第50話 長い夜1
淀んだ空気が町を覆う。肌にべっとりと、こびりつくような湿気を含んでいる。夜露の湿気とは違い、生暖かく人の吐息に近く、獣の荒々しい鼻息のようでもある。
ガシャンッ!
ガラスや陶器が割れる音。
ガタガタガタンッ!
木製の家具が倒れる音
悲鳴、慟哭、嗚咽
街のあちこちで繰り返される殺戮は、無機質さを増していく。
獣の臭いと血の臭いが混じりあい、怒号と悲鳴、咆哮と慟哭が入り乱れる。
ズドーン!
時々銃声が響き渡る。
そのたびに一瞬町は静まり返る。
「いくぞ! アベルと合流することが先決だ」
ズドーン!
エーベルハルトはとどめの銃弾を血を吐きながらのた打ち回る黒き狼の眉間に打ち込んだ。
グワァァアアア!
獣であって、獣ではない。人でもなく、神でもなく、悪魔でもない。
「これが、人狼……」
クリスは絶命しようとするこの世にあるまじき存在を、恐れおののき、そしてどうしようもない好奇心と違和感に苛まれていた。
「やつらの目的は狩りそのものだ。それを嗜み、愉しみ、戯れる。人の理解の及ぶ存在ではない。神の理にそむき、獣でも人でもない。かといって悪魔に組するものでもない」
エーベルハルトは、クリスに諭すように語り掛ける。
「悪魔に組しない?」
ジャンが疑問を投げかける。
「悪魔というのは神の存在を否定するもの。光には闇、昼間には夜があるように、神と対極にあるものだ。だが、やつらには……」
エーベルハルトは銃に弾を込めながらも、周りに対する警戒を怠らない。
「人の魂が貶められて人狼になるという話を聞いたことがあります」
ジャンは周囲を警戒しながらクリスの身を守る最も適切な位置を取ろうとする。
「人狼は人の業の深いところを持っている。しかし、いったん獣となれば野性の本能のままに暴れる。人でもあり、獣でもある。人でなく獣でない。それが人狼だ」
エーベルハルトは、人狼にしっかりととどめをさせたかを確認する。
「人でもなく、獣でもない……それが人狼」
クリスは考えていた。今、ここに横たわっている人狼と昨日広場で出会った人狼とは、何かが決定的に違うような気がしてならなかった。
「奴らはこちらの存在に気付いている。うかつには近づいては来ないだろう。ともかくアベルとの合流を急ごう」
エーベルハルトに促され、三人はその場を後にした。三人の姿が見えなくなった頃、別の人狼がそこに現れた。仲間の変わり果てた姿を憐れむがごとき咆哮を上げる。
グゥウォォォーン!
それに呼応するかのように町のあちこちで、同じような咆哮が鳴り響いた。ここはもう、人の住む町であっても人の支配する町ではない。
「いいか! ハンターには手を出すなよ。奴との決着はまだ先だ! 今はほかにやるべきことがある。思いっきり愉しむんだな!」
テオドールは人の姿のまま夜の町を徘徊する。まるでローヴィルの新たな支配者のようだった。
「クゥクックックッ……憎しみ合え、殺し合え、隣人を疑い、闇に恐怖しろ。お前たち人間に逃げ道はない」
それはおよそ人にはできない卑屈な笑みであった。
「夜はまだまだ長い! 慌てるな! じっくりと愉しめよ!」
「ウォオオオオオオオオ……」
「ウォウ、ウォウゥゥゥゥ……」
「お、お願いです。この子だけは……」
打ち破られたドアの向こうから、わが子の命乞いをする母親の声が聞こえる。
「ガルルルルル……」
獣の唸り声。女の悲鳴。子供の泣き声、そして沈黙。
「やっ、やめろー!」
男が大声で叫ぶ。怒号。何かが壊れる音。獣の咆哮。布を引き裂く音。肉を引き裂き、血をすする音。骨をかじる音。そして沈黙。
容赦のない殺戮は、狩る者と、狩られる者を明白に分け隔て、どこまでも無慈悲であった。
やがて人は抗うすべを失っていった。しかし、まだ夜は始まったばかりである。