蝉時雨に赤い夕暮れ
アブラゼミが鳴いていた。その声はまるで警報のように、夕焼けで赤く染まった空に響いていた。
「もういいかい」
男の子の声が聞こえた。初めて聞いたような、懐かしいような、幼い声。気づいたら、僕は小学校の中庭で突っ立っていた。早く隠れなきゃ。そう思って焦りながら、僕は校庭の一本杉で待っている鬼に向けて言葉を返した。
「まあだだよ」
どこに隠れようかと辺りを見渡して、教室の窓に鍵がかかっていないことに気づいた。先生が締め忘れたのだろうか。その不注意に感謝しながら窓を越えて教室の中へと潜り込んだ。
「もういいかい」
鬼の男の子がまた叫んだ。
「まあだだよ」
窓の下で身体を小さく丸めて僕はそう応えた。ここならそう簡単には見つからないだろう。そう思って、僕はほくそ笑んだ。だけど、すぐに異変に気づいた。
蝉の声が聞こえない。
代わりに響いているのは、金属を引きずるようなカラカラという音。その音が校舎の間を抜けて中庭へと向かって来ていた。
カラカラカラカラ。
赤と黒に彩られた教室で、見つからないようにと必死で僕は息を殺した。
カラカラカラカラ。
音は、僕の後ろで行ったり来たり。近づいては離れて、離れては近づいて。
カラカラカラカラ。
鬼は探していた。僕を探していた。何のために? 殺すために。
カラカラカラカラ。
どれくらいの時間が経っただろう。不意にその音が止んだ。僕はそれでもしばらくじっと辺りをうかがって、完全に鬼の気配がなくなったと確信してホッと息を吐いた。その瞬間、声がした。
「みいつけた」
見上げると、窓から身を乗り出して鬼が僕を見下ろしていた。ゾッとするような笑顔で、安心するような笑顔で、鬼はそこにいた。夕焼けの赤。赤い鬼。
僕は金縛りにあったように動けなかった。鬼はひどくゆっくりとした動作で右手を持ち上げた。その手に握られているのは音の正体、日本刀。
おいおいそれは桃太郎の武器だろう。そんなことを考えて笑う僕の喉に、それはズブリと突き刺さった。赤い、赤い、全部が赤い。そうして僕は夕焼けになった。
目が覚めると、そこはいつもの四畳半だった。染みの浮かぶ天井を見つめてしばらくぼうっとしていると、枕元の目覚まし時計が起きる時間だと教えてくれた。
朝だよ、朝だよ、おはよう、起きよう。
何のキャラクターかも忘れた赤いペンギンが、電池が切れかけの掠れた声でそういった。僕はゆっくりと身体を起こし、そのくちばしを押し込んで黙らせた。時刻は朝の六時半。窓の外ではすでにアブラゼミが狂ったように鳴き始めていた。
「良い朝だ」
ここで暮らし始めてから増えた独り言。冷蔵庫から牛乳を取り出して、パックへと直に口をつけながらリモコンを操作。布団の上にあぐらをかいて、ぼんやりニュースを聞き流す。東京の真ん中で無差別殺人。芸能人カップルが浮気で破局。埼玉の山奥で白骨死体。ぽっちゃり女子が今人気。いじめを苦に高校生が自殺。水族館でイルカの繁殖に成功。おめでとう。おめでとう。
気づいたら夜だった。僕はスーツを着て玄関に立っていた。靴を脱ぎながら思い出して、鍵を閉めてチェーンをかけた。上着をハンガーにかけてから冷蔵庫へ。買ってきた牛乳を一口飲んでからしまい、缶ビールを開けた。畳に腰を下ろして、飲みながら漫画を読んだ。お前はあの時の。ぎゃー、やめてくれ。そんなつもりじゃなかったんだ。だけど、もう遅い。
時計の針は零時を指した。もう寝る時間だ。僕は布団を敷いて、蛍光灯の紐を二回引っ張った。まめ電の橙色が四畳半をぼんやり照らすと、僕は何だか眠くなる。布団の上に手足を投げ出して、ゆっくりと目を閉じた。
鬼さんこちら、手の鳴る方へ。鬼さんこちら、手の鳴る方へ。
彼は今日も、僕を殺しに来てくれるだろうか。