尊厳死
「博物館、旧貴族屋敷......うーん、どこもイマイチねえ」
エナが柔らかい金髪を指に絡ませながら、ため息をついた。
「だから部屋で休んでる方が良い、って言ったんだ」
それを聞いたテオが、カウンターに突っ伏したまま、ストローでグラスを掻き混ぜながら毒づいた。氷の溶けきったマテ茶はすっかり薄くなっている。
二人は宿のバーで、ガイドマップとにらめっこしているところだった。先刻、エナの思いつきで観光に行くことになったのだが、その目的地がいっこうに決まらないのだ。
「どこも、いまさらって感じなのよね」
「観光地が似通うのは仕方ないだろう」
「あたしは、ここにしかない特別な場所に行きたいの」
「そんなものが、そう都合よく転がっててたまるか。俺はもう部屋に戻るぞ。観光はまた今度でいいだろ?」
テオはストローを放って、止まり木から立ち上がる。
「せっかちね、ちょっと待ってよ」
エナが不満げに唇を尖らせ、「あれ?」と呟いた。
目を皿のようにしてガイドマップを見回す。端から端まで念入りに確認し、「ないっ」と素っ頓狂な声を上げた。
「何がないんだ?」
興味を抱いたテオが、立ち止まってエナを振り返った。
「お墓が一つもないのよ」
「遺体は国外に埋葬する、って伝統でもあるじゃないのか?」
「それなら、入国する時に見かけた?」
少し考え、テオは首を振る。
「......いいや」
「ね、おかしいでしょう?」
二人が顔を見合わせ、首を傾げていると、それまで無言でグラスを磨いていた初老のマスターが、カウンター越しに答えを教えてくれた。
「それは、この国に死がないからですよ」
客に注文を尋ねる時と変わらない、平坦な声だった。
「どういう意味?」
エナが怪訝そうな表情を浮かべる。
「文字通りですよ。この国の住民たちは死なないんです」
「そんなことが可能なのか?」
テオは胡散臭そうに眉根を寄せた。
しかし、マスターは得に気分を害した様子もなく、穏やかな笑みを讃えてグラスを磨きつづける。
「ええ、死期が近づくと、命の館と呼ばれる施設に入ります。そこで機械に繋がれ、ありとあらゆる延命措置が行われるんです」
「すごい!」
エナが手を叩いて子供のようにはしゃいだ。
「もしよければ紹介しますよ」
「本当に? ありがとう!」
「実は、倅が命の館で働いているんです」
マスターは悪戯っぽく、片目を閉じてみせた。
翌日。
テオとエナは朝食を済ますと、マスターにお礼を言って宿を出た。
赤い路面電車に乗って郊外に行き、そこの停留所から出ている送迎バスに乗り込む。鼻先の突き出たバスは、猪のようなシルエットをしていた。なだらかな斜面を上り、野花の咲き乱れる原っぱをのんびりと走り抜ける。ゆったりとした時間の流れに、少ない乗客たちのほとんどは、白河夜船を漕いでいた。
「間もなく、到着しまーす」
変に間延びした運転手の声が、テオとエナを揺すり起こした。
窓の外を見ると、白い巨大なコンクリート製の建物が、丘の上に立っていた。窓ガラスは一枚もなく、玄関の入口だけが染みのように目立っていた。
ロビーに入ると、中年の男が待っていた。
「ようこそ、命の館へ。テオさんとエナさんですね。私は職員のルーメンスといいます。父から話は聞いていますよ。私が責任をもって、施設を案内しましょう」
親譲りなのか、マスターそっくりの笑みを浮かべる。
「ああ、よろしく」
「よろしくね」
三人は早速、施設の中を歩き出した。
リノリウムの床はぴかぴかに磨き上げられ、天井の照明を照り返していた。静かな長い廊下に、ばらばらの靴音が響き渡る。
「今日は施設に来た人たちが、どうやって死と切り離されるのかを、順を追って見学していこうと思います」
先頭のルーメンスが、二人を振り返って言った。
最初についたのは、様々な機材の並ぶ検査室だった。
「ここでは全身の精密検査を行い、新しい入館者の肉体が、手術に堪えられるかどうかを検査します」
ルーメンスは機材の間を縫って歩きながら、それらの機能を解説していく。
「基本的には、全員が検査を受けることになります。毎年、寒い季節になると、体調を崩す方が続出して、長蛇の列ができるんです。この施設のちょっとした名物なんですよ」
その光景を思い出したのか、ルーメンスは口元を綻ばせた。
「もしここで、手術に堪えらないって結果が出た人はどうするんだ?」
テオが質問すると、ルーメンスはこくりと頷いた。
「当然の質問ですね。それについては次の場所で説明しましょう」
テオとエナはエレベーターで地下に下りると、ボアのついた分厚い防寒着をルーメンスから手渡された。
「何でこんなものを?」
「十分、暖かいのに」
二人は首を傾げながら防寒着を羽織る。
「すぐに分かりますよ」
防寒着のファスナーをしっかり上まで閉めたルーメンスは、意味深に言ってハンドル式のノブを回し、大きな扉を開けた。
「寒っ!」
「っくしょん!」
テオとエナは慌ててファスナーを引き上げた。
そこは巨大な冷凍庫だった。大人一人分ほどの高さの大きな氷の板が、整然と並べられている。その表面をよく見ると、凍てついた人間の身体が、レリーフのように浮かび上がっていた。
「先ほどテオさんが指摘したように、中には手術が受けられず、延命できない入館者もいます。非常に残念ですが、そのような方はここで冷凍睡眠に入り、復活の日を待っていただきます。いまは無理でも、近い将来、医療技術が発達すれば、ネックとなっている問題も解決するでしょうからね」
ルーメンスはより良い未来を確信しているかのように、力強く拳を握る。
「この中の人、右手と胴体がないんだけど」
テオが一枚の氷を指差して言った。
「ここには交通事故などで、生命活動の停止してしまった方たちもいますからね。......ええっと、このハン・ゾロさんはキャンプ中、クマに襲われて動かなくなってしまったみたいです」
ルーメンスは氷の下部に打ち込まれた、プレートの文字を読んで言った。
「ちなみに、ここで氷付けになった後、延命措置を受けられた人はどれくらいいるの?」
エナが服装もまちまちの不統一な氷を眺め、素朴な疑問を口にする。
するとルーメンスは照れ臭そうに、ぽりぽりと後頭部をかいた。
「いやあ、それがまだ一人もいないんです」
そこを一言で表すなら、断頭台だった。
ベルトコンベアで運ばれてきた入館者たちが、培養液で満たされた容器の中に落とされ、次々と首を切断されている。切り離された頭部は頭蓋骨を割って、脳髄を引きずりだし、水流に乗って次のセクションに送られていく。首から下はレーンの横穴に吸い込まれ、捨てられていた。
「ここでは神聖な脳髄だけを選別しています。どうです、魂が肉体から解き放たれるその様は。神々しいと思いませんか?」
ルーメンスは陶酔したように、うっとりとした表情を浮かべる。
「あの身体はどうするの?」
エナが乱暴に捨てられる、首のない胴体を指差して聞いた。
「ああ、あのゴミですか。他の材料と混ぜ合わせて圧力を加え、この施設を稼動させる燃料にします」
「ふーん」
エナは絶え間無く上下するギロチンを眺めながら頷く。
「......おい、もうここは良い。次に行こう」
それまでずっと黙り込んでいたテオが、眉間を指でつまみながら、耐え兼ねたように言った。
最後に訪れたのは、小さな水槽がずらりと積み重なって並ぶ、吹き抜けの部屋だった。水槽は数本のチューブで繋がれ、頭上の巨大な機械に繋がれている。その隙間の空間には、まるで網目を張るように、縦横に手摺り付きの足場が設けられている。
「いよいよお待ちかね、ここが命の館の中枢です。素晴らしい光景でしょう」
ルーメンスはオーケストラに向かう指揮者のように、優雅に両腕を広げた。
その背後には、先の見えない水槽の行列が、ずっと遥か奥の方まで続いている。
「延命装置に接続された脳髄は、半永久的に生き続けるのです。老いからも病からも解放された、永遠の楽園です」
「この脳味噌に意識はあるのか?」
テオは培養液の中に浮かぶ、灰色の物体に顔を寄せて尋ねた。プカプカと漂うシワシワのそれは、新種の生物といわれても納得してしまいそうだ。
「もちろん、ちゃんと意識も記憶も保持されています。そうでなければ、死んでいるのと変わりませんからね」
「すごい!」
エナが手を叩いて、子供のようにはしゃいだ。
「もしよければ、実際に試してみますか?」
「本当に? ありがとう!」
「実は、曾祖父がここにいるんです」
ルーメンスは悪戯っぽく、片目を閉じてみせた。その仕草はやはり、どことなくマスターを思い出させるものだった。
三人は通路をしばらく歩いた後、ある水槽の前で立ち止まった。
「じゃあ、いきますよ」
ルーメンスが柔らかく微笑みながら、水槽脇のスイッチを押す。
少し間を置いて、スピーカーからくぐもった声が聞こえてきた。
「......誰かそこにいるのか? た、頼むからワシを殺してくれ! この牢獄から解放してくれ......!」




