第80話 光と闇
「触れてはならん!」
銀の人狼は人の姿となり、闇に包まれた金髪の少女を助け出そうとした老練なハンターを静止した。
「グスタフ……、やはりグスタフか」
エーベルハルトはクリスに差し伸べようとした手をゆっくりと引き、目の前に立っている巨躯を眺めた。
「ふん、化け物め。ワシがこれだけ歳をとったというのに、お前さんはあの頃のままじゃな」
エーベルハルトは白いものが混じった顎鬚つかみながらいつでも戦闘を開始できるようにゆっくりと気を溜めていた。
「もはや我らに争う理由はないのではないか。今はともに背負う者が違うようだ。我は闇の眷属。黒き願いを叶える者」
「その闇の眷属が、どういうわけでこの娘を助けるのだ」
「闇に属する意志を持つこの娘は願った。これ以上この場所で誰一人死なせたくないと。そのためなら魂を捧げると」
グスタフの右足からは相変わらず黒い血が流れ出している。圧倒的までの存在感を示す巨体だが、その覇気は著しく損なわれていた。
「それで、どうすれば彼女を救えるのだ」
エーベルハルトは決して気を緩めない。グスタフとの間合いを常に計り、どんな体勢からでも引き金を引けるという意思表示をあえてグスタフに向けていた。
「この闇に触れれば、そのものは闇に囚われる。抗うことはできない。だがこの娘はどうだ。完全に取り込まれてはいない。それはすなわち、この娘の中にも闇が存在していることを意味する」
「クリスティーヌ・クラウスの……心の闇か……」
エーベルハルトは心の隅にあった漠然とした不安の正体がなんであったのかわかった気がした。
「闇を知らぬものは闇を恐れる。闇を持たぬものは、闇を拒絶する。父親がそうであったように、娘もまた人知れず闇を抱えていたわけか」
「親元を離れ、遠縁の親戚に預けられていたのだろう。我は人の心の闇を見ることができる。そこでどのようなことが起きたのか。この娘が何を恐れ、どう克服したのか。そして自ら抱える闇をどう制御してきたのか。テオドールがそうであったように、この娘も同じように闇を抱えていたのだ」
「では、どうなるというのだ! グスタフ! まさかクリスは……」
「このまま見守るしかない。闇に打ち勝つ力があれば、意識を取戻し、闇を従えるだろう。そうでなければ永遠に目覚めることはないだろう」
エーベルハルトは銃をグスタフに向けた。
「何もなすことなく、ここを立ち去ることはできぬ」
グスタフは微動だにしない。
「では、そなたも闇に願うか? この娘を救うために我に願うか」
エーベルハルトの体は硬直した。今もしグスタフがエーベルハルトに危害を加えようものならまともに応戦することなく命を落としただろう。老練なハンターは闇の眷属に恐怖した。エーベルハルトは銃をおろし、顎鬚が隠した喉元の傷をさすった。あまりの痛みに体が震え、その場に立っていられなくなった。銃を杖代わりに強く握り、どうにか片膝だけ挙げられているが、片方の足はついに地面に落ちた。息が上がる。自分の鼓動で周りの音が聞こえなくなる。
「人よ。それでよいのだ。闇を恐れ、闇を忌み、闇を避け、闇を照らすのだ。それが人の生き方よ」
グスタフはゆっくりと身を屈めクリスを包む闇に手を伸ばす。
「我闇の眷属なり……」
クリスにまとわりつく闇がざわめく。
「我闇の眷属なり……」
右手が闇に触れ、その闇がグスタフの手のひらからじわじわと腕を伝わり登っていく。まるで蟻の集団が太い幹を上っていくような光景をエーベルハルトはじっと見つめていた。
「我闇の眷属なり……」
クリスはその声を聴いた。そしてその声がどの方向からしているのか必死で探そうとしたが何も見ることはできなかった。
「私は、眠っているのかしら、それともどこか深い穴の中にでも落とされたのかしら。まるで何も見えないわ」
ゆっくりと両手を顔に持っていく。口元からゆっくりと確認していく。頬、鼻、そして目。確かに目は開いている。開いているけれど何も見えない。
「何も見えない。何も聞こえない。何も感じない」
クリスはその言葉を繰り返した。
「何も見えない。何も聞こえない。何も感じない」
クリスの記憶の底に封印したどす黒い何かが、脊髄を伝わってじわじわと上ってくる。
「駄目よ。いや、何も見ない。何も聞かない。何も感じ……」
全身に鳥肌が立つ。足元から粘着質の湿った何かがゆっくりと這い上がってくる感覚。
「いや、やめて。お願い。お願いだから……」
耳元で激しい息遣いが聞こえる。湿った生暖かい空気が耳の穴から侵入し、脳を揺さぶる。
「どうして、こんなことを……、私は……、嫌なのに」
目の前の闇が何かの形を生成する。そのおぞましいものから目を背けようとしても体の自由がきかない。何か強い力で両腕を抑えられている。息ができないほどの何かが胸を圧迫する。
「助けて……、誰か助けて……」
声にならない声を上げ、必死に抵抗するが絶望という言葉が頭のなかでぐるぐると回り始める。
「どうして、私を、独りにしたの……、お父さん、助けて……」
息苦しさに耐えかねて口をあけてどうにか空気を吸おうとしたが、その口には黒く光るおぞましいものが口を塞ぎ、クリスののど元まで入ってくる。クリスの目に涙が浮かぶ。その涙の色もまた、黒かった。
「このまま、落ちていくのね。私は……、嗚呼、神様、どうか助けてください」
別の何かが耳元で囁く。
「無駄よ。神なんて存在しない」
その声には聴き覚えがある。クリスは胸が激しく締め付けられる感覚に襲われる。
「あなたも知っていたのでしょう。神様なんていないってこと」
いつもそばかすを気にしていたクリスの親友。チャーミングな赤毛のオデット。魔女裁判の末に忙殺されたオデット・リシャールの声だった。
「知っていたのなら、もっと早く教えてくれたらよかったのに。あなた、ずるいわ。私があんな目に会ったのも、もとはといえばあなたのせいじゃなくて? クリスティーヌ?」
「違う! あなたオデットじゃない。オデットのふりをして、彼女の魂を汚すなんて許せない!」
「許すも許さないも、あなたももうじき闇に落ちる。深い、深い闇に……」
クリスは自分の体がゆっくりと下に落ちていくのを感じ始めた。抵抗しようにも何も掴まるものがない。踏ん張ることができる地面もない。
「まるで水の中みたい……」
クリスがそう思った瞬間、まったく息ができなくなった。必死にもがいても泳ぐことができない。
「これで、水からあげて生きていれば魔女ということになりましょう。普通の人であれば生きているはずがございませんから。仮に命を落としてしまったとしたら、それはもう不幸な事故です。しかしそれによって彼女は魔女でなかったと証明され、その魂は神のもとに召されるでしょう」
「私、魔女なんかじゃない! 魔女なんかいない! 神がいないように、悪魔もいないのよ! どうしてそれがわからないの」
「神がいないなどと、この娘はやはり魔女に違いない! 悪魔の手先め! 正義の鉄槌を下してやる」
何かが焼け焦げる音、足元に熱を感じる。体は何か柱のようなものに縛り付けられているが、どうやら目隠しをされているようで、何も見えない。
「魔女を焼き殺せ!」
大勢の人の怒号が聞こえる。侮辱的な言葉を浴びせ、罵倒する。
「痛いっ!」
石ころが投げつけられ、額から生暖かいものが流れ出す。しかし、そんなことを気にしている余裕はなかった。いよいよ足元の炎は、衣服に燃え移り、煙で息ができないほどになっていた。
「いや、助けて、お願い。私は魔女なんかじゃない。私は……、私は……」
「神を信じるか?」
静寂
「何も見えない。何も聞こえない。何も感じない」
闇
「何も見えない。何も聞こえない。何も感じない」
無
「何も見ない。何も聞かない。何も考えない」
死
「私は、死を、受け入れない」
苦
「それでも、私は生きる。生きることをあきらめない」
記憶
「どんなに理不尽を押し付けられても、どんなに辱められても、私はいきることをあきらめない」
光
「光なんてなくてもいい」
希望
「私は何も望まない」
生
「それでも私は生きていく」
命
「私は命の力を信じる」
「この剣を持っていなさい。それは何かを傷つけるための道具じゃない。大事な何かを守ろうとするとき、きっと力になってくれるだろう。私はお前を信じている。私はお前を愛している。わかるね。クリス」
アベル・クラウスは娘の心の闇を知っていたのかもしれない。彼もまた、心に闇を持つ者であればこそ。
「お父さん……、ありがとう」
クリスは銀に輝く短剣を握りしめた。
「我闇の眷属なり……」
「聞こえるわ。あなたの声……、銀の人狼の声」
「その剣で闇を切り裂き、手を伸ばすのだ」
クリスは、言われたとおり剣を闇に向かって振りおろした。そこにわずかな光の隙間が見えた。
「私は、まだ、死ねない」
思い切り剣を光の隙間に向かって突き刺す。腕の先が闇の壁を抜ける。
「今だ! 引き揚げよ!」
グスタフの声にエーベルハルトは瞬時に反応した。闇の塊から突き出た銀の短剣を握ったクリスの右腕を掴み、一気に引き上げた。
死臭があたりに散らばる。クリスの身体には、赤黒い粘着質の液体が付着していたが、外の空気に触れると見る見るうちに蒸発していった。
「クリスティーヌ、無事か! 生きているか!」
エーベルハルトはクリスを抱きかかえ必死に呼びかける。血の気の失せたクリスの顔色がみるみる回復していく。仮死状態から蘇生していく。老練なハンターは、胸をなでおろし、グスタフを見上げた。
「グスタフ! 貴様、大丈夫なのか!」
グスタフの身体に闇が絡まりついている。グスタフはゆっくりと立ち上がり、二人に背を向けた。
「我、闇の眷属なり……」
グスタフにまとわりつく闇もまた、少しずつ蒸発していく。
「さらばだ」
グスタフは森の中に姿を消した。