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みづきさん

作者: 葉山

 彼女が海へ入っていくのをなぜか止めようという気は起きなかった。

すべてを押し沈めてしまいそうなどんよりと暗い空が今にも泣き出しそうに見えた。


 ちゃぷちゃぷと水が足を濡らす。濡れた砂が足を沈めていく。ああ、服が濡れるなあなんて思いながら彼女からどうしても目が離せなかった。ゆっくりゆっくり彼女は海水に浸かっていく。足に纏わり付いていた砂は進むごとに彼女から離れていった。彼女が大きな歩幅で進めば水面がちゃぽんと音を立てる。二、三歩で足が浸ればあとは足首、ふくらはぎ、膝、太腿、腰。すいすいとなんの戸惑いもなく進んだところで少し俯き動くのをやめた。ふわふわ水中で膨らみ揺れるスカートを眺めているらしかった。いつも非常階段の踊り場で回っていた。僕が彼女と出会ったのも非常階段で、くるくる回るのが好きでいつもそこにいた。回る時にふわりと軽く広がるスカートとふよふよと水中に浮かぶそれが似ているからだろうか、じっと見つめて手でちゃぷちゃぷ水面を揺らしたあと横の髪を耳のほうへかきあげてまた進む。


 茶色で傷んだ肩までの髪が海水を吸い始めた頃、ぴたりと彼女はまた動きを止めた。ざざんざざん。奥でゆらゆら。不安定に彼女の体は揺れ続けた。あれ程躊躇なく進んでいた彼女の原動力はどこへやら。


「みづきさん」

「…なあに」こちらを振り向かずに応えた。

「どうしたんですか」

「どうもしてないよ」


言い終わらないうちにすかさず言葉を重ねられる。いつもの余裕が全く感じられない。

え?ちょっと待て、待って。

どうして、そう言いかけるものの声の震えでまともに言葉が出てこなかった。もう一度軽く息を吸ってから言葉を吐く。


「どうして、今日僕を誘ったんですか。こういうことは彼氏さんにしてもらえばいいでしょう」


今度は彼女が言葉に詰まった。


「そうね、」


 彼女は間を空け、震えた声でそう呟いたあとまたゆっくりと進み始めた。どくどくと乾いた心臓の音が耳のすぐ側で早く大きく響いて聞こえるような錯覚に陥る。今まであまり関心を持たずに見ていたはずなのに、いざというときになって彼女のしようとしていることに対しての恐怖がごぽごぽと溢れ出す。このまま進んでいけばやがて彼女の体はすべて海水に浸かるだろう。そうすれば彼女は?自ら溺れようとしている人間が制服を着たままこちらまで泳いでくるとでも?そんなことをするはずはない。きっと彼女はそのまま体の中の空気がなくなるまで進み続ける。そのために、ここへ来たのだから。考えている間にも彼女は進み続ける。気付けば髪の毛だけが水面に浮き、体は完全に海の中へ入っていった。


「…まじかよ」


そう呟くと同時に靴なんて脱ぎ捨てて彼女の方向へ向かって全速力で進んだ。どんどんどんどん走った。水を掻き分けて膝をいつもよりも高く、高くあげて。ざぱざぱと水面は音を立てて海水が口や目に容赦なく入ってきた。 もう彼女は海面から少しも出ていない。中でふよふよと揺れる茶色い髪の影だけを頼りに進んだ。


「みづきさん!」


大声を出しすぎて最後の方が掠れる。声は水中まで届いているのだろうか。彼女が上がってくる様子は全くない。ざぱざぱ泳いで進んでもう少しで、もう少しで届くかもしれない。揺れる髪。伸ばした手のなかを髪はをするりと抜ける。もう一度水面を蹴って手を伸ばす。触れた。彼女に触れた。確かに彼女だったはず。だけどさらりとするはずの髪は膜を張ってぬるりと広がっていた。彼女の綺麗な茶色い髪の色のそのまま。下をみれば彼女の体はなかった。制服だけが揺蕩い浮いている。驚き声の代わりにごぽっと口から空気が出ていった。手で水をかいて退けばバランスを崩して頭まで沈んでしまった。水の中で目を開けば傘の中から広がった何本もの触手のうちの何本かが右足に絡まっている。


くらげか、


そう思ったときには遅かった。足に絡みつく触手は量を増し、振りほどこうとした瞬間激痛が走る。右足は動かなくなり、いくら藻掻いても上に進むことはなくどんどん沈んでいった。きらきらひかる水面よりも近くで彼女が、くらげが、すこし微笑んでいるように見えた。



 次の日の朝はいつも通り7時に起きて、急な角度の坂を自転車で必死こいて登った。それでも最近は汗をかくことはなくむしろそれでちょうどいいくらいの気温だった。カーディガンもそろそろ必要かもしれない。学校の非常階段を上りながら彼女のことを思い出した。

「…くらげ、」

は…?そういえば、昨日はみづきさんに誘われて、海で、みづきさんがくらげになったのを僕は見てて、そのまま僕は沈んだはず、なのにどうして今ここにいる?みづきさんは?

悩んでも彼女のクラスを知らなかった。ただ、その日から彼女は非常階段の踊り場に来ることはなくなり数日経ってから3年の女子が行方不明になったらしいと噂が流れた。詳しく聞いてみるとその女子は行方をくらます2日前に彼氏に振られてしまったらしい。それも何やらひどい形で。噂だからなんともいえないが一つ驚いたのはその彼氏は水族館が好きで月に一度は行っていて、中でもお気に入りはくらげだったらしい。


女子の名前は仁川水月。みづきさんだった。

彼女がどうなったのか、あの日のことは本当に起こったことなのか今でもわからずじまいのままだ。

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