第83話 別れ
月は落ち、星は空に溶け、やがて朝日が森に差し込んだ。
誰ともなく目をさまし、夕べなにがあったかを考えているうちに体の異変に気付いた。
「傷が癒えている」
すり傷や切り傷などの軽傷はほぼ完治し、疲労は家のベッドで寝る以上に回復していた。重症の者もそれによる感染症などは起きておらず、手厚い看護を受けた後のような状態になっていた。ただ、心に空いた隙間だけは、如何ともしがたかった。
「あの娘は、いったどこに姿を消したのか?」
ハインリッヒはゲルトナーに尋ねるほかになかった。
「誰かにさらわれたとか、連れ出されたとか、そういうことではないということはわかる。しかし……」
ゲルトナーの歯切れも悪い。
「あの力はもはや人のそれではないのかもしれません」
エドモンド司祭は思ったことを口にしたのだが、それが誰かにとって不興を買うことを思い出し、口を閉ざした。
「司祭の言っているように、クリスは確かに何かの力を得たのだと思う。おそらく、闇に取り込まれたことが影響しているのだろう。その変化に彼女自身が気づき、別々の道を生きることを選択した。そういうことなのかもしれない」
エーベルハルトに嫌味の一つでも言われるかと身構えていたエドモンド司祭であったが、胸をなでおろしながらもどうしても言わずにはいられないことがあった。
「魔女とは、悪魔の使い、人を堕落させ、神の教えをないがしろにするものとして恐れられてきました。しかし、そのような存在は、はたして本当にあったのでしょうか。我々は人狼という怪物をこの目で見ました。多くの人の命が奪われ、町の人々は魔女の仕業に違いないと、魔女を探し出すのに躍起になりました。人狼という怪物がそうであるように、疫病という災難、天候不良などによる災害、いずれも神が与えたもう試練ではなく、悪しき存在が使わせた害悪、すなわち魔女が呼び寄せた凶事だと考えてきました。ひとつの事実から真実を導き出すことは難しい。人狼は確かに現れましたが、そこに魔女との因果関係があったのかといえば、私にはわかりません。私はこうして神に仕えておりますが、日々迷い、狼狽え、時に闇に心を乱されてしまいます。科学というものが、病は悪魔の仕業ではなく、病気の原因となる我々の知りえない何かよるものだとか、悪天候も何か法則性があるのだとか、いろんなことが、帝国の中で研究されております。私はそれらについて、まったくもって無知ですが、クリスティーヌ・クラウスにはわかっていたのかもしれません。彼女の見ていたものと、我々が観ていたものは違っていたのかもしれません。誰もが新しい考え方や物の見方を受け入れられるわけではありません。魔女狩りとは、時に、そのような可能性をいくつも潰してきたのかもしれません」
みんながエドモンド司祭の言葉に耳を傾けていた。
「でも、だからと言って、これでいいだなんて、僕には思えない」
ジャンは一人、声を荒げて言い放った。
「こんなの、こんなの、僕は認めない」
ジャンは荷造りを始めた。
「そんな身体でどこに行くつもりだ。ジャン」
ハインリッヒがジャンに掴みかかる。
「決まっています。クリスを探しに行ってきます」
「馬鹿な真似はやめろ。だいたい宛があるのか」
掴まれた腕を振りほどいたジャンを今度は容赦なく強く抱え込んでハインリッヒが吠えた。
「お前も彼女の声を聴いたのだろう!」
ジャンの身体がこわばる。
「たとえあの子を見つけることができても、連れ戻すことなどできない。それがわからないお前さんでもないだろう……ジャン・フォンティーヌ!」
ジャンはぐっと涙をこらえた。ジャンの身体の震えがハインリッヒに伝わってくる。
「若いの。この世に運命の出会いというものがあるかどうかは知らん。しかし、避けられぬ別れというのは、確実にあるのだよ。この数日間、お前さんもワシも、それを十分すぎるほど経験してきた。そうじゃないかね」
エーベルハルトはそういうと身支度を始めた。
「エーベルハルト様……」
「ワシにはまだ、やることが残っている。銀の人狼との決着がな」
エーベルハルトは黙々と準備を始めた。誰もが信じられないという顔でその様子を眺めていたが、不意にこちらに向かってくる馬車の音が聞こえてきた。
「あれは、帝国のほうからだな」
「馬車が数台、それに騎馬隊のようです」
ハインリッヒはすぐさま馬に乗り、様子を確かめに行った。ゲルトナーも後に続く。
「ハインリッヒ様、ご無事でございますか!」
馬車の護衛についていた騎馬隊は、よく知る者の顔だった。
「オイゲン・リッターか!」
「枢機卿の命により、お迎えにあがりました。医者も連れておりますれば、負傷書の手当てが必要であればすぐにでも準備させます」
ハインリッヒとゲルトナーは顔を見合わせ、怪訝な顔をした。
「どうか、なさいましたか?」
オイゲン・リッターは何か不都合なことでもあったのかと心配になった。
「いや、なんでもない。ちょうどいいところに来た。すぐに医者の手当てが必要な者がいる。戦闘はひと段落した。あとは帰還するだけだ。負傷者と遺体を収容してな」
オイゲン・リッターは部隊に的確に指示をだし、ハインリッヒと合流した。ハインリッヒは援軍を歓迎したが、枢機卿の手際の良さに不気味さを感じていた。
「本当に行かれるのか? エーベルハルト殿」
「ふむ。枢機卿には申し訳ないが、ここからはワシの問題じゃ。ついでにもし、あの娘に会うことがあれば、それはそれで考えよう。ジャン・フォンティーヌよ。これでお別れじゃ。お前さんには亡き父と、クラウス親子から何かを受け取っているはずじゃ。それを大事にすることじゃ」
「僕が、受け取ったもの……、父さんと、アベルさんと、クリスから……」
「エーベルハルト殿、それは困る。私の使命は――」
エドモンド司祭はエーベルハルトに駆け寄ったが、馬に乗ったエーベルハルトは司祭に背を向けた。
「さらばだ。もう会うこともあるまい。司祭にはいろいろと世話になった。心から礼を言う」
「エーベルハルト様、どうかご無事で」
「ふんっ! 心配にはおよばん」
「もし、クリスに会えたのなら、伝えてください。僕はいつでもクリスのことを見守っていると」
ジャンは老練なハンターの大きな背中に向かって一礼した。
「ああ、伝えよう。達者でな」
エーベルハルトは森の中へ消えていった。その後姿をハインリッヒらは敬礼をし、エドモンド司祭は祈りをささげ、ジャンはその後姿を脳裏に焼き付けようと熱い視線で見送った。
「では、我々も行くとするか」
ハインリッヒはエドモンド司祭らと帝国への帰路に就いた。
ジャン・フォンティーヌはローヴィルに戻り、長老たちを集めて、すべて終わったことを告げた。フォンティーヌ邸で眠るアベル・クラウスの遺体はその後丁重に葬られた。
"クリスティーヌ・クラウスは、オデットと同じように森の中で人狼によって食い殺された"
ジャンは遺体の状態が酷かったので、その場で埋葬をしたとエドガー司祭に説明し、形見の品としてクリスの髪の毛を渡した。司祭はそれを棺に入れ、父アベルとともに埋葬した。
ローヴィルの町が平穏を取り戻すのは、まだ数週間後のことである。