第47話 アベル救出1
アベルが幽閉されているは、かつて教会に仕える使用人や修道士が利用していた小さな小屋である。今では住む者もなく、物置として使われるようになって久しい。しかしここ数日というもの、この小屋に人の出入りが絶えない。つい先日まで、魔女の疑いをかけられた不幸な少女が幽閉され、連日厳しい取調べが行われていた。この場合の厳しいとは厳格という意味ではなく、人の尊厳を著しく傷つけるような陰惨で不道徳なものであったことを知るものは少ない。
いや、もはやその事実を知るものはこの世に存在しない。
魔女の疑いをかけられたオデット・シャリエールは、魔女として処断される寸前に起きた騒ぎの中で、凶弾に撃たれ、最後は人のものではない手によって17年という短い生涯を終えた。人でないものの手――それは巨大な銀狼が変化したもの人狼の牙によって絶命したのであったが、それはあくまで結果の問題であり、致命傷はレイナルド・シルベストルが引いた引鉄によるものだった。
レイナルド・シルベストル――彼の町の評判は悪いものではなかった。彼の家はローヴィルでは古くからある名家であり、彼の周りには数人の取り巻きがいつもいた。ときに横暴な態度をとることがあったが、彼の父親に比べればまだおとなしいものだった。レイナルドの父親ピエール・シルベストルは頑固者で有名で、自分の主張を曲げることはない。しかしめったなことで町の人々と争うことはなく、頑固ではあるが、裏表のない、好き嫌いの多い人間であった。
一方息子のほうは、外向きには父親に比べれば物腰が柔らかく、一見寛容な人物に見える。しかし、彼をよく知る人物は、レイナルドが父親の頑固さを違う形で受け継いでいることを知っている。レイナルドは欲しいと思ったものはどんな手段を使ってでも手に入れる。その非情さは父親の裏表のない露骨な好意と敵意の調和ではなく、自分のものにならないくらいなら、それを壊してしまってもいい――愛憎の境地にあり、それは者であろうが人であろうが同じなのである。
興味がないものには寛容であり、興味があるものは自分に組しないものはすべて敵とみなす。彼に好意をもたれることは、彼への絶対の服従を求められる。オデットはそれを拒んだのである。
ここ数年ローヴィルに起きた不幸な出来事。天候の異常、作物の不作、疫病による人畜の被害。かつてこのような凶事は魔女によってもたらされ、この町でも魔女狩りが行われた歴史があった。町の人々はすっかり意気消沈し、神にすがっても、一向に状況の改善が見られない。町の年寄りたちがかつてこのようなときに魔女狩りがあったという話をするようになる。歴史ある家であればなおさらそのような伝承は残されており、レイナルドもそれを耳にした一人であった。
レイナルドはその状況を利用し、オデットを一時的にでも自分のものにするために、噂を広めた。普段であればそのような世迷言に耳を貸さない人々も、続けざまに起きる凶事に辟易としていた。その心の隙間をレイナルドはついたのである。噂を流して10日もしないうちに、オデットはこの小屋に幽閉されることになった。
町の有力者たちは、最初、彼女が魔女である可能性についてまったく否定的であった。むしろオデットを保護する観点から少女の身を安全な場所に匿うつもりもあったのだが、それすらもレイナルドの差し金であり、レイナルドは取り調べと称しては、昼夜問わず人払いをしてオデットを精神的、肉体的にいたぶり、弄んだのである。
レイナルドはオデットの口から自らの行いが漏洩することをおそれ、オデットを魔女として処断することを主張し、ついにレイナルドの策謀は完成するかのようにみえた。そこに突如現れた銀狼によって、刑の執行を邪魔されたことに憤慨したレイナルドは、エーベルハルトがエドモンド司祭に預けた銃を奪い、オデットに向けて発砲したのである。
「この苦しみを……あの男に……」
オデットの断末魔の願いに耳を傾けたのは人ではないもの、そして獣でもないもの。巨大な銀狼が変化した人狼であった。
「魂ノ欲スルママニ……我望ミヲ叶エン」
レイナルドは人狼の一撃にオデットより先に絶命することとなった。オデットは汚された魂を開放し、天に召された。オデットの親友であり、彼女を助けようとその場に駆けつけたクリスティーヌ・クラウスにはその確信があった。オデットは恐らく、あの人狼によって救われたのだと。
「お願いクリス、私を助けて……魔女として生きたまま焼かれるなんていや。私を殺して頂戴。これ以上の辱めは……」
医者の父親のもとで診療を手伝っているクリスには親友がすでに手の施しようがないような致命傷を負っていることも、仮に命を取り留めたとしても、その顔に負った傷を元通りに治すことができないことを知っていた。そして体の傷以上に、彼女の心が深く傷ついていることをその、悲痛な叫びから感じ取った。
「私にはわかるわ。オデット。魔女裁判が女性にとってどれだけ卑劣で耐え難いものであるのか……」
時々クリスは自分の持っている知識を疎ましく思うことがある。多くを知ること、それも正しく知ることは必ず身の為、人の為になるのだと思い、できるだけ多くの書物を読み、多くの人の話を聞き、いろんな知識、いろんな知恵、いろんな考え方を学んできた。それは幼くして別れた父の元に返ったとき、少しでも役に立ちたいからという想いからだったし、実際、父はそんな自分の成長を認め喜んでくれた。
そのような知識は父だけではなく、これから過ごす、生まれ故郷、ローヴィルの町の人みんなに喜ばれるものだと思っていた。しかし、現実は違っていた。この町にはこの町の歴史と風土があり、その中で共有されている知識や知恵こそがすべてであり、それ以外の考え方や情報は、関心はあっても受け入れるべきものだと、町の人たちは考えていなかった。
聡明なクリスは、すぐにそのことに気づき、なるべく目立たないように、そしてそのような話し相手は、ごく身近な人間に限っていた。