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朔夜~月のない夜に  作者: めけめけ
第2章 闇に包まれて
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第36話 恐怖の渦

 その男の顔に見覚えのあるものはいなかった。およそローヴィルの町の半数くらいの人がクリスの家の周りに集まってきていた。小太りのみすぼらしい男は、背中に獣に引っ掛かれたような傷を負っていた。その傷口からは鮮血がにじみ出ている。男は意識がもうろうとしていて、足取りがおぼつかない。いや、それは怪我による症状というよりも何か禍々しいものにでも取りつかれたような尋常ならざるものだった。そのことに気づくことができたのは、アベルとエーベルハルト、それに不本意ながらその場に引きずり出されたエドモンド司祭を中心とした、半径3~4メートル以内にいた人々だろう。そのざわつきは、さらにその外円の人々に波紋のように広がっていった。


 エーベルハルトとアベルは身構え、エドモンド司祭は怯えた。やがて男はその場に膝をつき、大きな声で叫ぶ。


グゥ、グゥ、グゥワァーー!


 男の姿勢は前のめりになり、くすんだ肌は全身獣毛に覆われ、二本足で立つ獣へと姿を変えた。獣――いや、昨夜人々を襲った人狼である。エーベルハルトはすばやく銃を構えるが、あまりの人だかりで発砲することができない。それに慌てたエドモンドがエーベルハルトにしがみつき、自由を奪った。集まった人々はそこから逃げ出そうとするが、あまりの人だかりに身動きが取れない。人を押し倒し、跳ねのけ、引っ張り、泣き叫び、怒気を上げ、我を失った。


 人狼が戦闘態勢をとるまでに変身開始から10秒もかからなかった。人狼はどす黒い獣毛を逆立てながら、エーベルハルトを睨みつけ、彼がすぐさま発砲できる体勢にないことを知ると、ひどくいやらしい目をしながらにやりと笑い、逃げ惑う群衆の中に飛び込んでいった。最初に犠牲になったのは、背中の大きな女性である。彼女はいつも大きな声を張り上げて、時に笑い、時に人を罵倒した。比較的アベルの家の近所に住む彼女は町中の騒ぎに便乗して、少しばかり大きな声でアベルやクリスを罵っていたのだが、人狼が現れると何人かを押し倒しながらもその場から逃げようとしていた。しかし、かえってそれが目立つ形となったしまった。彼女が押し倒したり、押しのけたりした人々はその場に倒れこんだり、よろけて彼女の自由な空間を与えていた。人狼にしてみれば、もっとも飛びついやすい人物であったに違いない。


 もっとも狩りやすい獲物からしとめる。


 彼女は大きな悲鳴をまず上げた。それは背中を獣の爪でひっかかれた激痛に対するものであり、勢い彼女はのけぞった。のけぞった無防備な首筋に人狼の卑しい牙が付きたてられる。彼女はもう一度大きな悲鳴を上げたが、のど元をつぶされたので、まるで家畜の悲鳴かと思うような鳴き声を上げて絶命した。その声があまりに恐ろしかったので、その場にいた何人かは耳をふさぎ、その血まみれの姿があまりにも凄惨だったので、それを見た何人かは目を覆い、足がすくんで動けなくなった。


 人狼の目的は狩ることである。一つの狩りが終われば、次の獲物を狙う。人狼の動物的な機能性、効率性と人としての趣向性が導き出す答えによって獲物は決まる。より狩りやすく、より悦に浸りたいという欲求を満たすような獲物。足がすくみ動けなくなったものは、強力な爪の一撃で弾き飛ばし、自らの自由な空間を確保した。エーベルハルトは銃を撃てる体勢にあっても撃てる条件が満たされない。近距離とはいえ、人狼の動きは普通の獣よりも不規則で、狙いが定まらない。人狼を外せば確実にほかの人間に弾が当たってしまう。


「辛らつな!」

 エーベルハルトははき捨てた。その声を聞いてエドモンド司祭がわめきたてる。

「な、なにをしている。早く、早くやつを撃ち殺してくれ!」

 エーベルハルトは舌打ちをした。ジャンに渡した小銃があれば、たとえ、一発目をはずしても、すぐに二発目を撃ち込むことができる。手持ちの銃は小銃に比べて威力、飛距離においては性能が上だが、小回りの利かない場所での使用や、至近距離での連射には向いていない。もし、初弾で致命傷を与えられなければ、相手の反撃を防ぐことは難しい。自分の身はある程度守ることはできるかもしれないが、アベルやエドモンド司祭を標的にされた場合、なす術がなかった。


「やつの動きを一瞬でも止めることができれば何とかできるのだが……」


 人狼は逃げ惑う人々を威嚇しながら右に左に、前に後ろに不規則な運動を続けていた。エーベルハルトはその不規則な動きに銃身を合わせる。それは相手を攻撃するためではなく、身を守るための動作に過ぎない。こうしている限り相手はうかつにこちらに攻撃を仕掛けてはこられない。つまり直線的な動きをけん制することしかエーベルハルトには許されなかった。それ以外の動きにおいて、人狼は思いのままに殺戮を繰り返すことができる。しかも人狼は必ずしも獲物に致命傷を負わせる必要はなかった。人狼はただ、恐怖を煽るのが目的であり、人の心を狩ることを愉しんでいた。


「畜生!」

 目の前で殺される人を助けることができない。エーベルハルトの尊厳は激しく傷つけられた。そしてそれを見て悦に浸る者がいた。


「いいぞ。いいぞ。殺せ! 殺しまくれ! 我らに抗うことの無意味さを思い知らせるんだ」

 テオドールはさも人狼に対して恐怖で怯えているようなそぶりをし、大声で叫びながら、時々人目に隠れて卑屈な笑みを浮かべていた。もしもこの男の様子をじっと観察している者がいたとするのなら、テオドールの精神はすっかり破たんしているかのように見えただろう。しかし、これがテオドールなのである。狂喜に浸る汚れた魂――ローヴィルの町はテオドールの仕掛けた恐怖の渦に巻き込まれていった。




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