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朔夜~月のない夜に  作者: めけめけ
第3章 流転
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第43話 幻影

 それは、普通の風とは違っていた。大気の流れには違いがなかったが、風はそよぐものであり、通り過ぎていくものである。クリスの足元を中心に渦巻くようにして空気がなだれ込んでくる。いや、吸い込まれてくるといったほうが適しているかもしれない。クリスは自分の身に危険が迫っていることを悟りながらも、その現象が現実に起きているということに少なからず疑問を感じていた。


「風……? 違うわね。これは不自然よ」


 クリスは思考したことを口に出して言うことで、自分を落ち着かせようとした。

「私は怖くなんかない。負けたりしない。たとえそれが、この世の理に逆らうものが相手だとしても、私は屈しない」


 クリスは唇を強く噛んだ。


「お父様が不条理に耐えていらっしゃるのに……。ジャンもエーベルハルト様も命がけで私を守ろうとしてくれている。それなのに、私だけ逃げるわけにはいかない。負けるわけには、いかない」


 空気の流れは、落ち葉や小枝を伴い、やがてクリスの目の前で小さな竜巻となっていった。竜巻はクリスと同じくか少し大きなサイズまでなると、その場所を前後左右に動き回った。


「何か……、来る。よくないものが来る」

 それは直感であり、また、一定の思考の上に成り立つ推論でもあった。ジャンがそばを離れてすぐにこのようなことが起きる。相手なりの都合があるのだろう。そしてその相手というのは、自分に対して好意的である可能性は極めて低いと考えたほうがいいだろう。


 クリスは鳥肌が立ち、体毛が逆立つのを感じた。それは精神的、あるいは論理的思考が出した結論よりも、よりシンプルな反応――クリスの肉体、そして生命が、身の危険を感じていたのである。クリスは身構え、しっかりとゆらゆらとうごめく小さな竜巻を凝視した。

・・・

 この場から走って逃げるか?


 クリスは背にしているもみの木を後ろ手で触りながら、ゆっくりと後ろに下がった。小さな竜巻から目を離さず、自分の体を竜巻から少しでももみの木に隠そうとしたのである。クリスの半身がもみの木に隠れたとき、不意に空気の流れが止まった。それと同時に竜巻に集められた落ち葉や小枝が人の影のような形になる。空気の流れは止まったのに、竜巻だけがぼんやりとした人影を取り巻くように渦巻いている。


「いったいなんなの……? 人影」

 クリスがあっけにとられていると、どこからともなくクリスの名を呼ぶ声が聞こえてきた。


「クリス……、クリス」

 音の発生源がはっきりとしない。目の前の人影から聞こえているようでもあり、もっと遠くから聞こえているようでもある。


「クリス……、クリス」

 しかし、その声は次第に目の前で吹き荒れる竜巻の中――その中の人影から聞こえるようになってきた。それと同時に人影もまた、よりはっきりとした人の姿に変化していった。


「誰? 誰なの?」

「クリス、私、私よ」


 最初の声は洞窟の中で聞くような反響音の混じったような声だったのが、やがてはっきりと女性の声だとわかるようになった。

「私よ。クリス。オデットよ。オデット・シャリエールよ」


「そっ……、そんな! オデット? 本当にオデットなの?」

 疑問符を投げながらも、その声がオデットに間違いがないことは、すぐにわかった。しかし、声がオデットであったとしても、この人影が、いまや明らかにオデットの姿をしている人影が、オデットであるということにはならない。ならないとわかっていても、クリスには『それ』がオデットであることがわかってしまった。


「クリス。ありがとう。本当にありがとう。私を心配してくれて」

「あぁ、なんてことなの! あなた、本当にオデットね。でも、どうしてこんなことが……。あってはならないことだわ」

「そう、私にもよくわからないのよ。どうしてこんなことになってしまったのか」

「私、私……、オデット、ごめんなさい。私、あなたを守れなかった。助けてあげられなかった」

「やさしいクリス。あなたのせいじゃないわ。あなたは悪くない。悪いのは……、悪いのは……」


 それまで穏やかだったクリスの表情は苦しみと、憎しみが交じりあう悪鬼のごとき顔に変わっていた。

「あの男……、レイナルド。あの男が私を辱めて……」


 シューーーー!

 ヒューーーー!


 そこに集められた空気の一部がはじけ飛ぶ。クリスは両手で顔の前で交差させながら身をかがめ、顔への直撃を避けた。腐臭があたりに漂う。


「きぃーーーーーーーーーー! あの男だけは許さない! だから私は、あの男を!」

 苦悶と憎しみに満ちたその表情は、悲哀へと変わる。


「私は何度も神様にお願いしたわ。何度も、何度も……。だけど、最後の最後まで、神様は私をお救い下さらなかった」

 オデットがすすり泣く。

「ねぇ、どうして? どうして私が、こんなひどい目にあわないとならないの? 私は毎日のように神様に感謝し、祈りをささげてきたというのに……」

 オデットは両手を顔の前で組み、静かに祈りを捧げる格好をしたが、視線はクリスに何かを問いかけていた。


「オ……、オデット、それは……」

 クリスは言葉を捜し、そして何も見つけることができなかった。苦悩するクリスの表情をみると、オデットは、また表情を変えた。それは氷のように冷たく、邪な微笑みだった。


「だからね。クリス。私は神様と縁を切ったの。神様でなくてもいい。私の願いをかなえてくれるのなら……、私を辱めたあの男を目の前で殺してくれるのなら、悪魔にだってこの魂を捧げるわ!」

 そう言い放ったオデットの目は白目を向き、恍惚の表情をしていた。


「だめ……。だめよ、オデット。闇に落ちてはだめ。魂を汚してはいけないわ」

「ああ、やさしいクリス。お願い、私と一緒に来て。私を一人にしないで、私を一人で行かせないで」

 オデットは悲痛な叫びを上げてクリスに懇願した。

「お願い、オデット。目を覚まして。あなたは……、あなたは堕ちてはダメ」

「ローヴィルの人たちは、私を魔女だと疑い、散々辱めたあと、魔女として葬ったわ。だから、私、本当に魔女になって、みんなに災いをもたらすの。クリス。あなたもみんなに魔女の疑いをかけられているのでしょう? もう逃げられないわよ。あなたも私と同じ運命をたどる。きっとそうなる……そのとき、あなたは神を信じきれる?」


 オデットは邪な視線をクリスに浴びせた。クリスは下を向いて立ちすくむ。クリスの方が小刻みに震えている。


 嗚咽


「……ちがう。……じゃない。ちがう……ううううう」

 クリスはうつむきながらゆっくりとオデットに近づく。


「あなたは、違う。オデットじゃない。オデットの魂は、闇に落ちる前に救われたのよ。あなたがオデットであるはずがないわ!」

 クリスは、すばやくスカートをめくり上げ、短剣を取り出すと、オデットの胸めがけて飛び込んだ。短剣の剣先は見事にオデットの右胸に突き刺さる。しかし手ごたえがない。人でも獣でも、刃物を突き立てれば、それなりの手ごたえがあるのに、オデットの胸にはそれがなかった。まるで粘土か泥の塊に刃物をつきたてたような感触とともに、腐臭が噴出し、クリスは思わずむせ返った。


ぐぐぐぐぐぐぅぅぅぅううう!


 悲鳴というよりはうなり声のようだった。それは人でも獣でもない、ひどく不確かな存在であり、ひどく邪で、禍々しい淀みであった。オデットであった人影は、ただの影となり、竜巻は見る見るうちに小さくしぼみ、やがて消滅した。クリスの短剣が地面に転がり落ちる。


 クリスは恐る恐る短剣を拾い上げる。剣先には黒いねばねばした液体が付着していた。クリスはそれをふるい落とし、足元に落ちている落ち葉を拾い上げて、剣先をふき取った。森に静けさが戻る。静寂に耐え切れず、クリスは嗚咽を漏らした。


「オデットの……影? それともあれは本当にオデットの魂なの?」

 拾い上げた探検を鞘に納め、オデットはその場にうずくまった。こうべを垂れ、小さくため息をつく。

「あのとき、オデットは救われたのよ。あの銀狼に。私にはわかる。オデットの魂は闇に落ちてなんかいない」


 クリスには確信があったが、なぜ自分がそう思えるのか、まるで論理的な答えが見つからなかった。

「恐ろしいことが起きている。私にだけじゃない。このローヴィルだけでもないかもしれない。だからきっとエーベルハルト様がいらしたんだわ。そしてお父様も何かと戦うことを決意なされた。私だけ隠れているわけにはいかないわ」


 クリスティーヌ・クラウスは、立ち上がりローヴィルの町に向かって歩き始めた。


「ごめんなさい。ジャン。私にはできない。これ以上誰かが傷つくのを放っては置けない」


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