第51話 長い夜2
家の中はひどく荒らされていた。椅子やテーブルはひっくり返され、床には割れた食器や診療に使う道具や紙が散乱している。
「ひどい有様ですなぁ」
エドモンド司祭は、素直な感想を漏らした。この男にとってはすべてが他人事であり、すべてを自分中心でしかとらえることができないのであった。
「まぁ、火をつけられなかっただけ、ましというものです」
アベル・クラウスもまた、正直な感想をつぶやいた。しかし、もしも隣にいるのがエドモンド司祭でなかったら別の言葉を選んでいたかもしれない。アベルはいつでも注意深く他人を観察している。それは医者としての性であるかもしれない。しかしアベル自身はそれを否定する。そのことを知る物は少ない。
「エドモンド司祭、私にはここでやるべきことがあります。エーベルハルトたちがここに来るまで、できる限りその準備に専念させていただきたい。なぁに。彼らもすぐに来るでしょう。適当な場所で適当におくつろぎください。私の手伝いなど無用でございます。医術の道具や薬品の中には、触れただけで怪我や火傷をするようなものもございますれば、できるだけ離れていたほうがよろしゅうございましょう」
はなっからエドモンド司祭には手伝う気などはなかったが、エーベルハルトがやってきたとき、『何もしないでぼーっとしていた』と、叱咤されるならまだしも、蔑むような目でみられるのはどうにも気分が悪かった。
「そういうことであるなら、私はテーブルと椅子と、そのあたりを適当な場所に寄せておきましょう。話をするにも、入り口をふさぐにも必要になるでしょうから」
エーベルハルトたちが辿り着いたときには、おおよそのものはきれいに片付けられていた。
「お父様!」
クリスは泣き出しそうな自分を忌々しく思いながらも、感情を抑えることができなかった。
「クリス、よく無事で帰ってきてくれた。心配をかけたね」
「私、私……」
「お前のせいなんかじゃない。町の人も恨まないでおくれ。今は何より無事にこうして再開できたことを喜ぼうじゃないか。ジャン、エーベルハルト。感謝しておるよ」
エーベルハルトの脳裏にいやな予感がよぎった。が、今はそれを口にすることも、考えることもするべきではないと、頭を切り替えた。
「エドモンド司祭、よくやってくれた。貴殿の働きがなければ、こうもうまくはことが運ばなかっただろう」
エドモンド司祭は最初、エーベルハルトが何を言っているのか理解できなかった。ようやく自分が感謝されているのだと気づき、良い気分に浸ろうと思ったときには、話題は実務レベルの話に移ってしまった。結局エドモンド司祭は苦々しい思いをすることになった。
「やつらはどうやら我々との交戦をできるだけ避けようとしている。闇雲に出会いがしらに人を襲うのではなく、効率を重視しているように思える」
「そうなんです。やつらはこちらの姿を見ると威嚇こそしますが、襲ってはきませんでした。出会いがしらに一体倒しましたが……」
ジャンは語気を強めていった。
「できるだけ、弱く、力のないものを襲おうとしているようで、女性や子供の被害が……やつら、許せない!」
エーベルハルトはジャンの肩に手を置き、力強く握った。
「今はどうすることもできん。やつらに致命傷を負わせるには、銀の弾丸を使うしかない。しかし、数に限りがあるし、やつらも容易に近づいてこない。銃というのは万能ではない。確実に相手を仕留めるためにはいくつかの条件が必要だ」
「条件……それはたとえば距離とかですか?」
クリスはここに辿り着くまでの道のりで出くわした何頭かの狼に対して、エーベルハルトが銃を構えながらも発砲しなかった場面を思い起こしていた。
「銀の弾丸は、鉛を使った弾丸よりも命中精度が落ちるのじゃ」
アベルは拾い集めた器具や薬品を整理しながら答えた。
「そもそも銃とはどんな材質の弾丸でも撃てるようには作られておらん。金属にはそれぞれの特徴がある。同じ大きさでも重さ、硬さが違うんじゃよ。その条件を調整するために金属を溶かして混ぜる方法がある。しかし、銀の純度が低くなれば、狼男に効く効果も薄くなる」
「だから、アベルの力が必要なのだ。アベルの作った銀の弾丸でなければ、やつらとまともにやりあうことはできないのだ」
エーベルハルトは白いものが混じったあごひげを右手でいじりながらクリスをじっと見つめた。
「お父様の手伝いをさせてください。今はそれぞれができることをやらなければならないでしょう。私には多少の知識があります。お父様がそのようなことを過去にされていたとは知りませんでしたが、それで町の人を守ることができるのであれば……」
「貴殿はそういうが、そんな悠長なことを言ってられるのか?」
エドモンド司祭が会話に割ってはいる。
「幸いやつらがここを襲ってこないとして、なるほど銀の弾丸やらを作れたとしよう。しかし、夜が明ければ、町の人々はまたここにきて……」
「魔女狩りなどと!」
エーベルハルトが吐き捨てる。エドモンド司祭は押し黙るしかなかった。
「今はここが安全としても、夜が明ければおそらく今日以上に町の人たちはパニックに陥るでしょう。おそらく二人が無事でいられるとは思えません。ここに留まるのは、結局もっとも危険かもしれない。どこか安全な場所を確保しないと」
ジャンはその先に言いかけた言葉を飲み込んだ。
おそらくこの町の何処にも安全な場所はない。この町を離れるか、或いは――。
沈黙が支配する。
「ウォオオオオオオオオ……」
「ウォウ、ウォウゥゥゥゥ……」
沈黙は狂気を肥大化させる。咆哮、怒号、悲鳴、静寂。
静寂は死を意味した。
「だめよ。逃げちゃだめ。町の人を見殺しにはできない。誰にも罪はないのよ」
クリスは声を震わせながら言った。
「いや、みな等しく罪を犯し、罰を受けているのかもしれない」
アベルは手を止めてつぶやく。
「神よ……」
エドモンド司祭には自分の言葉を見つけることができなかった。
「なすべきことをなさない者、できることを強いて行わない者こそ、罪深き存在だと私は知る」
エーベルハルトは自らのありようを口にした。
「父を頼りましょう。どうなるかはわかりませんが、今、僕にできることは、それしか……」
ジャンは父との確執に思いをはせながら、抗うことのできない運命的なものを感じていた。
「だめよ。ジャン! そんなことをしたら、お父様やあなたにも――」
「クリス! ここまできて……もう後戻りはできないよ」
再び沈黙が支配する。
長い夜は続く。