第34話 アベルの家へ
「おい、いったい何事だ。この騒ぎは?」
「どうやら魔女がまだ、この町に潜んでいるらしいってさ。それがあの医者のアベルの娘が魔女じゃないかっていうんだから驚いたね」
「な、なんだって!」
最初に問いただしたのは初老の男であった。帽子をかぶり、立派な髭を蓄えている。考え事をするときに顎から伸びた白いものが混じった髭を右手でいじるのが彼の癖であった。問いに答えたのはマリーという町でパン屋を営む女店主、その答えに驚きの声を上げたのは荷物をたくさん担いだ若者であった。
「あら! ジャンじゃないの。お父様が探していたわよ」
「マリー! そんなことより今の話はいったい?」
「なんでも教会から派遣された、なんとかという司祭にエドガーぼっちゃんが狼男のことを相談したそうなんだけど、魔女の仕業じゃないかって……」
「なんだって!」
今度は若者――ジャン・フォンティーヌが質問し、マリアの答えに対して老練なハンター――エーベルハルトが驚きの声を上げた。それは先ほどのジャンの言いようと比べると嫌悪の態度をあらわにした言い方だった。マリアは見知らぬ御仁にそのような態度をとられたことにひどく困惑している様子だった。ジャンがさらに問いただす。
「それじゃあ、この騒ぎは、クリスを捕えようっていうのか! 魔女として!」
マリーは、ジャンの勢いにたじろぎながらも小さな声で答えた。
「だって、フランクやマルコもみんな魔女が悪いんだって……狼男をけしかけたのは魔女の仕業だって……」
「どうしてそれがクリスなんだ。あなたと一緒に来たという司祭……」
「エドモンドだ」
「そう、そのエドモンド司祭はなんでクリスが魔女だなんて言いだしたんだ」
「そんなことはワシにもわからん。しかし、問題はエドモンドが何を根拠にそんなことを言い出したかということよりも、この事態をどう収めるかだろう? ことは一刻を争う。急ぐぞ、若造」
エドモンドは帽子を取り、マリアに対して会釈をした。その姿は礼儀正しく、気品と尊厳にあふれていた。その男がただのハンターではなく、貴族かあるいは軍隊――それも正規の軍隊にいたことを表しているのだとマリアが考えるよりも先に彼ら二人はマリアの前から姿を消していた。
「おそらくはエドモンドに考えがあってやっていることではないだろう」
走りながらエーベルハルトは誰に話しかけるでもないような口調で話しだした。
「昨夜の出来事で不安に駆られた町の人々が、おそらくはあの坊ちゃん――エドガーとかいう司祭がエドモンドに助言を求めて、最初に疑われたあのかわいそうな少女に近しい人間が疑わしいとか、そんなことを言ったに違いない。まったく、考えなしに口を滑らすからこういうことになる」
ジャンには『どうして』という気持ちと、『やはり』という気持ちが混在していた。こうなることを恐れて、ジャンはクリスが親しかったオデットを魔女裁判から救い出そうとするのを止めたのだった。結果的にオデットが魔女であったかどうかはうやむやである。そのようなことを確かめる前に人狼の襲撃を二回も受けたのである。ジャンの父――エリック・フォンティーヌは、たとえオデットが本当の魔女であるかどうかは別として、それで町の人たちの不安が消えるのであれば犠牲はやむなしという考えには納得がいかなかったが、父の立場も分からなくはなかった。しかし、事態はさらに悪化している。
「どうしてこんなことに……この町は本当に呪われているのか」
「呪いだと! 下らん! 呪われているのではなく狙われているのだよ」
「狙われている? 誰に? なぜ」
「狼が獲物を狩るのに理由が必要か?」
「獲物……ですか」
「人間は狩ることには慣れているが狩られることにはないと思い込んでいる。無防備すぎるのだ」
エーベルハルトの表情の中に様々な複雑な思いがあることをジャンは感じていたが、今はそれを考える時ではないと知っていた。クリスの家まであと5分。何事も起きていないことを祈るしかない。奇しくもそれはクリスがオデットを助けようと森の中を駆けていた時と同じ状況であったが、ジャンはそのことを知らなかった。
「間に合ってくれ」
その言葉を口にしたのはジャンだったか、エーベルハルトだったか、或いは両方だったのか――その祈りはまったく違う形――望まない形で叶えられることになる。アベルの家に近づくにつれて人々が殺気立っていることがひしひしと伝わってくる。一触即発の雰囲気。今にも殺気の詰まった風船が割れてしまうかのような緊張感が肌を刺す。
「まずいぞ、これは……」
エーベルハルトは戦闘態勢に入っていた。ジャンもエーベルハルトの呼吸が変わったことに気付いた。エーベルハルトの邪魔にならず、なおかつとっさのときに役に立てる位置にいることに努めた。
「大事な荷物だが仕方がない。どこかそのあたりに隠しておけ」
ジャンはエーベルハルトの指示に従いアベルの家に届けようとエーベルハルトが宿泊する小屋から持ち込んだ荷物――それは大きさの割にひどく重い革製の袋であるがエーベルハルトはそれが何であるかを教えてくれなかった――を通りかかった家の軒先に積まれた麻製の袋の下に潜り込ませた。一気に体が軽くなった。
「よしっ! 行くぞ。家の裏側から回り込むにはどっちに行けばいい? わかるか?」
「はい、案内します。こっちです」
二人はアベルの家に直進するのではなく、裏を回って人だかりの反対側に出るコースをとった。人だかりをかき分けて進むより少しは早くアベルの家にたどり着ける。エーベルハルトはいかなる時でも冷静である。
「気に入らんなぁ。ここまで町の人々が殺気立っているのには、何か他に訳があるかもしれん」
「そうですね。これはちょっと異様な雰囲気です。もしかしたら誰かが余計に煽っているとか……」
「そう。だから気に入らない。だいたいそんなことをして何の得になる?」
「確かに……」
「ともかく、殺気立ってはいるがまだ、それは解放されていない。そのうちはまだことが起きていないということだ」
アベルの家の裏手から人だかりの割と薄い方へ出ることに成功した。異様な緊張感が漂う。状況を確認しようにもとても話しかけられないような雰囲気である。エーベルハルトは人垣をするすると抜けて騒ぎの中心地――アベルの家に近づいて行った。その背中をジャンが人にぶつかりながら追いかける。人と人の合間からようやくアベルの家が見えた。玄関に妙な空間が開けている。直径3メートルほどの空間である。アベルの家の玄関の前、そこにアベルの姿を見て取れた。
間に合ってくれた!
ジャンは安堵した。エーベルハルトが不意に立ち止まる。危うくジャンはエーベルハルトにぶつかりそうになる。ジャンはエーベルハルトの肩越しにアベルの姿をもう一度確認した。クリスはどうやら家の中なのか。アベルは左手に何やら紙の包みを持っている。右にはランプがある。朝だというのにランプの灯りが妙に明るい。それだけ空はどんよりとしていた。
「爆薬か……」
エーベルハルトが呟く。最初ジャンはその言葉をはっきりと聞き取れなかったが、すぐに状況を飲み込んだ。アベルは数十を超える群衆を一人で足止めするために、爆薬をちらつかせ、これ以上近づけばみんな木端微塵だと脅しているのである。クリスは部屋の中にいるに違いない。
「さて、どうするか……」
エーベルハルトは顎の髭をいじり始めた。アベルはまだこちらに気付いていない。下手に動けば妙なきっかけを作ってしまう。一度この群衆が動き出したら、もう止めるすべはない。ジャンはもどかしかった。目の前に助けなければならない人がいるというのに、手出しができない。それはまるでオデットを助けられなかったクリスと同じ境遇であった。