第67話 戦場
それはもはや戦場であった。
殺るか、殺られるかの世界。それもほぼ一方的な狩るものと狩られるものの関係であった。唯一、老練なハンターだけが、それに対抗できる術を持っていた。
銀の弾丸
闇の眷属である人狼にとどめを刺す唯一の手段である。通常の鉛の弾丸でもダメージを与えること、相手を戦闘不能にすることは可能だ。銃弾によって粉々にされた部位は簡単には再生しない。
フォンティーヌ邸は高い鉄柵に囲われ、人狼の侵入は正面の正門は銀の人狼によってけ破られてしまっている。そこを抑えれば中への侵入は抑えられる。エーベルハルトは狙いやすい距離に腰を下ろしてどっしりと構える。その背中をジャンが守るという布陣だ。ジャンは周りを警戒しつつ、老練なハンターの補佐役として、火種や銃の整備を手伝う。
「むやみやたらにここを襲撃はしてこないようじゃな」
「もしも一斉に攻め込まれたら……」
「ひとたまりもない。こいつは連射が効かない。二連装を全弾発射し、控えの銃に交換。すぐにお前さんが銃に弾を込めて次に備える。それで対応できるのはせいぜい2頭から3頭の群れに対してだ。5頭以上で来られたら無理じゃな」
「その時はどうすれば」
「逃げる」
「逃げる……ですか?」
「ああ。逃げる。ワシは負けるのは嫌いじゃ。退きながら反撃の準備をする」
ジャンはエーベルハルトの素性についてほとんど正確な情報をしらなかった。彼はもともと軍人であり、ハンターではない。狩りは通常一対一を想定して行うものだが、軍隊は常に多勢に無勢にならないことを考慮しなければならない。そして不利であれば退く。戦力が拮抗する地の利、時の利を得られるまで退く。大国同士の戦争とは常のその繰り返しである。全滅こそ完全な敗退であり、戦力を失わなければ負けということにはならない。
エーベルハルトはそういう考えを持った軍人であった。
「来たぞ」
エーベルハルトが鋭い声を発する。ジャンが身構える。
「戦場ではビビった者が負ける。そして恐怖を感じなくなった者が死ぬ。死んだら負けだ。若いの。恐怖をコントロールするんだ」
エーベルハルトの言葉は、まるで一級の抒情詩のようにジャンの心に響いた。
「恐怖をコントロールする……そして、怒りや悲しみを押し殺す。ありのままを受け入れるんだ」
正門に黒い影が蠢く。ジャンにはそれが一頭なのか複数なのかも見極めることができない。
「己のできることがすべてだ。それを信じる心の強さこそが戦場では武器になる」
影が一瞬凝縮し、そして一気に弾けた。二つ、いや三つだ。
「奴の目的はなんだ。その目的のために何をしてくる。クールになるんだ」
エーベルハルトの視線はぶれない。影の一つ一つを追うのではなく、全体としてとらえている。その中で直線的にこちらに向かってくる影を素早く判断し、引鉄を引く。
手応えがジャンにも伝わる。
次、右に大きく動いた影が視界から見切れる瞬間に左で蛇行しながらこちらに向かってくる影のステップと神経をリンクさせる。
二撃目、命中。
「右、来るぞ! ジャン!」
ジャンにはしっかりと影が見えた。右に回り込み、こちらの側面から一気に距離を詰めようとしている。
「やってみせい!」
「はい!」
ジャンは引き金を引く。地面に大きな穴が開き、土煙が上がる。
「諦めるな!」
「こいつ!」
距離にして3メートル。大きく口を開き、赤い舌が毒々しく見えた。その咢に向かって引金を引く。
「見事!」
エーベルハルトはすぐに銀の弾丸を充填する。遅れてジャンも次に備える。
「その呼吸を忘れるな。外したときの呼吸と当てたときの呼吸。それが生死を分ける。相手が死ぬか、お前が死ぬかだ」
「はい!」
一方、クリスもまた戦場にいた。
「お父様、意識をしっかり持たなければだめよ」
アベルはジャンの父、エリック・フォンティーヌの凶弾によって右の肩口に重傷を負った。クリスはすばやく弾丸を取り除き、傷口を消毒して、止血をした。
「この方法であっているはずなんだけれど、私、ここまでひどい傷の手当はしたことがないから……」
「大丈夫だよ、クリス。ちゃんとできているさ」
不安げに見つめる娘にアベルは小さな声で答えた。しかし焦点はあっていない。
「お父様、大きな血管は血が止まるように縛り付けたわ。この場所だと焼きとめることは難しいわ。だから完全には……」
「賢い子だよ。クリス。ワシの身体では痛みに耐えきれないだろうよ。場所も難しい」
この時代の外科治療は近代に比べて粗雑で、世界的に見ても未熟であった。それは教会がその権威を保つために、海外の医術を異端として排除していたことに原因がある。銃創には熱した油を注いで止血する焼灼止血法が一般的に使われていたが、当然、患者は重度の火傷を負うことになる。そして激痛に耐えなければならない。
「獣に噛まれたのであれば、選択肢はないが、銃による外傷は必ずしも焼きとめる必要はない」
アベルは世界の医学を学び、太い血管を糸で結んで止血する方法を知っていた。誤って指を切断してしまった患者の治療に時々、この方法を使っていた。
「やるべきことはすべてやったのだろう。クリス。あとは私次第だ。何も気にすることはないよ」
「お父様」
アベルは再び昏睡状態に陥った。
「エドモンド様、どうか父をまだ、現生にとどめていただけるようにお祈りをしてくださいませ。私は、私ができることをやりますから」
エドモンド司祭は、小さく、静かで、それでいて美しい言葉で神に祈りを捧げた。
「死なせるものですか!」
クリスは、アベルの体温が急激に下がらないように、そして体に負担がかからないように擦った。そして心の中で何度も叫んだ。
「死なせるものですか! 死なせるものですか!」
その声は、フォンティーヌ邸から少し離れた広い路地にいる銀の人狼の耳に届いていた。
「我、黒き望みをかなえる者、悲しき想いを見つめる者、深き闇をさ迷う魂の叫びに、耳を傾ける者」
「グスタフ! 目障りな銀狼よ! ここから失せるんだな!」
銀の人狼の足からはおびただしい量の血が流れている。
「あのハンター役に立つ。その傷は治らないね。そいつは銀の弾丸だ。それもかなりの上物ときている」
テオドールの周りには5頭の黒き獣がグスタフを睨みつけている。
「しかし、さすがグスタフだ。こいつらだったら確実に殺られていただろう。しかし、そのタフさが返って恐ろしいことになるんだぜ?」
テオドールの口からよだれが垂れる。真っ赤な舌がいやらしく蠢く。
「汝、どこまでも卑劣な男よ、テオドール!」
「卑劣……。くっくっくっ……卑劣だと? はぁ! 貴様はいったい誰に向かってしゃべっているんだ! はぁ!」
黒き獣が次々と咆哮する。
グスタフを威嚇している。
「くっくっくっ……。死にな!」
テオドールは確信していた。グスタフにもう、戦闘力はない。仮に残っていたとして、それは形骸であると。
「ふん!」
だが、それは間違いであるとすぐに気付かされた。ほんの一呼吸の気合でその場に3頭の黒き獣が横たわった。頭をつぶされ、のどをかき切られ、内臓をつぶされた。
「けっ、まだ、そんな余力を残してやがったか。貴様、化け物か!」
テオドールは三歩下がり、距離を取る。さらにゆっくりと二歩下がった。
「その卑しい舌を、引きちぎってやる。来い! テオドール!」
「やだね。俺は嫌だね。痛いのは嫌いだ。それに舌を切られたらおしゃべりができなくなるじゃないか。俺はおしゃべりが大好きなんだよ、グスタフ。お前さんのお気に入りのあの金髪の娘とこのあとゆっくりおしゃべりを楽しむのさ。どうだい? うらやましいだろう。グスタフ」
「ぐぅうぉーーーーーーー!」
グスタフは咆哮した。そのみなぎる覇気によって、さらに出血がひどくなる。
「怒れ、怒れよ、グスタフ。その足では、俺のスピードにはついて来られまい」
テオドールは人狼の姿から灰色の狼に変身し、闇を駆け抜けた。その後ろに二頭の黒き獣が付き添う。
「これ以上、好き勝手にはさせん!」
グスタフも銀の狼へと変身し、テオドールの後を追った。