第60話 発砲
エーベルハルトは老練なハンターである。しかしそのキャリアはハンターとして過ごしてきた年月の長さによって培われたものではない。エーベルハルトの家は名家であり、教会を守る重責を担ってきた。王室の覚えもよく、のちに『ポツダム巨人軍』と呼ばれることになる近衛連隊の設立にあたっては、重要な役割を果たしたこともある。
「あの巨漢の男、ワシの記憶に間違えがなければ知っている男だ。しかし、なぜだ。なぜあの男がここにいる」
エーベルハルトの言う『あの男』とは、アベルの家の前で人狼と対峙していた巨漢の男であり、エーベルハルトが知るある人物によく似ていたのである。
「しかし、今は一刻も早くアベルたちに合流せねばな」
「ジャン、大丈夫かしら。心配だわ」
「ふむ。確かに心配だがまずは、無事にフォンティーヌ邸にたどり着くことが肝要じゃ」
「はい、エーベルハルト様」
クリスはそういいながらも、エーベルハルトの言葉が気になって仕方がなかった。老練なハンターはあの巨漢の男と旧知だというのか。聞きたい。あの男のことを聞きたい。
「こちらです。この通りであれば、人通りも少なく、夜道ですが死角も少ないですから、不意に人狼に襲われることもある程度避けられます」
「うん。道案内を頼む」
クリスの判断は正しかった。フォンティーヌ邸まで、ほとんど誰にも気づかれず、そして人狼に行く手を遮られることはなかった。だが、人狼の気配は確かにある。老練なハンターはそう確信し、金髪の少女は常に背筋に寒い物を感じていいた。
「気に入らんな。なぜだかわからんが、奴らワシらを避けているな」
「そう思いますか?」
「ふむ……、どうしたものか。このままフォンティーヌ邸にいってもよいかどうか」
「ジャンにはもう、これ以上迷惑をかけたくないわ」
「しかし、ほかに選択肢があるかと言えば、そういうわけでもない。ワシ等の到着が遅れれば、彼らの動き方も難しくなる。できるだけ予定通りの行動をとったほうがいい。最新の注意を払いながら」
「はい。エーベルハルト様。このまままっすぐ行かずに、この角を曲がって、少し行けばフォンティーヌ邸の真横に出ます。そこから多少は中の様子が伺えると思うのですけど」
「ふむ。いいアイデアだ」
二人はフォンティーヌ邸の正面に出る道から横道に入り、フォンティーヌ邸の横手に出た。そこはジャンたちが邸宅内に入った、秘密の入り口のちょうど反対側にあたり、アベルやエドモント司祭のいる小屋は死角になってほとんど見えなかった。
街のあちこちで人狼の咆哮や人の悲鳴、窓ガラスの割れる音や木材がきしんだり、へし折ったりするような音がしている。しかし、フォンティーヌ邸の周りはやけに静かであった。静か過ぎた。
「みんな無事に中に入れたのかしら」
「周りに人の気配がない。無事に中に入っていないのだとしたら、合流することは困難だ。しかし、その場合3人ともここから立ち去るという状況は考えにくい。或いは近くに身を潜め、ワシ等が姿を見せるのを待っているのかもしれぬ」
「それなら、私がまず、様子を見に行きましょうか?」
「いや、それはまずい。他のものに見つかったり、或いは何かの手違いでジャンらがまだここに辿り着いていなかったりした場合、先にお嬢さんの姿をこの家の者に見られるのはまずい。ワシが行こう」
エーベルハルトは、クリスに選択肢を与えなかった。反論をする間もなく身を翻して正門へと駆け出した。正面の入り口までは50メートルほどある。半分までいったところで、立ち止まる。目の前に黒い影が蠢く。低い姿勢でこちらの様子をうかがっている。暗闇に二つの赤い光。容赦ない敵意むき出しの獣の目が睨んでいる。
「おとなしくそこを通してはもらえぬかのぉ。こいつをこんな場所でぶっ放すと少々厄介なことになる」
エーベルハルトは銃を構える。獣との距離は10メートル。ゆるく構え、周りを警戒する。右手はフォンティーヌ邸の敷地で背の高い鉄柵で仕切られている。後ろにはクリスがいる。背後から何者かが襲ってくるのなら、クリスが反応するだろう。左手は民家でところどころ死角がある。エーベルハルトはその死角の中に何かの気配を感じ、ゆっくりと後ろに下がりながら正面の敵と死角の敵を、同時に視界に入れられるよう足を運んだ。
「ワシらをここで足止めにする気か」
一対一であれば、確実にしとめる自信はある。或いは相手が二匹でも、間合いを間違わなければ勝算はあった。しかし、ここでの発砲はできるだけ避けたい。正面に回るのを諦めて裏手に回ることを考えたとき、思わぬ方向から人の気配があった。
「この化け物目!」
パーン!
銃声はエーベルハルトの右手、すなわちフォンティーヌ邸からであった。
「エリック殿か!」
「わしの町をめちゃくちゃにしおって!」
パーン!
エリックは、2連式の銃を構えていた。二発の銃弾は、エーベルハルトの正面に位置する獣めがけて発射されたが、まるで手応えがなかった。
「ご子息殿は無事に戻られたのか。エリック殿」
「息子は、ジャンは誰にも傷つけさせん! わしが守って見せる。この家も、この町のわしが守る」
エーベルハルトにもはや選択肢はなかった。状況の変化に素早く対応する。腰を下ろし、銃をしっかりと構え、いきり立つ獣が、こちらに向かってくる出鼻に引鉄を引いた。
ズドーン!
さらに、構えをやや左に向ける。そこには黒い影があと数メートルというところまで迫っていた。
ズドーン!
影の中心より、やや上をめがけて弾丸は放たれ、とびかかる影の塊の中心を射抜き、後方に吹き飛ばした。二連式の猟銃に素早く銀の弾を込める。エリックは呆然とその様子を見ながら、ガタガタと足を震わせていた。
「エリック殿! ご子息と私の連れは無事でおるでしょうな」
「あっ、ああ……、息子は無事です。お連れの方は……」
「父さん! 大丈夫ですか! 父さん」
銃声を聞きつけたジャンが屋敷から飛び出してきた。
「若いの! こっちは大丈夫だ。そっちはどうなのだ」
「エーベルハルト様、大丈夫です。二人はあちらでお待ちです。あの、クリスは……」
そこにクリスが駆け寄ってくる。
「ジャン、お父様は大丈夫?」
「ああ、問題ない。さぁ、早く中に、正門にまわって」
「すまん。若いの。できるだけ騒ぎを起こしたくなかったのじゃが」
「しかたありません。ともかく中に。外は物騒ですから」
「い、いかんぞ。いかんぞ。ジャン、そんなことは、そんなことは……」
「父さん、しっかりしてください。目の前で獣に襲われている人を見殺しにしろというのですか!」
「わしは……わしは……」
ジャンは、父親の肩をそっと抱きしめ、銃を受け取った。
「これは僕が預かるよ。父さんは中でゆっくり休んでいて。大丈夫。父さん。わかっているよ。ともかく夜が明けるまでの間は、彼らをあの小屋に匿うことを許してください。お願いします」
エリックは、首を横に振りながら、ジャンに従って、屋敷の方へと向かっていった。その後姿には、気丈で厳格な父の面影は微塵もなかった。