第53話 長い夜4
先頭にジャン・フォンティーヌ、最後尾にアベル・クラウス、その間にエドモンド司祭。お互いの距離を1メートルから2メートルほど開ける。ジャンは前をエドモンド司祭は横を、アベルは後ろを警戒する。
アベルの家からフォンティーヌ邸まで大人の足で15分ほどである。その間に人狼に接触した場合、基本は最短距離で目的地に向かう進路を選択する。
もし、一人でも怪我をした場合、フォンティーヌ邸かアベルの家、どちらか近い方へ向かう。それもままならない場合はけが人を近くの家にかくまってもらい、二人はどちらかに行く。それもままならない場合は、その一人を置き去りにする。
老練なハンター、かつて軍に身を置き、現役を退いてもなお、上層部の信頼の厚い男。エーベルハルトの指示は的確だった。
「なるほど、これなら無事に屋敷までつけそうじゃな」
しかし、ジャンもアベルもそれほど楽観的にはなれなかった。
「所詮は多勢に無勢。奴らが集団で襲いかかってきたら我々では……、いや、あのエーベルハルトですら対応できまい」
「いまのところその可能性は少ないと、エーベルハルト様は考えてられているようですが」
「相手が人間であれば、行動も読める。また獣であれば対処はできる。しかし人狼はそのどちらの行動原理も当てはまらない」
「お二人とも、くれぐれも頼みますぞ。フォンティーヌ邸まで無事たどりつければ、あとは私がなんとかしてみせます」
正直、アベルもジャンもエドモンド司祭に期待はしていなかった。しかし二人とも不思議とエドモンド司祭を不快に思ったりはしなかった。むしろとんだ災難に巻き込まれて気の毒だと思うほどであった。
「大丈夫。きっとうまくいきますよ」
ジャンが言ううまくいくとはエドモンド司祭の交渉ではなく、フォンティーヌ邸まで辿り着くことであった。おそらく父、エリックを説得するのはアベルであろうとジャンは考えていた。そのアベルの有効な交渉材料としてエドモンド司祭は必要だと理解していた。そしておそらく、最後に交渉を決めるのは自分の役割ではないかと漠然と考えていた。
町のあちこちで、悲鳴や怒号、ガラスや陶器が割れる音、物と物がぶつかり壊れる音が響いている。そして狼の咆哮。
ウォオオオオオオオオ……
「なにか気になることでもあるのかな?」
エーベルハルトは外の身支度を整えながら、クリスに話しかけた。
「それはたくさんあります」
「それはそうだが……」
「あっ、申し訳ありません。そういうつもりでは」
クリスも外の様子を気にしながら、エーベルハルトの感の鋭さ、或いは洞察力の高さに驚いていた。
「怖いかね」
「怖くないといえば、嘘になります。でも、私にはわからないのです。人狼っていったい何なのでしょう?」
「人であって人でないモノ、獣であって獣でないモノ」
「人狼は、人狼ということなのかしら」
「いや、人狼など存在しない」
「でも、確かにあれは――」
「存在してはならないモノが存在している。それが人狼であり、魔女だと私は考えている」
エーベルハルトは白い物の混じった顎髭を触りながら、語りだした。
「私はこれまで、何頭、或いは何人かの人狼を狩ってきた。家畜や人を襲う獣を狩るのはハンターの仕事だ。だが、人の罪に罰を与えるのは私の仕事ではない。もしも人狼が人であれば、私は別の罪を犯したことになり、その罪の意識に耐えられないだろう。しかし、あれは人ではない。人でなくなった人なのか、人になりきれなかった獣なのか。いや、そのどちらでもないし、そのどちらでもある。間違った存在。存在してはならない存在が人狼なのだよ」
クリスは不思議に感じていた。この老練なハンターには、なぜかなんでも打ち明けることができるような気がしていた。
「では、私が最初にであったあの銀色の人狼もそのような存在なのでしょうか?」
老練なハンターは小さく3度ほどうなずき、そしてクリスのそばに寄り、肩に手を置いた。
「オデットといったかな。お嬢さんのお友達は気の毒なことをした。あの人狼を打ち逃がしたことは、私に責任がある」
「いえ、私はエーベルハルト様を責めようとは思いません。私が言いたいのは、その……あの人狼と先ほどエーベルハルト様が討ち果たした人狼とは、どこかちがうような……ごめんなさい。どういっていいかわからないのですけれど」
「お嬢さん。人と獣が相容れない以上に、人狼と人とは相いれない存在だということを、どうか覚えておいてほしい。私はこれまで、人狼や人狼と呼ばれた者を相手にしてきたが、人知の及ぶ存在ではないことを、私はよく知っている」
「はい、エーベルハルト様」
「私は思うのだよ。お嬢さん。魔女や人狼などと言うものは、人の心の「魔」が作り出したものであって、実際には存在しないのだと。存在しないモノを理解することはできないし、消し去ることもできない。私は人の影を追いかけているのかもしれない。魔女狩りとはつまり、人の影を狩るがごとき所業なのだよ」
「それはわかります。私もそう思います。本当に……」
ドーン!
突然どこかで大きな物音がした。この建物になにかがぶつかった音――体当たりをした音だ。
「こっちへ」
エーベルハルトは、クリスの手を引き、部屋の中心まで移動した。緊張が走る。
ドーン! ドーン!
先ほどとは別の方向から音がする。
「ちぃっ、複数か?」
静寂が二人を押しつぶそうとしている。エーベルハルトは神経を研ぎ澄ませ、闇を見つめる。クリスは耳を澄ませ、気配を感じ取ろうと物音を仕分けする。遠くで聞こえる物音、近くで聞こえる物音、風に揺れる木々や草の音、闇に潜む生き物の息遣い。
「何かいる。それも複数」
「わかるかい? お嬢さん」
「えぇ、私、耳はいいんです」
「それは心強い」
「でも、大変。私の心臓の音、すごいことになっているわ」
「さぞかし美しい音色を奏でているのだろう。聞こえないのが残念じゃ」
「こういう場合、背中合わせになるのがいいのかしら」
「いや、奴らに対抗できる武器を持っているのはワシだけだから、お嬢さんはしゃがんでおくれ」
「わかりました」
エーベルハルトは直立し、クリスは床にしゃがみ込む姿勢をとった。クリスは床に手を置き、些細な振動も聞き逃すまいとする。エーベルハルトは、暗闇に目を慣らし、注意深くあたりを見渡す。
ドーン! ドドーン!
壁が揺れる。空気の振動が肌を伝わり、神経を逆なでる。
「裏手に一体、正面に一体かしら?」
「気配ではそうだが、ほかにもいるかもしれない」
「取り囲まれているのかしら?」
「あるいはそういうこともあるかもしれん」
ガルルルル……、グゥゥゥゥ……
複数の唸り声が聞こえる。
ダーン! ドスン!
キャイーーーン!
グァーーン
ガルルルルル……
「複数の獣と何かが争っているようじゃな」
「少しずつ、離れて行っています」
「いったい、外で何が起きているんじゃ」
「裏手の気配はなくなりました」
「そのようじゃな。外の様子を見てみるか。こちらもそろそろ動かなければならない時間じゃしな」
エーベルハルトは胸のポケットから懐中時計を取り出し時間を確認した。時計は夜の10時を示していた。