第63話 錬金術
「命とはなんであるのか。それを知らなければ病には勝てない。全能なる神は我々に試練を与え給う。しかし神は超えられない試練を与えはしない。それが真理である証拠に、我々はこうして生かされている。そうは思わないかね。アベル・クラウス殿」
枢機卿はアベルに静かに語りかけた。アベルはすぐに理解した。枢機卿の言葉には人を従わせる恐ろしいまでの説得力がある。抗うことなど到底できない。
「枢機卿、私にこのような大役が務まるとお思いでしょうか? 私には……」
「できるさ。いや、君にしかできない。君は神を信じていない。そうだろう?」
「めっ、めっそうもない。私はただ……」
「いいのだよ。君は正しい。アベル・クラウス。神を疑うようなものでなければ、この研究はなしえない」
どこまで深く、枢機卿の言葉はアベルの中に入ってくる。耳を塞ごうが、頭の中で音楽を奏でようが関係ない。
「これは罪ではない。だから罰もない。結果、命の何たるかを知ったとき、君は神の存在を知ることになる。だから、今は疑っていいのだよ」
「わ、私は今まで、多くの患者を見てきました。救えなかった命のなんと多いことか。祈りなどという者は患者には必要ないのです。もちろん奇跡を何度か目の当たりにしました。しかし、それは祈りとなんら因果関係を証明しうるものではありません。ですから、私は学びたかったのです。命というものが、どういうものなのかを」
「よろしい。存分にやりたまえ、アベル・クラウス。君の邪魔は誰にもさせない。望むものはなんでも与えよう。必要とあれば、書物でも器具でも、人も使っていい。ただし、研究の成果は定期的に報告すること。そして誰にも漏らさないこと。家族であってもだ。人選はこちらでする。以上だ」
いつかこのような日が来るのだとアベルは考えていた。はやり病にかかった患者を隔離し、誰も近づかないようにと進言したアベルに対して多くの聖職者が異を唱えた。そんななか、枢機卿はアベルの進言を聞き入れ、感染を最小限に抑えたことがあった。以来、枢機卿はたびたびアベルを呼び出し、医学のあり方について議論をした。アベルは驚いた。枢機卿の知識はアベルのそれを遥かに超えていたのである。枢機卿は一般では禁じられている異教徒の書物についてほとんど眼を通したという。そこで得た知識は、これまでの帝国の治療法では考えられ内容のものが多く含まれていた。人はそれを異教徒の魔術だといって忌み嫌う。教会は決してそのようなものを許さなかったのである。
「枢機卿、私は多くの命を救うことができるのなら、異端者として迫害されてもなんら悔いはございません。どうか、私の研究をこれからの医学に広くお役立てください」
アベルは、まず、異端とされる書物の研究に没頭した。今行われている医療は、病気や怪我から来る痛みを和らげるための処置しか確立されていなかった。薬とは病気を治すものではなく、痛みをとるもので、結果、治療は患者の治癒能力に頼るしかなかった。しかし、各地方には、薬草やそれらの調合によって病気に効果のあると思われる薬も作られていたが、教会はそのような行為を異端のなせる業として迫害し、場合によっては魔女裁判にかけられることも少なくなかった。
病から身を守るには神に祈るしかない。
そのような考え方にアベルは耐えられなかった。
「祈るよりも先に、なすべきことがあるの」
それがアベルの信条であり、教会のありかたを根底から覆す考え方であった。しかし、場所や地域によってはこのような考え方が広まり、同じ神を称えるものでも考え方、教義に齟齬ができ、それが争いの元となった歴史をアベルは知っている。時代は変わろうとしている。変えようとする者と変えまいとする者の間で、世界は揺れ動いている。
「錬金術でございますか?」
何度かの研究成果の報告をした後、枢機卿は錬金術に関する書物をアベルに差し出した。
「この世にあるものは、すべて何らかの物質、マテリアルによって構成されていると聞く。たとえば人や獣は同であるか。頭には眼があり鼻があり口があり、耳がある。その役割もそれぞれ同じだ。人と獣を決定的に違えているのはなんだろうなぁ。アベル・クラウス殿。人の目と獣の目、それを構成しているものに違いはあると思うかね」
「私の知る限り、獣の目と人の目は違います。牛や羊の目と、人の目では瞳の形が違います」
「つまり、人の目の代わりに、獣の目はならないということかね」
「そ、それは……。おそらく無理かと」
「なぜ、だめなのか。そういうことも知ることだよ。アベル・クラウス。錬金術では等価交換という考え方がある。獣の目と人の目。等価にするには何が足りないのだろうか?」
「そのようなことは、私にはわかりかねます」
「興味深いとは思わないかね。急がなくてもよい。人の目と獣の目。その違いについて君は知るべきなのだよ。人の命と獣の命。何が違うのかね?」
アベルは戦慄した。しかし、もう引くことはできないと思った。なぜならアベル自身、それを知りたいと思い始めてしまっていた。
「錬金術は、決して完成された術ではない。おそらく間違いもあろう。それを知りたいとは思わないかね。アベル・クラウス殿」
やがてアベルは錬金術の研究に没頭し始めた。