第78話 クリス救出
「我は、闇の眷属なり」
銀の人狼は、どす黒い血を流しながら、ゆっくりとクリスティーヌ・クラウスのいる小屋の方向に向かっていた。
「強く願う者よ。我を欲するか。闇を受け入れるか」
銀の人狼は、立ち止まり、神経を集中させた。
「邪悪な気配、テオドール。どこまでも邪なやつよ」
銀の人狼は一気に駆け出す。それは銀の弓矢が意思を持って森の木々を避けながら飛ぶようであった。
テオドールは、恍惚の表情を浮かべながら叫んだ。
「グスタフ! 遅かったなぁ!」
テオドールもまた、銀の人狼の気配を感じ取っていた。
「まず、娘を食い殺す。その次はお前の血肉を食らい、俺はすべてを飲み込む」
テオドールは部下に目で合図をし、小屋の扉をこじ開けるように指示した。
「さぁ、お嬢さん。デザートの時間だ」
人狼は思い切り扉に向かって体当たりをした。扉がきしみ、人狼の圧力に耐え切れずにぎしぎしときしむ。
「さぁ、いよいよご対面だ」
人狼はこん身の力を込めて扉をぶち破った。そこには金色の美しい髪をした少女が立っていた。
「始めまして、お嬢さん」
人狼は、大きく口を開き、少女を威嚇した。しかし、クリスは涼しい顔で応えた。
「始めまして、さようなら」
「ぎゅあー!」
それは人狼の悲鳴であった。
クリスは油をしみこませたシーツを洗濯紐にかける要領で、人狼にかぶせた。シーツの油が人狼の獣毛に染み込む。そこに暖炉の火を投げつけた。扉の前にはあらかじめ油が引いてあり、人狼は上から下から炎上した。
「熱い! 熱い!」
獣毛が焼ける臭いが小屋中に充満する。人狼は後ずさりし、地面でのた打ち回りながら、テオドールに助けを求めた。
「テオドール様! 火が! 火が!」
炎に包まれながらテオドールの足をつかもうとした人狼の手は、テオドールの大きな足によって踏みつけられた。
「自分の不始末自分で消せ! この愚か者が!」
「ぐわゃぁー!」
それは痛みや熱さによってあげられた悲鳴ではなく、テオドールに対する怒りであった。人狼は炎に包まれながら悪鬼のごとく仁王立ちし、テオドールに対して敵意をむき出しにし、ついにとびかかった。
テオドールはそれを真正面で受け止めた。力の差は歴然であったが、人狼も抵抗をやめない。
「その程度の力では俺様の役には立たん。しかし……」
テオドールは体勢をくるりと入れ替えた。人狼の位置とテオドールの位置が入れ替わった。
銃声が時間差で二発、そして人狼の断末魔の声が森の中に響き渡る。
「あいつ、仲間を盾にしやがった!」
初弾を命中させたのはハインリッヒ・フォン・オッペンハイムだ。
「あいつは前にも見たことがある。油断するな。おそらくこの群れのボスだ。手ごわいぞ」
老練なハンター、エーベルハルトは、相手の動きを見極め、盾になった人狼の急所を確実に撃ち抜いた。
「どうだ。俺様の指示に従えば、役立たずのお前でも、盾ぐらいにはなれるってわけだ」
テオドールは人狼の首元に噛みつき、血肉を食らったが、すぐに吐き出した。
「だめだ、こりゃ。生焼けだ。もっと柔らかくて、新鮮な肉がいいなぁ、お嬢ちゃん」
テオドールのどす黒い視線がクリスを突き刺す。
「クリス!」
ジャン・フォンティーヌは、負傷した兵士を抱えながらようやく叫んだ。
「若いの! 慌てるんじゃない」
エーベルハルトがたしなめる。
「背後にはまだ人狼が3体潜んでおります」
ハヒンリッヒに仕えるゲルトナーは、負傷した部下を気遣いながら周囲の警戒を怠らない。
「奴を小屋に近づけさえないように断続的に発砲する。無駄な弾は撃ちたくないが、しかたあるまい」
ハインリッヒがけん制役を引き受ける。ジャンはエーベルハルトに従って、小屋に向かってゆっくりと移動する。その背後をゲルトナーが固め、生き残った人狼の不意の襲撃に備える。
人狼4体に対して、銃をまともに扱えるのはエーベルハルト、ハインリッヒ、ゲルトナーの3人である。ジャンとマルクス。ブランドも銃を持っているが、動きの速い人狼を単独で命中させる技量はない。他の騎士団員は、負傷しているか技量が差して変わらないものしか残っておらず、使える銃の数も戦闘の中でいくつか失ってしまっていた。
「ちぃっ! まずいぞ、これは……、人狼よりも先に小屋に入りたかったところだが、こんな形で別の敵と鉢合わせとわな」
ハインリッヒは素早く弾を込める。
「かろうじて小屋への侵入は許していないのだから、最悪の状況ではないがな」
もしクリスが機転を利かせなければ、エーベルハルトらはあと2体の人狼と相対することになり、その場合は全滅も覚悟しなければならなかっただろう。
テオドールもまた、この状況を苦々しく思っていた。人間を相手にこれほどまでの被害を出したのは大きな誤算だった。テオドールの怒りは、小屋の中の一人の少女へと向けられた。
「小娘が、八つ裂きにしてくれるわ!」
テオドールの咆哮に森の中に潜んでいた人狼が一斉に動き出す。
「クリスに手を出すな!」
ジャンは、エーベルハルトの制止を振り切り、小屋に向かって駆け出した。
「駄目だ! 勝手は許さん」
エーベルハルトは、ジャンを援護するようにテオドールに向けて発砲した。
炎の壁で塞がれた小屋の中からクリスの声がする。
「ジャン、来ちゃダメ! 殺されるわ」
「僕が、君を守る」
ジャンは炎の壁を背に、テオドールの前に立ちふさがった。
テオドールは焼け焦げた人狼を盾にしながら、ゆっくりと小屋に近づく。ジャンとの距離は数メートル。テオドールがその気になれば、一回の跳躍で充分すぎる距離である。エーベルハルトやハインリッヒがけん制していなければ、ジャンの命はなかっただろう。
「お願い……、ジャンを助けて。もう、誰も失いたくないの」
クリスは祈った。神にではなく、願いを叶えし者に。
「我、闇の眷属なり。 月の灯りとともにその姿を獣と変え、黒き願いを聞き、闇に落ちる魂を狩る者なり」
クリスはその声を聞いた。ジャンもエーベルハルトも耳にした。ハインリッヒはその気配を感じ、ゲルトナーはいっそうの警戒を高めた。
「グスタフ!」
テオドールは身構え、宿敵を迎撃する態勢をとる。
咆哮、そして絶叫。
グスタフは一瞬にしてテオドール配下の人狼の首を跳ね飛ばし、はらわたを抉り出し、のど元を噛み切った。グスタフに恐れ、隙を見せた人狼はハインリッヒとゲルトナーによって射殺された。一瞬にしてテオドールは孤立した。
銀色の獣毛をなびかせ、美しく、気高く、神々しく、禍々しく、猛々しく、荒々しく、それは姿を現した。
「あれが、銀の人狼か・・・・・・」
「なんと」
ハインリッヒは銃に銀の弾丸をこめながら言葉を失いし、ゲルトナーはうなった。
「グスタフなのか」
エーベルハルトは白いものが混じった顎鬚に隠された首の傷が疼くのを感じた。かつて戦場で出会った異国の戦士。鬼神のごとき強さの前にエーベルハルトは、何もできなかった。
「じゃが、あのときのワシとは違う」
老練なハンターは迷うことなく、銃身を銀の人狼に向ける。それを見たハインリッヒとゲルトナーは黒き人狼に狙いを定める。マルクス・ブランドは、ジャンとクリスを救出すべく、小屋に向かってゆっくりと移動する。
「人間ごときが!」
黒き人狼は盾代わりにしていた人狼の遺体をゲルトナーに投げつけると同時に一気に小屋へ跳躍する。ハインリッヒはテオドールの着地点を予測して銃を構えたが、そこにマルクス・ブランドの影が重なる。
「マルクス!」
マルクス・ブランドは背後から上官の声を聞き、足を止めた。その目の前に黒い影が立ちはだかる。
ガウ!
マルクス・ブランドは黒き人狼に喉元に噛まれ絶叫した。エーベルハルト銀の人狼と対峙しながら舌打ちをした。ハインリッヒはもう一度部下の名を叫び、ゲルトナーは黒き人狼をにらみつけた。人狼はマルクス・ブランドを正面から抱きつくような形で首に噛み付き、口から血を滴らせながらゲルトナーを見て不敵な笑みを浮かべた。
「なんてやつだ・・・・・・、マルクスをかみ殺さずに愉しんでいやがる」
ハインリッヒが破棄捨てた。
「あれでは助かりますまい。ハインリッヒ様、マルクスを楽にさせてあげたいと思います」
ゲルトナーは目に怒りの涙を浮かべながらハインリッヒに訴えた。
「マルクス・ブランド! 勇敢な騎士よ! 今、楽にしてやる。ヴァルハラへ先に行って待っていてくれ」
マルクス・ブランドは、黒き人狼に肩から二の腕をがっちりと掴まれていたが、最後の力を振り絞って両手を胸の前で組み、ハインリッヒの悲痛な叫びに答えた。
二発の銃声。いずれも勇敢なる騎士の背中に命中した。着弾の瞬間、黒き人狼は、マルクス・ブランドを突き放したが、老練なハンターはその瞬間を見逃さなかった。
三発目の銃声が響き渡ったとき、黒き獣はその場に倒れて悶絶した。
グゥワー!
黒き獣は右肩を抑えながら小屋の前を転がりまわる。ハインリッヒとゲルトナーはすかさず次弾を装てんし銃を構えるが、黒き獣は炎に包まれた小屋の中に飛び込んだ。
「ちぃいっ! しまった!」
老練なハンターは致命傷を与えられなかったことに舌打ちをし、そして向き直ったときにはそれまで照準に入れていた銀の人狼の姿を見失ってしまった己を叱咤した。
ズドーン!
小屋のなかで一発の銃声。それはジャンが放った至近での一撃であったが、弾丸は獣に命中せず宙に消えていった。
「うわー!」
ジャンは悲鳴とともに小屋の外に放り出された。
「ジャン!」
小屋の中からクリスの叫び声。
ジャンは腕から血を流しながらふらふらと立ち上がる。人狼はジャンの発砲を予測し、体をかがめてジャンの懐に入って被弾を免れ、負傷した右腕でジャンの左腕を掴んで小屋の外に放り出したのである。
「さぁ、お嬢ちゃん。森の中にデートに行こうか」
クリスは、ひるまずに言い放った。
「狼なんか、怖くない!」
黒き獣は怒り狂いながらがクリスに掴みかかり、戸締りしてあった窓をぶち破り、クリスを抱きかかえて小屋の外にでた。
「畜生! 窓から逃げたか」
小屋の入り口に向かって銃を構えていたハインリッヒとゲルトナーは、物音から事態を推測した。彼らからは窓のある場所は死角になっていた。
「銀の人狼の姿が見えない。気をつけるんじゃ」
老練なハンターは、ふらふら小屋に向かって歩いているジャンの腕を掴んで制止した。
「クリスは……、クリスは」
「おそらく人質にするつもりじゃろう」
「そんな……」
ハインリッヒとゲルトナーはマルクス・ブランドに祈りを捧げ、負傷した部下の手当てを始めた。
「ここは任せた。わしは後を追う」
「僕も一緒に行かせてください」
「その腕では銃も扱えまい。足手まといじゃ」
ジャンは何か言おうとしたが、すぐにあきらめた。エーベルハルトに指摘されて、自分の体がどういう状態になっているのかを確認した。ジャンの左腕を上げることはできなかった。激痛が走り、そのまま地面にうずくまった。
「腕が折れておる。手当てをしてもらえ。クリスのことはわしに任せろ」
老練なハンターは、二頭の人狼を追って森に入っていった。