第35話 救援
「どう思う?」
エーベルハルトはジャンに尋ねた。
「どう? と言うと、つまりこの状況がですか?」
「そうじゃ」
「町の人がクリスを魔女だと思い込み、大勢で集まってきた。それに気づいたクリスの父親が娘を守るために家の前で爆薬に火をつけるぞと脅して、どうにか町の人を足止めしている」
「そうじゃな。で、クリスはどこにいると思う?」
「そりゃぁ、家の中……」
「おかしいとは思わんか?」
「クリスがもしも家の中にいるのであれば、父親を縦にして隠れているというのは彼女の性格にそぐわない……もしかして、彼女はここにはいないってことですか?」
「もう一つの可能性として、アベルが娘を黙らせるために拘束しているということがあるが、これもアベルの性格からしてあまりそぐわんじゃろうな」
「じゃあ、いったいクリスはどこに……」
「いや、つまりこの場はアベルの身の確保だけをすればいいのだろうが、もう一つ、アベルが命を懸けて大芝居をうっている理由を考える必要がある」
「時間稼ぎ!」
「そうじゃな。おそらくはアベルはなるべく長い時間町の人をこの場にとどめておくつもりなのだろう。それによって娘の安全が確保される。そういう状況だと、わしは思う」
ジャンは老練なハンターの存在を心から頼もしく思った。もし、彼がもう数日早くこの町に来てくれたら、オデットの件も違う結末を迎えていたのかもしれない。
「さて、ここからが問題だ。若造、娘の行先に心当たりはないか? 身を一時的に隠すのにちょうどいい場所。森の奥に人気のない小屋とか、あったりはせんか?」
「それなら僕に心当たりが……」
「そうか。ならば若いの、誰にも気取られないようにそこへ行くんだ。こいつを持って行け。何かの役にたつ」
エーベルハルトはジャンに小銃を手渡した。
「弾は2発じゃ。ここぞという時にしか使えん。しかし、一番大事なことは、やられる前に撃つことだ。今はそれしか教えてやれん。一発で決めようと思うな。2発で一回だ。それでかなわぬ相手なら逃げろ。いいな。娘と合流できたらしばらくは一緒にいてやれ」
ジャンは2連装の小銃を受け取るとそれを腰に差し、身をかがめながら静かにその場を去って行った。
「若いものはいい。素直さと言うのは、年を経るごとに失われていくものらしい」
エーベルハルトは、少し遠くを見るそぶりをした後、厳しい現実に向き合った。
「まずはあの男を探すしかあるまい」
エーベルハルトは人だかりの中にある男の姿を探していた。エーベルハルトは180センチ以上の身長に背の高めのブーツを履いているので背伸びをすれば190センチ近くになる。少しずつアベルに近づきながら、注意深く目くばせをする。
「ふん! 腰抜けが、そんなところに隠れおって!」
その声はあまりにも大きく、群衆の注目を一気に集めた。
「エドモンド! おいエドモンド! なんだ、この騒ぎは! どういうわけでこのようなことになっているのか説明をしてもらおう。何かあったときにはわしも枢機卿に釈明しなければならん。こら! そんなところに隠れてないで、さっさとわしのところまで来るんだ!」
群衆はあっけにとられ、何が起きているのかさっぱりわからないといった感じだ。そして誰よりもあっけにとられていたのはエドモンド司祭本人であった。実はエドモンド司祭はエーベルハルトに見つかるよりもずっと前にエーベルハルトの姿を確認していたのである。ついさっきまではエーベルハルトと合流しようと考えていたエドモンド司祭であったが、事態が思わぬ方向に推移し、もはや制御できないところまで来てしまった以上、エーベルハルトに責めを受けるのは避けられないと思うようになっていた。それでもエーベルハルトは頼りになる男である。どうするか迷った挙句、人の陰に隠れて様子をうかがっていたのである。しかし、群衆の前でここまで名指しで叱咤されては、彼の小さなプライドは大きく傷つき、畏れと怒りでパニックになっていたのである。
「わ、私は……私は……そんなことより、エーベルハルト殿、いったい今までどこに……」
「悪い狼を退治する準備をしていたところだ。それが何の騒ぎだ! わしは言ったはずだ。ことわしの仕事の領分の邪魔をするようなことをしたらタダでは済まないと」
「そ、そんなことはわかっておる。わ、私は、私は聖職者として、なすべきことをしようと……」
「それでこの騒ぎか! 枢機卿のご意志にそう行いとは到底思えんがな」
「と、ともかく、昨夜のこともある。魔女の仕業としか思えんようなことがこの町に続いているとあれば、教会としても黙ってみているわけにはいかんのだ。まず、町の人の話を聞き、一番疑わしいという人物がいるというから――」
「で、この家の住人が怪しいと?」
ここで初めてエーベルハルトはアベルのほうを見た。二人が既知の間柄であることを知る者は少ない。エーベルハルトは、アベルを凝視し、アベルもエーベルハルトを睨みつけた。
「ならば私が立ち会おう。私とエドモンド司祭が一緒にこの家に入り、魔女と疑わしきものがいるのであれば、しかるべき処置をしよう。きちんとした裁判を開く。それまでの間、そのものが魔女であっても悪さができないようエドモンド司祭が何とかしてくれる。そうだろう?」
「わ、私は――」
もう、エーベルハルトの話に乗るしかないと思えた。エドモンド司祭は首を横に振りながらそれでもいやいや前に進み出て、エーベルハルトの前に来た。
「ご主人、失礼だがそういうことになった。その物騒なものをしまってくれるか」
「娘は昨夜のショックでひどく疲れております。今は薬でよく眠っております。なんら皆さんに害を及ぼすことなどございません。どうか。どうか娘を救ってやってください。司祭様」
アベルはその場にへたり込み、エドモンド司祭に対して頭を下げた。
「そういうことだから。どうかこの場はお引き取り願おう。いや、できれば少し話がある。おそらく狼の群れはまたこの町を襲うだろう。それに向けて我々は備えなければならない。戸締りが不安な家に住むものは丈夫な家に避難すること。窓や扉は頑丈に中と外から補強すること。やることはたくさんある。魔女のことは教会から派遣されたこのエドモンド司祭に任せて、狼の対策はこのわしの指示に従ってもらうか。それが唯一、あの人狼の群れから己の身を守る方法だ」
群衆の空気が一気に変わる。それまでの殺伐とした雰囲気はなりを潜め、気勢をそがれて無気力状態に陥ったかのようだった。この状況を苦々しい思いで見つめている者がいた。テオドールである。
「せっかく盛り上がってきたのに、なんてこったい。おい、お前、言ってちょっくら暴れてこい」
「暴れるって……こんな真っ昼間に」
「おい、よく見ろ。俺の目をよく見ろ。さぁ、よく見るんだ、俺の目の中に、何が見える。よく見るんだ」
テオドールの手下の一人、小太りでみすぼらしい男は、テオドールの言うがままにテオドールの瞳の中を覗き込んだ。テオドールの瞳は青色からだんだんと赤く光り、それはまるで真っ赤に染まった月のようであった。次第に男の体が震えだす。テオドールは小太りのみすぼらしい男の耳元に囁いた。
「お前は病気だ。狼に襲われて傷を負った。あの男は医者らしい。医者に診てもらえ。助けてくださいって……」
次の瞬間、小太りのみすぼらしい男は情けない悲鳴を上げた。
「ひぃぃい」
テオドールは男の背中を自らの爪でひっかいたのである。テオドールの腕は一瞬人のそれとは違う獣の腕になっていた。いや、獣でもない――人狼である。
「さぁ、行け。行って貴様が変身するところをご披露するんだよ」
もはや小太りのみすぼらしい男は自分の意志で何も決めることができないようであった。テオドールに言われるがまま、アベルのいる方角に向かってよたよたと歩き出した。
「お医者様、お医者様、どうか、どうかお助けを……・私は狼に襲われて、ひどい怪我を、どうか手当を、どうか手当を……」
いったん終息したかのように見えた混乱は、卑しき者の手によって狂乱へと変化しようとしていた。