第42話 もみの木の下で
「わたしは、この町で生まれたけど、小さいころのことはよく覚えていないの。ある日お父様がとても悲しそうな顔をして、わたしに語りかけてきたわ。何を話してくれたのか覚えていない。――ちがうわね。理解できなかったの。ただ、涙を浮かべながら『すまない。すまないことをした』と繰り返していたことは覚えているの」
クリスティーヌ・クラウスは、小さくつぶやくような声で話を続けた。
「この町は好きよ。ローヴィルはわたしが生まれた町。お父様がいて、ジャンがいて、オデットがいて……みんなとっても大好きよ。もちろんマルセイユも素敵なところだったわ。でも、あそこにはあたしの居場所がなかったの。はやくお父様のもとへ……ローヴィルに帰りたいってずっとおもっていたわ。だからそのためのことならなんでもやったし、何も苦には思わなかった。そして2年前、ようやく夢がかなったの。わたしが思い描いていたのとは少し違ったのかもしれないけど、でもみんなわたしによくしてくれたわ。そりゃ、だれもかれも好きということはないし、好かれているとも思わないけど、でも、この2年間はとても素敵な時間を過ごしてきたわ」
ジャン・フォンティーヌは、自分の胸の中で静かに震える少女をしっかりと抱きしめながら、時々周囲の様子を警戒する。
「わたしね。世の中には最初から悪い人なんていないと思うの。でも最初から間違っている人はいるわ。その人に罪はないのかもしれないけど、でも、間違いは正すことができると思うの。マルセイユは港町だから、いろんな地域の物も人も集まるわ。だから昨日まで正しかったことが今日正しいとは限らないって……。たとえば、そう、世の中は変化していると思うの。マルセイユには魔女はいないわ」
ジャンは一瞬、寒気を感じた。クリスの美しく、心地よく聞こえるその声からなにかぞっとするような怖れを感じたからである。
「クリス。でも、ここには魔女がいるんだ。いや、必要なんだよ。だから存在する」
ジャンは自分が言った言葉の真意が、はたして正しくクリスに届くのか不安になった。クリスはどこか儚げで、まるで現世とのかかわりを断とうとしているかのように思えたからだ。
「クリス――」
「わかっているわ。ジャン。わかっているけど、わかるだけじゃ、どうしようもないってことも、あるんだわ。わたしも今まで、そういうことがあると知らなかった。世の中も、人も変わっていく。そしてそれが、人を不幸にすることもあるのね」
二人は逃亡者である。クリスはローヴィルの町の人々に魔女の疑いをかけられ、ジャンは彼女を守ろうとしている。クリスの身の危険を案じ、身代りに町の人々にとらわれたのはクリスの父親アベルであり、アベルの友人――老練なハンター、エーベルハルトの指示で、ジャンはクリスを探し、町はずれの小屋に来たのである。
「さっきのはいったいなんだったのだろう?」
ジャンは話題を変えた。
「狼憑きって噂には聞いたことがあるけど、昨夜のことといい、この町に一体何が起きているの?」
「人狼、狼憑き、魔女。僕だって信じられないさ。狼憑きっていうのは、人であることをあきらめた人たちだって、僕はそう理解している。盗賊や山賊みたいなものだって、思っていたけど、実際まのあたりにしてみると、それだけじゃないような……」
「それよりも――」
「うん。誰か来たようだけど、あれは敵なのか、味方なのか」
「わたし……」
クリスは何かを言おうとして、思いとどまった。クリスには心当たりがあった。クリスを魔女狩りの危機から救ったのは、もしかしたら同じ人物かもしれない。町の中で恐ろしく大きな男に声を掛けられた。それがきっかで、クリスは間一髪、魔女狩りから逃れることができたのである。ただ、クリスにはまだ引っ掛かるものがあった。そのまえにすでにあったことがあるよな感覚。それが何なのか、ぼんやりとしたイメージのようなものが、記憶の奥底にわだかまっている。
今度は、クリスが話題を変えた。
「わたし、お父様が心配なの。本当に無事でいられるかどうか」
「今僕たちにできることは、こうして隠れていることしかないよ。クリス。お父様のそばにはエーベルハルト様がついているし、あのエドモンドとかいう教会からきた司教もエドガーよりはましなようだし」
「それよ。そのことよ。わたしが気になっていたのは……。エーベルハルト様もエドモンド司教もどうしてこのタイミングでこの町に来たのかしら」
「その話は僕もまだ直接は聞いていないんだ。エーベルハルト様は詮索されるのが嫌いなようだし」
「べらべらおしゃべりな人よりも、よっぽど信用できるわ。これはわたしの常識の中で、もっとも通用する常識だと思うの」
「なるほど。それに関しては僕も同意見だ」
最初クリスが身を隠していた小屋は、狼憑きによって襲われ、さらに得体のしれない人物が近づいてきた。もうあそこにもどることはできない。森の中をただ当てもなくさまようのも危険である。ジャンとクリスは小屋からまず離れ、そこから少しずつ町の方へと近づき遠くから様子をうかがうことにした。ジャンがクリスをかくまっていることを知る者は少ない。水や食料、衣類など、当面必要なものをどこかで調達しなければならない。幸い町の人々は人狼を怖がり、町の中心に集団で固まっている。まわりを単独でうろついている人間はほとんどいない。
「君がみつかってしまっては、僕も守り切れるかどうかわからない。僕はいったん町に戻って様子を見てくる。その前に安全な場所を確保しないといけないのだけれど、さて、どうしたものか」
ジャンは立ち上がり、クリスの手を取りゆっくりと優しく引き上げた。二人が寄り添っていたモミの木が少し揺れる。
「ここで大人しく待ていてくれるかい。クリス」
「ジャン。あなたの前では、わたし、とてもいい子でしていられるの。でも、あなたの姿が見えなくなってしまったら、どうなるかわからないわ。一人でじっとしているのはとてもつらいの。あの小屋に隠れていて、思い知らされたわ。わたしには無理なのよ。じっと身を隠すなんてことは――」
「街の中に君を連れて行くわけにはいかない。僕を困らせないでくれ」
「お父様と一緒にこの街を出る。それしかないというのなら、それも運命なのかもしれない。でも、もしもお父様を失うようなことがあれば、わたし――」
「そんなことはさせない。僕がさせない。もうこれ以上。誰も死なせやしない。君を悲しませはしない」
「ジャン・・・・・・」
ジャンは必死だった。単にクリスの身を案じるということだけではなく、クリスの中で、何かが大きく変わろうとしているような気がして、それが怖かった。仲のいい友人を目の前で殺され、自分の身にも危険が及び、愛する父親も命の危険にさらされている。クリスの中に暗い闇が忍び寄っているような気がしてならなかった。
「僕が君を守る。君のすべてを守る」
「ありがとう・・・・・・ありがとう、ジャン」
しかしクリスの心の闇は確実に広がりつつあった。ジャンがクリスを守ろうとすればするほどに、クリスは自らを責めるしかなかった。
これ以上、誰も不幸にしたくない
わたしが 魔女だというのなら わたしの身を縛り上げ、焼き払えばいい
それで自分たちの身に、安寧が訪れるというのなら、それを確かめてみればいい
そして自らの過ちに気づいたとき
人は果たして、正気でいられるのだろうか?
「わかったわ。わたし。ここで待っている」
クリスは嘘をついた。
ジャンはクリスの目に宿る決心のようなものを見て取った。その決心がジャンの思ったものと違う決心だったとして、ジャンにそれを見破ることはできなかった。こうして、二人は分かれた。ジャンは街のほうへ走り去り、静寂が辺りを包む。そしてクリスのもとに、闇が、なだれ込んできた。