第75話 死闘
「邪魔者が来たようだ。始末しろ!」
ウォーーーーン
テオドールたちは、仲間の死肉を食べほし、より邪悪なオーラを身にまとっていた。
「いいぞ、皆殺しだ。もう我慢することはない。食らいつけ! 引き裂け! 噛み砕け!」
8頭ほどの獣の群れが、ローヴィルの町に向かう。
テオドールの口元から真っ赤な舌がのぞく。
「あれは奴を倒し、より強力な力を得る。グスタフ! 俺の渇きを癒せ、俺の舌を満足させろ! クッ、クッ、クッ、クッ……」
テオドールに3頭の獣がつき従い、別の方角に消えていった。
「今の遠吠えは……」
クリスティーヌ・クラウスは立ち止まり、あたりを見回した。正確な方角はわからないが、何か嫌なものがこちらに向かって来るような感覚に襲われた。
「確かこの先に、使われていない小屋があったはず。急がないと」
闇雲に町を飛び出したわけではなかった。森の中には一時的に薪を保管する小屋が何件か点在している。それらは度々、流行病にかかった病人を隔離するのに使われることもあった。
「今夜一晩、そこで過ごして朝一番で街道に出れば、ほかの集落に行くこともできるわ」
クリスは帝国の集落に身を寄せることを決意していた。フォンテーヌブローの勅令ののち、それを嫌ってフランス領からブランデンブルク選帝侯国(後のプロイセン王国)に流れた者も少ない。クリスは勇気を振り絞って森の奥へ足を踏み出した。
「くれぐれも、注意をしてください。やつらは狂暴で素早く、ずるがしこい」
馬車でエーベルハルトらを待つエドモンド司祭は、獣の遠吠えにすっかりおびえていた。
「私はこの町で起きたことを、枢機卿に報告をしなければなりません。このようなところで命を落とすわけにはいかないのです」
オッペンハイムは馬車の護衛に4名の部下を付けた。もし万が一身の危険を感じた場合は、町の中に逃げるように指示をしてあった。エドモンド司祭としては、一刻も早くこんなところから離れたかったのだが、エーベルハルトを置き去りにしたのでは、枢機卿に合わす顔がなかった。そういう愚痴を何の関係もないオッペンハイムの部下たちにこぼそうとしたが、何を話しても「はい、いいえ」以外の答えは返ってこなかったので、ぶつぶつと独り言をいいながら待つしかなかった。
「怒っていらっしゃいますか? エーベルハルト様」
ジャンは申し訳なさそうな声でエーベルハルトの背中に向かって話しかけた。
「命を粗末にするやつは好かん」
ぶっきらぼうにエーベルハルトは答えたが、オッペンハイムが一笑して若者を励ました。
「しかし、エーベルハルト殿は、仲間を見捨てるような輩は背中からでも撃つとおっしゃっておりましたな」
「ふん! 腕はどうか知らんが、口は達者になったようじゃな。ハインリッヒ伯」
「父上が顕在の頃、よく申しておりました。背中を任せられる戦友というのはなかなかいないものだと」
「カール・フォン・オッペンハイムは勇敢な男であった。真の騎士よ」
会話は和やかなようであっても、ピリピリとした緊張感が屈強な男たちから伝わってくる。ジャンは改めて自分の未熟さを責めた。
「一度ことが始まれば終わるまで終わらん。死ぬか、生きるか。戦場とはそういうものだ。若いの」
エーベルハルトのその言葉を最後に、沈黙が支配した。
森の奥、大きな木に寄りかかる銀の人狼の姿があった。
「我、闇の眷属なり。我は我の血に従い、敵を撃つ」
一度は引いたものの、テオドールが必ず襲ってくるとグスタフは確信していた。
「テオドール、我が血肉を食らい、力を得ようというのか。笑止な。返り討ちにしてくれよう」
グスタフは左足の傷口を眺めた。直径2センチほどの大きな穴がぽっかり開いている。そこからどす黒い血がブツブツと泡を吹き、時々血の塊がこぼれ落ちる。自然の摂理では起こりえない光景である。人狼の皮膚は傷口を再生しようとするのだが、傷口をふさいだ細胞が焼けただれてしまうのである。
「今宵は朔夜、長くなると、厄介か」
銀の人狼はテオドールを待つのではなく、迎え撃つことにした。
「あったわ」
クリスはついに森の中の小さな小屋にたどり着いた。雨風がしのげるよう、しっかりとしたつくりになっている。窓は小さく、扉は頑丈にできている。
「ここなら、なんとか夜を越せそうね」
小屋の中は暗く、ひんやりとしている。内側から閂をかけると、クリスはその場に へたり込んだ。
「こうするしかなかったのよ。これ以上、ジャンやエーベルハルト様に迷惑はかけられないわ」
クリスは膝を抱え、身を縮めた。体の震えが止まらない。
「怖くなんかない。怖くなんかない」
恐怖に耐えようとするクリスに追い打ちをかけるように獣の禍々しい遠吠えが聞こえてくる。
「大丈夫、私は……、大丈夫」
クリスは膝に隠し持った短剣に手を伸ばした。
「お父様……、どうか私をお守りください」
エーベルハルトの一行は緊張を高めていた。確実に何かがこちらに向かってくる。幾多の戦場を潜り抜けてきた猛者の直感がそういっていた。
「来るぞ、敵はどこから襲いかかってくるかわからない扇形に陣形を取れ。若いのはその内側に入って背後を警戒しろ」
エーベルハルトの指示でオッペンハイムの一団は素早く陣形と整える。人と人との間隔は3メートルほど。前衛にオッペンハイムとゲルトナーが立ち、その左右に少し下がった形で他の騎士が陣取る。前方180度の視界を8人で確保し、その扇の内側でエーベルハルトが全体をカバーし、ジャンが背面をケアした。
「最初の一撃を食い止めろ! 初弾で決めようと思うな。確実に当てればいい」
森の奥から激しい息遣いが聞こえてくる。正面、2頭の狼が茂みの中から姿を現した。まっすぐにオッペンハイムめがけて襲ってくる。
「奴に気を取られるな! 左右からも来るぞ!」
エーベルハルトは冷静に指示を出す。正面から来た2頭をオッペンハイム、ゲルトナーが確実に撃ち取る。初弾をそれぞれ狼の首元に当てた。2頭は激しくのた打ち回る。左から別の2頭が飛び出してきた。これを3人で迎撃するも、1頭が初弾をかいくぐり、最左翼の騎士に向かってきた。
「任せろ!」
エーベルハルトがフォローする。
「若いの! 右を警戒しろ!」
「はい!」
ジャンは素早く向きを変え、右翼の警戒に当たる。
「きました!」
ジャンの視界に複数の獣の影が映る。
「こっちが本命か!」
右翼に現れた人狼はまっすぐ向かってくるふりをして、さらに時計回りに陣形の背後をつく動きをする。これに呼応するかのように初弾を撃ち込まれた獣が人狼に変身し、一斉に襲いかかってきた。
「オッペンハイム、ゲルトナーは正面を、あとは後背に回ってくる群れを迎撃! ワシが左翼を抑える。止めを撃ち込むタイミングを焦るなよ。確実に急所に撃ち込め!」
初弾に装てんされている弾丸は銀を含んではいるが純度が低く、その分命中精度が高い。銀の弾丸は標的に近づかずに急所を狙うことは困難である。
オッペンハイムとゲルトナーに向かって2体の人狼が首から血を流しながら姿勢を低くして向かってくる。しかしその傷口は少しずつであるが回復しているように見えた。
「怪物め! 本命をお見舞いしてやる!」
二人は背後からの強烈な殺気を感じながら、正面の敵に集中した。人数の上では互角でも、銃は連射できない。至近で撃ち漏らせば確実に反撃を食らうことになる。
それぞれ初弾を命中させた人狼に照準を合わせる。先にゲルトナーが引き金を引く、少し遅れてオッペンハイムも引きがねを引いた。
銃声と同時に響く断末魔の叫び。オッペンハイムが狙った人狼が後ろにのけぞって倒れこむ。
「ゲルトナー! 貴様!」
オッペンハイムが叫ぶ。
ゲルトナーは正面から向かってくる人狼に対し、剣を構える。
「充填をはやく! オッペンハイム様!」
オッペンハイムは、すばやく銀の弾丸を取り出す。
「余計な真似を……」
ゲルトナーの撃った弾は、ゲルトナーの正面から向かってくる人狼には命中しなかった。ゲルトナーはとっさにオッペンハイムに向かってくる人狼に標的を変えたのであった。人狼は急所の頭から首、胸を両腕でかばいながら突進してきたのである。ゲルトナーに狙撃されたことで、人狼の右腕が吹き飛び、それによって急所があらわになった。オッペンハイムは確実に人狼の胸を打ち抜いた。
ゲルトナーに命の危険が迫っていた。
「致命傷は与えられなくとも、腕の一本ももらっていこう」
ゲルトナーは剣を上段に構え、腰を低く落とし、一撃必中の体勢にはいった。敵に必殺の一撃を与えることのみに特化した相打ち覚悟の構えである。
人狼の突進が鈍る。ゲルトナーの気迫に押され、攻撃をためらわせた。人狼はきびすを返し、無防備なオッペンハイムに標的を変えた。
「狡猾な!」
オッペンハイムは剣の構えを少し下げ、人狼に向かった。
「やらせはせんぞ!」
背後に迫るオッペンハイムの気配に人狼が反応する。振り向きざまの一撃。
人狼は体を回転させて、オッペンハイムめがけて右腕を振り下ろす。鋭い爪がオッペンハイムの剣によって受け止められた。オッペンハイムの体が宙に浮き、1メートルほど弾き飛ばされる。
剣の腹を人狼にむけ、広い面で攻撃を受け流したのだった。
「なんという破壊力」
オッペンハイムの腕は、凄まじい衝撃によってしびれていた。
「受けきれぬか」
オッペンハイムの剣術をしても、人狼の攻撃をこらえきれない。
「むぅ……」
剣先が震えている。恐怖からではない。腕に力が入らないのである。
「お前の相手は私だ!」
人狼が正面を向き直る。そこにいるはずのオッペンハイムの姿が見えない。
ズドーーン!
突き出した人狼の顎が吹き飛び、頭頂部から血しぶきが空に向かって抜けていく。
「オッペンハイム様!」
人狼の足元にオッペンハイムが上向きに寝転んでいた。人狼が背後のゲルトナーに気を取られた隙に、足元に転がり込み、真下から人狼の顎めがけて銀の弾丸を撃ち込んだのであった。
オッペンハイムはすばやく体を回転させ、ひざから崩れ落ちる人狼の下敷きになるのを避けた。
「お見事!」
「その腕では、もう剣は愚か、銃もまともに撃てまい。年寄りが無茶をするからこういうことになる」
「私の銃をお預けします。玉を込めるくらいのことはできますれば、ここにとどまることをお許しください」
「ダメだと言っても聞かないくせに。年よりはこれだから困る」
二人がしとめた人狼の死体は見る見るうちに、人間のそれに変身していく。
「おぞましいものよ」
浴びた返り血をぬぐいながら、オッペンハイムがはき捨てる。
「正面は、これで大丈夫でしょう。他の者の援護に回りませんと……」
「エーベルハルト殿に助けは要るまい。『邪魔だ。どけ!』と怒鳴られるのが関の山だ」
二人はすばやく銀の弾丸を充填し、右翼にまわった。