第76話 クリスの気配
遠吠え、奇声、銃声、そしておそらくは絶命の叫び
それほど離れてはいない場所で、行われている戦闘にクリスは耳をそばだてた。
「銃声……、エーベルハルト様が近くまで来ていらっしゃるのかしら」
銃声は複数聞こえる。
「ジャンも一緒なのかしら。それにしても数が多いように思うわ。いったい何がおきているというの?」
クリスにも多少銃の知識がある。エーベルハルトの使っている銃には銃身が複数のものがある。それらを含め、たとえすべての銃を使ったとしても、これだけ多くの銃声が同時に聞こえるというのは、エーベルハルト以外の銃の使い手が複数いることを示している。
「今私が行っても邪魔になるだけかもしれない。でも、もしジャンがいるのなら……」
自分が無事であることを知らせる必要がある。もしそうしなければ、たとえ、この戦闘に勝利したとしても、さらに森の奥に自分を探しに来ることは明白だった。
「私、考え違いをしていたのかもしれない」
もし自分を追ってくる者がいたとしても、それはエーベルハルト以外には考えられなかった。そして、おそらくはジャンと一緒に来ることはないだろうとクリスは考えていたのである。
「かといってここから出ることも容易じゃないわね。みんなに私がここにいることを伝えるしかないわね」
クリスは決断をした。
小屋の中を探し回り、暖炉に火をおこす準備を始めた。
「人狼に気づかれるかもしれないけれど、エーベルハルト様ならきっと先に見つけてくれるわ」
幸い小屋の中には薪と火を起こす道具がそろっていた。クリスはふと、自分の手の震えが止まっていることに気づいた。
「もう誰も死なせたりするものですか。もう二度と私の前では……」
オデットの悲痛な叫び、レイナルドの凄惨な末路、ジャンの父――エリック・フォンティーヌの苦悩、そして最愛の父との別れ。
怒りと悲しみと、慈しみと哀れみ。それらが複雑に絡み合い、ひとつの決意へと変わっていく。
「神も悪魔も関係ないわ。私の大切なものを奪うものに、私は抗う」
クリスが付けた小さな火は、だんだんと大きな炎へと変わっていく。クリスの青く澄んだ瞳は真っ赤に染まっていった。
「我は、闇の眷属なり。我、月明かりに吼え、闇に潜み、闇に潜り、闇に疾走し、闇に疾駆する。人に出会えば人を喰らい、神に出会えば神を汚し、邪魔をする者、ことごとく打ち破る」
森の奥深く、銀色に輝く獣毛をなびかせ、自らを闇の眷属と称するそれは、咆哮した。それはまるでクリスの魂の叫びに呼応するかのようであった。
「我、闇の眷属なり。 月の灯りとともにその姿を獣と変え、黒き願いを聞き、闇に落ちる魂を狩る者なり」
その姿は人であって人に非ず、獣であって獣に非ず。世の理に背き、気高く、無慈悲で、神々しく、禍々しく、荒ぶり、轟き、畏れられ、すべてに抗う存在。闇をも従える存在。闇に囚われし存在。
「人の子よ。我を呼ぶか」
銀の人狼はクリスのいる小屋に向かって歩き始めた。人狼の歩いた後にはところどころ黒い血がしたたり落ちていた。老練なハンターに撃たれた傷は、癒えていなかった。
エーベルハルトは、確実に目の前の敵を撃ち取り、オッペンハイムとゲルトナーも自分の持ち場を死守した。非凡な彼らも一瞬の気も抜けないような修羅場である。彼らの部下も決して凡庸ではなかったが苦戦を強いられていた。右翼から現れた4頭の獣は、2頭が一組になり、陣の右翼と背後を狙う動きをしながら、巧妙に騎士団を各個に襲い、すでに二人の犠牲者が出ていた。オッペンハイムとゲルトナーが戦線に加わると、いったん動きを止めて森の中に潜む。負傷者の手当てをしようにも身動きが取れない。隙を見せればその一点に集中攻撃をされるのは目に見えていた。
「狡猾な! やられたのは誰だ!」
「コンラートとマティアスのようです」
ゲルトナーは、苦々しく答えた。
「畜生!」
オッペンハイムは吐き捨てた。
「フィルクハルトの傷は浅いですが、銃が使い物になりません。トリスタンは早く手当てをしないと……」
「これ以上の犠牲は出せんな」
エーベルハルトはオッペンハイムに背を向けながら話しかけた。
「ですが、それでは……」
「まだ奴らには戦力がある。これ以上、ここで消耗しては、全滅もあり得る。ワシがしんがりを務めるから負傷者を合流地点まで運び体勢を立て直すしかあるまい」
オッペンハイムは、エーベルハルトが単独でクリスティーヌ・クラウスを救助に行くつもりではないかと考えたが、命令でない分、素直に提案を受け入れる気になった。おそらく命令口調で言われたら、黙って従う気にはなれなかっただろうと、本人も思ったし、それを聞いていたゲルトナーは、ほぼ確信していた。
「わかりました。前にゲルトナー、真ん中に私が、最後尾にエーベルハルト殿」
「ジャンはワシが言って聞かせる」
「あのジャンという若者はよくやっています」
「ああ、無鉄砲なところはあるが、こんなところで死なせるわけにはいかない」
オッペンハイムはなるほどと思った。ジャンの存在がエーベルハルトにとって歯止めの役割をしているのだろう。そして撤退をするのは今しかない。これ以上長期化すると日が暮れて視界が効かなくなる。そうなってからでは手遅れである。
「ゲルトナー! 撤退の準備を」
エーベルハルトは周囲への警戒をしながらジャンに合図をして、呼び寄せた。
「これ以上犠牲が出れば身動きできなくなる」
「でも、クリスが……」
「闇雲に探しても見つからないじゃろうし、仮に近くにいたとしても、うかつに近づくようなことはしないじゃろう」
「見殺しにはできません。それなら僕だけでも――」
「ならん! あの子のことじゃ。安全なところに身を隠すくらいの知恵はあるじゃろう。彼女を信じるのだよ。ジャン・フォンティーヌ!」
ジャンにはわかっていた。けが人だけでなく、自分自身もエーベルハルトにとっては足手まといだということが。訓練された兵士であっても、人狼を撃ち取ることは容易ではない。
「せめてクリスが隠れている場所が特定できれば……」
エーベルハルトは顎鬚を触りながら周りを見渡した。
「このあたりに小屋があるとは聞いているのですが……」
「どっちの方角じゃ?」
「詳しくは……」
そのときわずかな木々の隙間から見える煙をエーベルハルトは見逃さなかった。
「あれは!」
ジャンもエーベルハルトの視線の先に、クリスからのメッセージを見つけた。
「きっとクリスですよ。エーベルハルト様!」
「オッペンハイム伯! あそこに小屋がある。引き返すより早く負傷者の治療ができるかもしれん」
「あの煙は……、あそこにクリスティーヌ・クラウスがいるのであれば、急いだほうがいいでしょう。ゲルトナー!」
「はい、準備は整っております」
一行は、煙の立つ方向へ進軍した。