第49話 アベル救出3
夜が忍び寄る。音を立てて町を覆うとしている。肌で感じるような空気の流れはないのに、空を見上げるとどす黒い雲が不気味にうごめいている。もしも雲の切れ間が見えたとしても、その先にはとてつもなく恐ろしいものがこちらをじっと見つめているような嫌な感覚に襲われる。
「誰かに見られているみたいね」
クリスは木々の合間に見える空に言い知れぬ不安を感じていた。
「怖気づいてどうするの! しっかりしなさいな。クリスティーンヌ・クラウス!」
さまざまな思いがクリスにはある。その一つ一つを吟味する時間はない。今は考えることよりも行動することの方が大事だとクリスの中の何かが囁く。クリスはそれに従い、ジャンとの約束を反故にして危険を冒して町に入ろうとしている。いや、それだけではない。
「何か、よくないものが、あの森には集まろうとしているわ」
少し前、クリスの目の前に死んだはずのオデットが現れた。あれは断じてオデットではない。クリスには自信があった。いや、そう信じる以外に救いがなかったのかもしれないが、あれはオデットではなく、オデットの姿をした何かだった。
「あんなものが現れるからには、何か理由があるはずだわ。人狼、狼憑き、それに……」
突如として町に姿話あらわした強大な銀狼は、人狼へと変身した。そしてその夜、街は人狼の群れに襲われる。森の中には狼憑きが徘徊している。そしてオデットの姿を借りた魔物。いったいこの町に何が起きているのか。そして何が起きようとしているのか。
「今はともかくお父様を助けなければ……きっとお父様とエーベルハルト様なら何かを知っている。いえ、そうじゃないとしても、どうすればいいのか。それについては心当たりがあるに違いないわ」
森を抜け町の様子をうかがう。ほとんど人の気配がない。数日前とはまるで違う町の有様に、クリスは悪寒のようなものを覚えた。
「これなら、大丈夫かしらね」
クリスにとっては好都合である。仮に誰かに見つかったとしても、日が暮れようとするこの時間にわざわざ外に出て身を危険にさらそうというものは少ないだろう。そうはいってもどうどうと町の中を歩くわけにもいかない。父、アベルが幽閉されているのは教会の物置小屋。オデットが幽閉されていた場所である。おそらく見張りがいるだろうが、それでも夜になれば、外からカギをかけて、教会の中に避難する可能性が高い。そのタイミングでなら父親を助け出せるかもしれない。
「それまでにジャンやエーベルハルト様と合流できれば、なお、いいのだけれど……」
思いは不意に通じるものである。そう思った矢先に、突然目の前にジャンとエーベルハルトが姿を現した。双方ともに言葉を失った。先に声を上げたのはエーベルハルトだった。
「これはこれは」
次にクリスが声を上げる。
「ごめんなさい。私、いてもたってもいられなくて……ここまで来てしまったわ」
ジャンは複雑な表情でクリスに近寄る。
「なんて無茶なことをするんだ、君は……でも、無事でよかった」
次に何を言うべきか、言葉を探している二人を見かねてエーベルハルトが声を掛ける。
「安心しなさい。お父様はすでにご自宅へ向かわれた。エドモンド司祭ではいささか不安だが、彼がいる限り、町の人も下手な手出しはしないだろう。エドガー司祭の許可ももらっている。少なくとも今夜は自由に行動できる。今のうちにやるべきことをやろうじゃないか」
クリスに安堵の表情が浮かび、ジャンはクリスの手を取り「さぁ、急ごう」と、父のもとへクリスを連れて行こうとした瞬間……
「ウォオオオオオオオオ……」
「ウォウ、ウォウゥゥゥゥ……」
狼たちの遠吠えが聞こえた。一同は一瞬凍りつく。
「早いな。ぐずぐずしておれん。走るぞ」
エーベルハルトが若い二人を促す。
「大丈夫。必ず君を守る。君も、お父様も、この町も」
ジャンはクリスの手を強く握った。
「戦うわよ。ジャン。もう誰も死なせはしない。もう誰にも殺させはない」
クリスはジャンの手を一度だけ強く握り返すとすぐに手を放し、全速力で駆け出した。
エーベルハルト、ジャン、クリスの三人は、誰もいない町の中を駆け抜けて行った。
「ウォオオオオオオオオ……」
「ウォウ、ウォウゥゥゥゥ……」
もう少しでアベルの家に着くというところで、エドモンド司祭は狼の遠吠えに身をすくめていた。
「も、もう、来たのか」
ここまで町の人間数人とすれ違ったが、いぶかしげな眼で見られたものの、話しかけてくる者はいなかった。
「ここをまっすぐでよろしいんですな。アベル殿」
「大丈夫です。もうすぐですから……私がこんな体で、申し訳ない。もし、危険だと思ったら、どうかわたしを置いてお逃げください」
「何をおっしゃる。そんなことできるはずがない!」
正直なところ、言われなくともそうしたいところなのだが、もしそんなことをして、アベルの身にもしものことがあれば、あとでエーベルハルトに何をされるのかわかったものではなかった。
「さぁ、急ぎましょう。すぐに彼らも追いつくでしょう」
エドモンド司祭は、いざとなれば、それでも逃げる準備だけは怠らなかった。人狼だろうが町の人であろうが、もし襲ってくるようなら、どのみちエドモンド司祭には逃げるくらいしかできないのである。
目撃者がいなければどうとでもなる。最悪なのが、アベルを見捨てた挙句、アベルが間一髪エーベルハルト等に助けられるなどという、間の抜けた展開になることである。そうならないようにエドモンド司祭は必死であった。
「もし、何かがあったら、私が急いで戻り、エーベルハルト殿を連れてまいります。私は司祭。このようなときにはなんの役にも立てませんから」
あらゆる伏線を惜しまない。エドモンド司祭はこうして現在の地位を手に入れたのである。
「ウォオオオオオオオオ……」
「ウォウ、ウォウゥゥゥゥ……」
町の外、森の中、丘の上、一つ二つと影が揺らめき、消え、また現れ、そうしているうちに数が増えていく。
狼の群れである。
「さぁ、お前たち! 宴の準備だ。この町の人間どもの生き血をすすり、肉を引きちぎり、骨をかみ砕け!」
そこに一人の男が立っている。
長く伸ばした髪の毛を後ろで結わき、闇に溶け込むような暗い色をしたシャツにズボン。肌の色の白さが不気味なほどに目立つ。ひ弱そうに見えて、目は爛々と輝き、唇が異様に赤い。男は卑屈な笑みを浮かべながら、それでいて目はまったく笑っていなかった。すべてがアンバランスなのだ。
「ただし、全部は殺すな。お楽しみは最後まで取っておくのだ。わかるな」
「ウォオオオオオオオオ……」
「ウォウ、ウォウゥゥゥゥ……」
「魔女の疑いをかけられた娘。あの娘には手を出すな! その親族にも手を出すな!」
「ウォオオオオオオオオ……」
「ウォウ、ウォウゥゥゥゥ……」
「あそこには、俺様が行く……。クゥクックックッ……」
卑屈な男――テオドールは狂ったように笑う。散々笑い飛ばし、不意に我に返る。
「今夜は一人、二家族だ。それ以上は後のお楽しみだ……行け!」
「ウォオオオオオオオオ……」
「ウォウ、ウォウゥゥゥゥ……」
「まぁ、お前らは3つまでしか数えられないからな……クゥクックックッ……」
テオドールは、ゆっくりと丘を降りて行った。
ローヴィルの町に向かって。