第77話 飲み込む闇
騎士団と人狼の戦闘は両者共に損害を出したものの、人狼は仲間が負傷しても意に介することなくただ相手を殺すことだけを目的としている分、騎士団は受けに回らざるを得なかった。負傷した者、武器を失った者は、格好の標的になり、エーベルハルトやオッペンハイムは的確な指示と判断によって、負傷者をかばいながら狼煙の上がった方角へ移動を始めた頃……。
クリスは小屋の周りに何かが近づいてくる気配を感じてゆっくりと戸口に近づいた。
ガタガタ、ガタガタ
誰かが扉を開けようとしている。
ドンドン、ドンドンドン
ドアを叩く音、そして男の声。
「お嬢さん、ここを開けてください。化け物に襲われて命からがら森に逃げ込んだのです」
クリスは男の声に答えた。
「ローヴィルの方ですか?」
「いえ、私は旅の行商で、ローヴィルに向かう途中で狼に襲われて……、いや、あれは狼なんてものじゃない。化け物だった」
「あの銃声はあなたが撃ったの?」
「奴らに銃は効きません。あまりにも動きがすばやく当てることができません。この小屋の中からなら、それも可能でしょう」
「でも、やはりあなたを入れるわけにはいきませんわ」
「なぜです? 私を見殺しにするつもりですか!」
「あなた、本当に人間なの?」
「そりゃあ、そうですとも! 疑うのなら少しだけでも扉を開いて私の姿を見てください。ほんの足先、ほんの手の先だけでもかまいませんから、隙間をあけて、見てください」
「そうね。それは名案ね」
「さぁ、早く! 奴らはもうすぐそこまできています」
クリスはほんの少しだけ扉を開いた。
「この隙間なら、手を入れられるかしら?」
「もう少し、もう少し開けていただけますか?」
「このくらいかしら」
「では、手をいれますから、よく見てください」
ドアの隙間から人の手が現れた。クリスはその手をめがけて、こん身の力を込めて巻き割り用の鉈を振り下ろした。
ぎゃーーーー!
引き抜こうとする手を扉に挟み込み、さらに鉈を振る。指四本が床に落ちる。手は引っ込められ、人とは思えない奇声を発した。クリスはすぐに扉を完全に閉めた。
「おあいにく様、いきなりお嬢さんなんて声をかけるものだから、あなたが人並み以上の嗅覚を持っていることがすぐにわかったわ。狼さん」
人狼はもがき苦しみながら扉に体当たりを繰り返す。さすがの人狼も指を切り落とされたのでは身体に思うように力を入れられないようだった。
「これで少しは時間稼ぎができるかしら」
するとそこにもう一人の人狼らしき男の声がした。
「勝手なマネをして、そのざまか。この間抜けが!」
「ウォーーーン」
二人はテオドールに付き従った人狼である。
テオドールは二人の人狼を引き連れ、グスタフを襲撃しようとしたが、騎士団の銃声を耳にして予定を変更したのであった。
先行させた集団が武装した先頭集団と接触したことは容易に想像できた。いかに老練なハンターであろうと、四方八方から囲い込めば、犠牲は出たとしても確実にしとめられるはずである。複数の銃声が数分間続くということは、戦闘が一瞬で終わらず、少数対多数ではなく、こちらと人狼の群れと同じだけの兵士がいることを示している。
テオドールは戦況を確認するために、二人に様子を見に行かせたのであった。
「テオドール様はグスタフと決着をつけるための準備に忙しいというのに、貴様はなにをしている」
「グゥワー」
クリスに傷を負わされた人狼は、我を失っていた。
「余計なことをして反撃を食らったか」
後から来た人狼はすぐに状況を理解した。二人は銃声がした場所に向かう途中、クリスが上げた狼煙に気が付き、二手に分かれて煙の上がった場所で合流することにしたのであった。
「女か……、まったく仕方のない奴だ。その負傷ではテオドール様のお役に立てないな」
その言葉に、ようやく傷を負った人狼は我に返った。
「なっ、なんだと貴様!」
「俺の血肉となれ」
後から来た人狼は、傷を負った人狼の喉元に噛み付き、食いちぎった。
「ぐっ、ぐっ、ぐぶ、ぐぶ、ぐぶっ」
口からちを吹き出し、人狼はのた打ち回る。
「グスタフ様、どうぞお召し上がりになられませ!」
森の中から一人の男が卑屈な笑みを浮かべながら姿を現した。
長く伸ばした髪の毛を後ろで結わき、闇に溶け込むような暗い色をしたシャツにズボン。肌の色の白さが不気味なほどに目立つ。ひ弱そうに見えて、目は爛々と輝き、唇が異様に赤い。男は卑屈な笑みを浮かべながら、それでいて目はまったく笑っていなかった。すべてがアンバランスなのだ。
「まったく、しょうのない連中だ。我慢というものを知らなければいけないよ」
言葉とは裏腹に、テオドールは高揚していた。
「女! 次はお前だ。こいつを平らげたら、次はお前だ」
クリスは戦慄した。状況が最悪であることもそうだが、テオドールという男は、完全なる悪であり、闇そのものであった。決して抗うことのできない恐怖に打ちのめされた。
「死にたくない……、私、死にたくない」
死は常にクリスの側にあった。救うことができなかった親友オデットの死、その原因となったレイナルドの無残な死。息子ジャンとの関係に葛藤しながらのエリックの死。そして自分を守ってくれた父アベルの死。人それぞれに生があり、人それぞれに死がある。たとえそれが受け入れがたいものであっても、人は死から逃れることはできない。
誰にでも訪れる死。
それがどのような死に方であっても、その時がくれば受け入れなければならない。しかし、今、目の前に迫っている死は、受け入れることができない。受け入れてはいけないのだとわかった。
魂を暗闇に飲み込むような死。
「なんとかしなきゃ。なんとか……、こんなところで死んでたまるものですか」
クリスは武器になるようなものを探したが、巻き割りようの鉈以外には使えそうなものはなかった。その鉈も人狼の指を切り落とすことはできても、クリスの力では人狼に致命傷を負わせることはできそうもなかった。
「普通の獣なら日で追い払うことはできるのかも知れなのだけれど」
クリスは、自分の居場所を伝えるために起こした火を使って何かできることはないかと考えてみた。
「そうだわ。何も相手に致命傷を負わせなくとも、時間さえ稼げればいいのよ」
クリスはランプ用の油を用意し、それを鍋に入れて暖炉で暖め始めた。さらシーツを油で半分浸し、そこに油の入った小瓶をシーツの端に縛り付けた。
「どんなことをしてでも生き残るのよ、クリス」
クリスは闇に立ち向かおうとしていた。