第52話 長い夜3
「じっくり考えれば、よりよい考えに至るかもしれない。しかし、許される時間がすくなければ、その中で得られた一応の結論を尊重しようではないか?」
「医術もしかりじゃ。時を失えば、選択肢はさらに失われる」
エーベルハルトとアベルは、若い二人――クリスとジャンの導き出すべき答えに対し、適切なアドバイスを送った。
「なによりも、ここよりも安全であることには間違いはないのだから……」
エドモンド司祭の進言もそこに付け加えられる。目的は別でも、同じ結論に至ることもあるのだと、エーベルハルトは思った。
「こういう考え方もできる。僕らが行くことで迷惑は掛かるかもしれない。でも、人狼の群れから父を守るためにも、僕はあそこに戻らなければならない」
クリスは、一瞬何かを言いかけて、首を横に振り、深く息をついた。
「本当にものは言いようね。もし同じような場面にできわしたら、私も使わせてもらうわ。今の言葉」
感謝の意を表したり、謝辞を述べたりしないのは、クリスが聡明である証拠ともいえる。礼を言われてジャンが喜べる状況ではないことも、詫びを入れて誤りを正す性格のものでもない。しかし、それ以上にクリスの勝気な性格が、どちらの選択肢を形式上でも良しとしなかったのであることをアベルは知っていた。
「では、すぐにでも行こうではないか」
エドモンド司祭の表情に少しばかり安堵の色が現れた。
「さて、行くとして、どうしたものか。この人数で動けばさすがに目立つ」
「おそらく屋敷は厳重に戸締りをしているはずです。まずは僕が先に行って、みなさんを安全な場所に迎え入れる準備をしましょう」
「一人では危険だし、何かの時に人手が必要になるかもしれない。ジャン、アベル、エドモンド司祭に先に行ってもらうとしよう」
「それがいいじゃろう。エリックを説得するうえで、エドモンド司祭の力が必要になる」
再びエドモンド司祭の表情が曇る。
「わ、私は……」
「それにアベルとお父上は、古くから親交があると聞く。助けを求めてきた友人を無碍に断りはしないだろう」
エーベルハルトはエドモンド司祭の言葉を遮り、なおかつジャンに救いの手を差し伸べた。
「お父上のことはアベルに任せろ。悪い様にはしないだろう」
「はい。では、クリスを頼みます。できるだけ早く、父を説得しますが……」
「若いの、心配するな。こっちは30分遅れでここを出る。くれぐれも油断するなよ」
「はい」
「奴らが、獣だということを忘れるな。それも邪な……」
「邪な……獣」
クリスはまた、あの銀狼のことを思い出していた。オデットを助けに教会の裏にある広場に行ったときに鉢合わせた銀狼。それは大きく、たくましく、そしてどこか神々しさを感じた。銀狼は、時に二本足で立ち、その巨躯から繰り出される一撃は、人一人をいとも簡単に破壊した。レイナルドの遺体はまさに破壊されたと表現するのにふさわしい、むごたらしい状況であった。しかし、それだけの恐ろしい、人知を超えた存在であっても、けだもの、邪悪といった概念からは、一つぬきんでた存在のように思えてならなかった。それがたとえ、オデットを死に至らしめた存在であったとしても、レイナルドを破壊したそれとは、また違う意味があるように思えて仕方がなかった。
「大丈夫かい?」
ジャンが優しい、しかし強い決意に満ち溢れた目でクリスを見つめている。
「私は大丈夫よ。ただ、ただ、あなたが心配憂なだけ」
「僕を信じておくれ。クリス」
「信じるわ。私はあなたを信じている。だから心配なの。無理をしてはだめよ。危なくなったら戻ってらっしゃいな」
「若いの、これを持って行け」
エーベルハルトは銃をジャンに手渡した。
「いえ、僕は、この銃で……」
「そいつは、アベルに渡してくれ。エドモンド司祭に銃は扱えない。聖職者には気の毒だが、神様に守っていただくか、お前たちが守るか。ともかく、エドモンド司祭には銃を渡すな。いいな」
「アベル殿、ジャン・フォンティーヌ、私の身にもし万が一のことがあれば、お父上を説得する材料がなくなる。くれぐれも、よろしく頼ますぞ」
「エーベルハルト程の腕はないが、銃の扱いなら慣れている。もっとも、もう何年も撃ってはおりませんがな」
それが冗談にしろ、事実にしろ、エドモンド司祭は笑う気にはなれなかった。不安げにエーベルハルトを見上げるも、エーベルハルトはまるでエドモンド司祭のことを無視するかのように、アベルに話しかけた。
「無駄玉は撃つなよ」
「目をつぶっても当たる距離まで引き金は引かんよ」
「ふむ。相手は銃を持った兵隊ではないからな。それがわかっていれば大丈夫じゃ」
アベルは必要なものを皮のカバンに詰め込み、すばやく身支度を済ませる。ジャンは銃を点検した。
「では、行きましょう」
ジャンはクリスの頬にキスをし、クリスはアベルと抱擁し、エドモンド司祭はエーベルハルトを不安げに見やってアベルの家を出た。
三人の姿が闇に消えていく。遠くで狼の遠吠えが聴こえる。クリスは闇の中を正視し、エーベルハルトが声を掛けるまで微動だにしなかった。
「大丈夫。きっとうまくいくさ。若いのを信じてやりなさい」
「はい」
しかし、クリスが考えていたのは、ジャンや自分たちの行く末ではなかった。この闇のどこかにあの銀狼が潜んでいる。そう思えて仕方がなかったのである。