第64話 語られる過去
「お父様は錬金術を学んでいらしたのね」
クリスティーヌ・クラウスは、父アベルの旧友、エーベルハルトの話に耳を傾けていたが、話が進むにつれ、恐ろしくなってきた。
「研究の内容について、詳しくは知らん。しかし、今の話からするとおそらくは神をも冒涜するような恐ろしい実験や動物の解剖がなされたにちがいない。そしておそらくそれは、動物に限らなかったのじゃろう」
「まさか、そんな」
「アベルは何度か漏らし方ことがある。戦で人を殺めることと、医者が病人やけが人を救うこと、或いは救えないことというのは、人としての生き方として、これまで何百年にもわたって繰り返されたことだと。しかし、自分のしていることはその範囲を超えてなお先に進まなければならない極みの道だと」
「極みの道……」
クリスは身を縮め恐怖に耐えた。
「人の命は何であるか。そのような難しいことはわしにはわからん。しかし、その中には決して人が立ち入ってはならない領域があることは、感覚でわかる。肌で感じる。人はそういうことを大事にしなければならない。そうでなければ人は人でなくなる」
「人でなくなる……、お父様はその極みの道へと足を踏み入れたということですか」
「妻を得て、そして子を得てアベルは覚悟したのだと思う。たとえそれが人の道を外すことになろうと、神への冒涜であろうと愛する者の命を救うために、自分は為すべきことを為さねばならないと強く考えたのだろう。父上らいいとは思わんかね」
クリスは考えた。
父、アベルの研究はおそらく凄惨なものであっただろう。しかし多くの人の命、いや、ごく近しい、愛する者の命を救うためならば自らの魂を汚そうと何も後悔することはないと、そう決断させたのはほかならぬ自分が生まれたことがきっかけであったに違いない。
「お父様は、私のために、極みの道に足を踏み入れたのですね」
エーベルハルトは白い者が目立つようになった顎鬚を触りながら、話を続けた。
「ある日、我々は枢機卿の命により、とある村に派遣された。ワシとカール、それにアベルの三人じゃ。ローヴィルとは森を挟んで帝国側にあるその村に重病人がいるという。その男は夜な夜な徘徊し人を襲う。枢機卿はこの怪事件の真相を調べるよう我々に命じた。場合によってはその男を捉えて、連行し研究の材料としろとな」
「まさか、それって」
「そうじゃ。ワシがこうしてハンターになったのも、この事件がきっかけじゃ。村に着くと我々は首尾よくその男を捉えた。そこまでは問題なかったのじゃ。暴れるその男は別に狼に変身するわけではない。しかし、ひどく凶暴で何かの病に侵されている。危険だからと厳重にロープで拘束し、馬車の荷台に縛り付けて連行した。その男は狼憑きじゃ」
「狼憑き……」
クリスはここに来るまでの間にその狼憑きに襲われたのであった。
「アベルの話では、狼憑きには二種類あり、一つは心の病、一つは体の病だそうだ。ワシにはよくわからんが、体の病の場合、ほとんど治療することはできずに患者は死んでしまうらしい。そのような患者の身体には獣の噛み傷やひっかき傷があることから、人狼の仕業だという説もあるそうじゃ」
クリスは思った。それは違うのではないかと。おそらく獣から恐ろしい病気に感染しただけで、狼男とは関係がない。しかしあえてそれを口にはしなかった。
「問題はそのあとじゃ。その男を帝国に連行する途中、我々の馬車は何者かによって襲われた」
エーベルハルトは、一度夜天を見上げ、神に祈った。
「カールは勇敢に闘ったが相手が悪かった。奴の力は大木をもなぎ倒し、気の高さほど跳躍し、鋭い牙と爪で獲物をしとめる。あっという間の出来事じゃった。奴はカールに致命傷を負わせ、狼憑きの男をさらって逃げた。狼の遠吠えを残してな」
人狼による被害はたびたび報告されていたが、目撃情報もあいまいで、本物の獣と区別がつかなかった。だが、このときエーベルハルトははっきりと見たのであった。
「奴は、獣であって獣ではない。もちろん人でもない。二本足で歩き、両腕で縄を引きちぎり、狼憑きの男を抱きかかえて逃亡した。ワシが最初に出会った人狼よ」
数日前なら信じられない話である。しかし、クリスは実際に人狼を見ている。人狼が存在するのならば魔女も存在するのかもしれない。クリスの信念は一瞬揺らぎかけたが、それでもオデットが魔女でないことは間違えなかった。少なくとも、あの瞬間までは。
「アベルの手当てもむなしく、カールは息を引き取った。枢機卿はそれをうけて再び我らに命じた。人狼を討伐せよと。そして人狼を倒す有効な手段を見つけよと」
「それでお父様は銀の弾丸をお作りになったのですね」
「そうじゃ。カールの敵を討つべくアベルは研究に没頭した。没頭するあまりに妻マリーの体調の不調に気付かなった。結果マリーは流行病にかかり、お嬢さんを残してこの世を去ることになったのだが……」
エーベルハルトが口をつぐんだ。クリスは悪い予感がした。母の死について、父アベルが抱えている闇は、病から救えなかったことだけだとは思えなかったからだ。
「ここからは、推測の話だ。いずれ父上から直接聞くかどうか。それはお嬢さんにゆだねる。ともかくアベルは妻マリーの死について、何か秘密を持っているようだ。おそらくは錬金術に関することだと思う。妻マリーの死後、アベルは枢機卿に研究のすべてを納めて、国を捨てた。去り際にわしにこう言い残してな」
エーベルハルトはクリスの目を見ながらまるで父親が娘に語りかけるように語りかけた。
「人一人の命に釣り合うものなどありはしない。それがわかっていても考えずにはいられない。恐ろしいのは知りたいという欲求の深さだ。私は神など信じない。だが、悪魔は存在する」
エーベルハルトは自分の胸を右手の握りこぶしで叩いた。
「おそらく、アベルは妻マリーを救うために、自分の研究を試そうとしたのだと思う。もしかしたら試したのかもしれない。ともかくアベルはそれ以来、錬金術を封印し、幼い娘を人に預け、ここローヴィルに移り住んで医者を始めた」
「もしかしたら、私自身の存在が、お父様を苦しめているのかもしれない」
クリスは動揺を隠せなかった。
「そう。お嬢さんの言う通りかもしれない。しかし、同時にそれは否定することもできる」
エーベルハルトはクリスの両肩に大きくがっちりとした手を置いた。
「なぜなら、アベルは誰よりもお前さんのことを愛している。愛しているがゆえに苦しんでいる。いいじゃないか。人間らしくて」
クリスの目に大粒の涙がたまる。しかし、それが零れ落ちないように必死でこらえた。
「わしはお前さんたちがうらやましい。わしにはもう、守るべき家族はおらんでの」
「クリス、どうかしたのかい?」
ジャン・フォンティーヌが涙をこらえ、肩を震わせているクリスを見つけて歩み寄る。
「何でもないわ。大丈夫よ、ジャン」
クリスは気丈にふるまう。
「若いの、お嬢さんを頼む。わしは少し外の様子を見てくる」
エーベルハルトは立ち上がり、ジャンの肩をポンと一つ叩いて外に出て行った。
ドアを閉めた老練なハンターはぼそりと呟いた。
「まったく。女の扱いがダメなところまでわしに習ってどうする気じゃ」