第79話 追撃
「結局、僕はクリスを守ることができなかった」
ジャン・フォンティーヌは折れた腕の応急手当を受けながら、力なくつぶやいた。
「お前さんはもっと自分を誇らしく思っていい。私は今回多くの部下を失った。マルクス・ブランドはお前さんやあのお嬢さんを助けようと、尊い命を犠牲にした。そうまでして部下が守った命を、私はこの任務が終わるまで、絶対に守りとおさなければならない。お嬢さんのことは心配ない。必ず救い出してみせる」
ハインリッヒは、手を休めることなく、淡々とジャンに話しかけた。その言葉はジャンをはっとさせた。周りを見渡すと、そこには傷つき満身創痍で歩くこともままならない者、指先を負傷し、二度と銃は扱えない者、そして命を落とした者までいる。彼らはいったい誰のために戦い、傷つき、命を落としたのか。まるで考えたことはなかった。
「すいません。僕は自分のことばかり……」
ジャンはすがるような目でハインリッヒに許しを請うた。
「帝国の騎士は、守るべき者に対して命を掛ける。それだけのことだ。お前さんは我々と一緒に戦った。敵をどれだけ撃ったか。そんなことは問題じゃない。お前さんがいなければ損害はもっと大きなものになっていただろう。自分の存在や、やったことを無駄だと責めることはない。非力だったとしても、決して無駄ではないのだよ。現にこうして我々は生き残り、お嬢さんも敵の手にあるとはいえ、まだ健在。それを追撃する戦力も多少残されている。希望を捨てるな。あきらめた者に、決して女神は微笑まない」
ハインリッヒはジャンの腕に添え木をし、しっかりと布で固定し終えると、ジャンの肩を二回軽く叩いた後、マルクス・ブランドの遺体に祈りを捧げているオッペンハイムのそばに歩み寄った。
「実に、勇敢な騎士でした。無念です」
オッペンハイムは静かに立ち上がり、他の負傷者の様子を見に行った。ハインリッヒはマルクス・ブランドの傍らにひざまずき、静かに祈りを捧げた。
老練なハンター、アウグスト・フォン・エーベルハルトは二頭の怪物を追って森の中に入っていった。足跡や折れた枝、木の幹につけられた爪あと、そして血痕。銀の人狼を撃ってからかなりの時間が経過しているが、まだ傷は癒えていないようだ。一方の黒き人狼の傷も浅くない。銀の弾丸は驚異的な治癒力を無効にし、確実にダメージを与えている。しかし致命傷負わせるのは容易なことではない。
「風がほとんど吹いていないのはありがたい。ある程度奴らに近づくことができる。しかしクリスが人質となるとよほどの至近距離出なければ撃つことはできん」
人狼と自分の距離がどのくらいであるのか。逃げる黒き人狼がまっすぐ進むとは限らない。下手をすれば方向を変えて正面から鉢合わせという可能性も考慮に入れなければならない。黒き人狼と銀の人狼。同時に二頭相手にしなければならなくなったとき、どうするのか。エーベルハルトの中ではすでに決まっていた。
「うん? このあたりで一戦交えたか」
気がなぎ倒され、あちこちにはっきりとした爪あとが残っている。そして血痕。
「近いな」
エーベルハルトは気配を消して、慎重にあたりを見渡した。戦闘は移動しながら行われている。警戒の範囲を10メートル、20メートルと広げ、少しずつ前に進む。幾多の戦場を駆け巡ってきた老練なハンターの嗅覚が警戒信号を出す。
「これで決める」
強い決心を胸に、エーベルハルトは戦場へと踏み入った。
エーベルハルトがいる場所から30メートル先。ついに銀の人狼は、黒き人狼に追いついた。黒き獣は金色の髪の少女を負傷した右の腕で抱え込んでいる。
「グスタフ、貴様、この女に用があるのか、それとも俺様に用があるのか」
金髪の少女は気を失っている。
「我、闇の眷属なり。月の灯りとともにその姿を獣と変え、黒き願いを聞き、闇に落ちる魂を狩る者なり」
銀の人狼は身を屈めながらゆっくりと黒き人狼に近づく。
「この女の願いはなんだ。どんなおぞましいことを望んだ」
テオドールの左の爪が少女の美しい髪を撫でる。銀の人狼の足が止まる。
「この世の理に背き、神に背を向け、光を失うことになろうとも願う者」
二頭の獣の距離は5メートル。そのわずかな差の中にエーベルハルトが入り込む。老練なハンターは銀の人狼の背後から狙いを定める。エーベルハルトはその大きな背中に殺気を込める。銀の人狼の獣毛が背中から首筋にかけて逆立つ。
エーベルハルトはやや右に照準をずらす。エーベルハルトの視線の先には銀の人狼を突き抜けて、金髪の少女を右手に抱える黒き人狼の心臓を捉えていた。エーベルハルトの耳にはおぞましい獣の心音が届いている。ゆっくりと静かに引き金を引く。その動作に合わせて銀の人狼が動き出す。身を少し屈め、重心を下げながら前へ突進する力をため込む。黒き人狼はその動きに反応し、迎撃の構えを取る。三者の呼吸が一点で重なる。
銀の人狼が前に飛び出す。銃声。黒き獣は銀の人狼の咆哮に異音が混じっていることに気づきはしたが、前もって予定していた動作を簡単には止められなかった。銀の人狼に対して、少女を盾にすることの有効性をそれほど信じていなかった黒き人狼は、少女を前方に放り投げ銀の人狼の突進するスピードを殺そうと考え、両腕で少女を持ち上げた。
そして黒き人狼は見た。前かがみに突進してくる銀の人狼の背後に老練なハンターの姿を。
「なんだと! あのハンターか!」
ズドーン!
銀の弾丸は黒き獣の分厚い胸板に命中した。黒き人狼は体勢を後ろにそらされたがかろうじて踏みとどまり、当初の予定通りに金髪の少女を向かってくる銀の人狼に放り投げた。銀の人狼は進行方向を右にずらし、大きな木の幹にとび蹴りを浴びせるようにして急激な方向転換を試みる。銀の弾丸が埋まった傷口から大量の血が噴き出す。
間一髪、少女が地表に叩きつけられる前に銀の人狼は少女を受け止めた。金色の髪の毛が銀の人狼の獣毛に絡みつく。
グワァー!
黒き人狼は人の姿に戻っていく。体中から瘴気が吹き出し、周囲の草花を枯らし、土を腐らせる。
「あれが、奴の正体か」
老練なハンターは銃を構えたままゆっくりと近づいた。
「なんと禍々しい。テオドールが食らってきた黒き魂が解放されていく」
銀の人狼は、少女を静かに地面に下して、テオドールにとどめを刺そうと歩き出した。
「グ、グスタフよ……、こんな最後は認めん。すべて闇に引きずり込んでやる」
テオドールは、銀の弾丸が埋め込まれた胸に右手を突っ込み、心臓ごと弾丸を取り出した。
「な、なんと!」
さすがの老練なハンターもその異様な光景にあっけをとられた。
「その娘の魂は、俺の闇に取り込んでやる」
テオドールは自分の心臓を右手で握り潰し、断末魔の声を上げた。それと同時に大量の黒い瘴気の塊がクリスめがけて襲い掛かる。
「しまった!」
グスタフは身をひるがえして少女を守ろうとしたが、いよいよ足の自由が利かなくなっていた。
「クリス!」
老練なハンターは闇に向かって銃を構えるのが精いっぱいだった。彼の神経もまた、果てしなく衰弱していた。
金髪の少女は闇に取り込まれた。