触れれば、性犯罪者として裁かれてしまうんだ」
「そんな無茶苦茶な」
「事実だ。暴力を振るえばもっと酷い、最悪死刑になることもある」
男は真剣な顔で忠告した後、
バキッ
忌ま忌ましそうな表情の女に蹴り飛ばされた。
「邪魔すんじゃないよ!」
「女性が男性に手を挙げた場合はどうなるの?」
エナが当然の疑問を口にすると、女はフンと鼻を鳴らした。
「女が腕力を振るったところで、何の問題もないよ。か弱い乙女を野蛮な男から守るための法律なんだから」
「か弱いねえ......」
テオは地面に伸びた男を眺めながら呟く。
「さあ、豚小屋にぶち込まれたくなかったら、とっとと金を渡しな」
女とその仲間たちに迫られ、
「......」
テオは釈然としない顔で銀貨を支払った。
「さっきは災難だったわね」
エナが励ますように言うと、テオは軽く肩を竦めた。
二人は停留所で路面電車を待っているところだった。
雪の積もった屋根の下で、二人肩を寄せ合っている。互いを風よけに見立て、すこしでも暖を取るためだ。
「なんだか、はっきり別れているわねえ」
エナがぽつりと呟いた。
目抜き通りをよく見ると、女たちの集団が肩で風を切って闊歩し、その両端をこそこそと肩を丸めた男たちが歩いているのが分かる。まるでそこには、見えない境界線が設けられているかのようだった。
カップルの男女の場合は、女が先を歩き、その三歩後ろを男がついていく。テオとエナのように肩を並べている男女は皆無だった。
「......」
「安心して。あたしは、ああはならないわよ」
テオが黙っていると、エナが見透かしたように言った。
「お前は良い女だな。悪魔だけど」
そんなやり取りをしていると、停留所に路面電車が滑り込んできた。
前後の扉が開き、前方の扉から客が下りていく。
「帰るか」
テオが後部の扉のステップに足をかけると、
「キャアアア!」
「変態!」
車両の中にいた女たちが悲鳴を上げた。
「ちょっと、これは女性専用車両よ!」
「男女共通車両はこの三十分後よ!」
ヒステリックに叫ぶと、無数の足が伸びてきて、ゲシゲシとテオを蹴り落とした。
「ふざけんな、空席ばっかなんだから乗せろよ!」
車両の中を見て、尻餅を突いたテオが声を荒げる。
「これは決まりなのよ!」
「警察を呼ぶわよ!」
しかし女たちはとりつく島もなかった。
「......」
しばらく無言でそのやり取りを見ていたエナは、ストーブの効いた車両とテオの顔を見比べーー軽い足取りでステップに飛び乗った。
扉が閉まり、路面電車がゆるゆると走り出す。
寒風の吹き荒ぶ停留所に、一人残されたテオは、
「この国は、男に厳しすぎるぞ!」
空に向かって雄叫びをあげた。