第82話 月光
「もうこれで、何も心配はいらんということなのかな? エーベルハルト殿」
エドモンド司祭は遠慮しがちに話しかけた。エーベルハルトは見るからに披露しており、何歳か老けこんで見えるほどであった。
「少なくとも我々の命の危険はないと考えていいでしょう」
エドモンド司祭は安どの表情を浮かべたが、であればなぜ、町の中のそばで野宿をしなければならないのかという不満はあった。
「今、町の人々にあれこれ聞かれても、正直、面倒なだけだ」
ハインリッヒは、エドモンド司祭に答えようと口にしたわけではない。『なんとなく』が、口をついて出てしまうほどに疲弊していただけである。
「そうでございますな。兵も馬も、ゆっくりと休ませなければなりませぬ。かく言う私も、休息が必要です。それに……」
ゲルトナーは負傷した部下たちをいたわりながらも、自ら抱え込んでしまった疲労感と向き合っていた。
ローヴィルにクリスティーヌ・クラウスを連れて行くわけにはいかなかった。多勢に無勢。市民が大挙して少女を魔女狩りの対象としてとらえようとしたならば、とても抑えることはできない。町から離れすぎず、また、万が一には町に戻れるような場所に野営するのが得策である。おそらく日が沈んでいる間は町の人々は家から一歩も外に出ないであろう。
「御嬢さん様子はどうだ」
ゲルトナーはクリスが休んでいるテントの前に座り込んでいるジャンに声を掛けた。
「あれだけ怖い目に会ったのです。精神的に相当堪えているのだと思います。ですが、やはりそれだけではないのでしょうね。クリスの怯え方は……」
ゲルトナーは考えた。できることなら女性に看護を任せたい。しかし、ここではそれもままならない。早く帝国に帰還しなければならない。そこにエーベルハルトが現れた。
「彼女から目を離すなよ。疲れているのはわかる。必要ならば他のものと交代でもいい」
「大丈夫です。僕はこんな身体で、他に役に立ちそうにありませんから。これだけは僕にやらせてください」
「帝国に行けば、クリスは医者に診てもらえますか?」
「そうだな。それは我々が何とかする」
エーベルハルトは、ジャンを力づけ、そしてハインリッヒとゲルトナーに目で合図を送った。
「苦労性だ、心配性だといわれるかもしれんが、どうも、これで幕が下りたとは思えない。すまないがあの御嬢さんを無事に帝国に連れて行くまではくれぐれもお願いする。」
「殺気のようなものはこのあたりからは消えました。しかし、どうにも空気が重い。用心するに越したことはないでしょう」
ゲルトナーは周りを見渡しながら言った。
「それは任せてください。しかし、エーベルハルト殿にはなにか、特別気になることでもおありか? もし差支えがなければ、そのあたりのことをお話しいただけると、こちらも動きやすい」
「確信はないのだ。ワシとエドモンド司祭は枢機卿の命を受けてこの地に訪れた。枢機卿がいかにして、この地の異変を察知したのか。また、ハインリッヒ殿を時間差で、それも敵と渡り合える最低限の人員で派遣したのか。枢機卿は常に先を見越して手を打っている。この状況も予測しているとしているのであれば、また、なにかしらの動きがあるかもしれない。そしてそれが必ずしも、我々に好意的であるとは限らない。ワシはそれが気がかりなのだ」
エーベルハルトは顎鬚をいじりながら信頼できる二人の戦友に思うところを話した。
「なるほど。そういうことであれば、備えはしておきましょう。クリスはテントではなく、馬車に移して休ませた方がよいでしょう。いざという時に、すぐに移動できるように」
ゲルトナーは、すぐに手筈を整えた。
「エーベルハルト殿、私は楽観主義者です。おっしゃるように枢機卿の異常なまでの手際の良さは不気味ではありますが、だとすれば、おそらく援軍、それも我々を戦場から離脱できるような取り計らいをしてくるように思えます。その意味では、無理をしてでも先に進むという選択肢も考えてみてもいいでしょう」
ハインリヒは熱心にそう信じ込んでいるわけではなかった。しかし、マイナスの要素だけに目を向け、プラスの要素を信じないのは、それはそれで選択肢を自ら狭めることになる。エーベルハルトの意見に賛同はするが、アンチテーゼも提示する。いつもはゲルトナーがハインリッヒに対してやっていることである。
「そうだな。世の中悪いことばかりじゃない。歳を取るとどうもいかんな。なんでも裏があるように思えてしまう。あの夜空に浮かぶ月のように、見えているのは一部でも、その陰には見えていない真の姿があるなどと思いがちなのだよ」
エーベルハルトの視線の先には鋭くとがった月が浮かんでいた。
「明日の夜は新月になりますか。夜は動かないほうがいいでしょうな」
ハインリッヒはエーベルハルトに一礼をし、野営地の周囲の様子を見に向かった。
テントからクリスが担ぎ出された。クリスは意識がはっきりしないが、どうにか人に寄りかかって歩くことはできた。頼りなさげな月の灯りにクリスの金色の髪が光る。いざ馬車に乗り込む手前で急にクリスが足を止め、前に進むことを拒んだ。
「お願い、少しだけ。少しだけ月を見ていたいの。いいかしら」
クリスは抱えられた体を少しずつ、自分の足に重心をかけ、ついには自分の足だけで立つことができた。ジャンは一歩引いて、いつでもクリスを支えられる距離で見守っていた。さっきまで立つことがやっとといったクリスの表情は次第に和らぎ、月明かりに美しく輝き始めた。その場にいた誰もがクリスの姿に目を奪われ、我を忘れた。
ハインリッヒが異変に気付く。
「蛍か……」
馬車から少し離れたとこりにいたハインリッヒは、森の中から蛍が野営地に向かって飛んでくる様子に違和感を覚えていた。
「まるで、何かに呼び寄せられるように……」
気が付くとハインリッヒは蛍の光の尾を追いながら、野営地の中心に向かって歩いた。
「美しい……」
ハインリッヒの視界には蛍の光の他に、恍惚とした表情の部下やあっけにとられたエドモンド司祭の姿が目に入ったが、意識はすべて光に向けられていた。
ハインリッヒが光のもっとも強く輝く場所にたどり着いたとき、囁くような優しい声がどこからともなく聞こえてきた。
「ありがとう……、そしてさようなら。私はもう、ここにはいられないの」
それはすすり泣くような声でもあり、いたわるような声でもあり、悲しみと慈しみがまじりあい、やさしさに満ち溢れていた。
「これは、いったい……」
エーベルハルトは光の中にいた。その光はあまりにも温かく、そしてやさしく、汚れなく、無垢であったので、まるで抗うことができなかった。
「神よ……」
エドモンド司祭はその言葉とともに意識を失った。
「クリス……、ダメだよ。クリス……」
ジャンは泣いていた。その光がやさしければやさしいほど、ジャンの涙は止まらなかった。
「闇と……、光と……、そして命と」
クリスの言葉がその場にいる者の耳にではなく心の奥底に沁みてきた。
「私の願い、私の命、私の光、私の闇……、そう。これが私」
まばゆい光とともにクリスの姿は消えた。
エーベルハルトは銃を抱えて、ハインリッヒは馬車にもたれかかり、ゲルトナーは負傷した部下を抱きかかえながら、エドモンド司祭はひざまずき、ジャンは馬車の荷台に横たえていた。
夜が明けるまで、誰も目を覚まさなかった。