第33話 グスタフ
狂喜に駆られた人々の群れ――群集は異様な興奮状態にあって、目的意識ははっきりとしていた。魔女を探し出し、魔女を縛り上げ業火にて焼き払う。それですべてうまくいく。平和な町の生活が取り戻せる。誰もそれを疑わないし、誰もがそれを信じていた。信じなければ恐ろしさで本当に狂ってしまう――すでに狂気の中にありながらそれでもなお狂気から逃れようとする思いが、人の正気を失わせる。
「哀れなり人よ。自らの狂気で己が魂を汚すか」
大男は群集に逆らうでもなく、抗うでもなく、従わず、屈せずその存在はまさに大木の様でもあったし、巨大な岩のようであった。大男には目の前に広がる光景が異様なものであっても、異常なものではない。その男の名を知る者は少ない。本人ですら自分の名を尋ねられてもすぐに答えられないほどに、名を持つ人であることに執着がない。あるときは『大男』と呼ばれ、ある国では『最強の兵』と称えられ、ある軍からは『怪物』と呼ばれていた。この大男を指し示すすべての名が彼をいい表し、また彼のすべてを語る名ではない。この男は人であることから自由であった。人でもあり、獣でもあり、またそのどちらでもない存在。それがこの大男――グスタフである。
一人の男がグスタフにぶつかり倒れこむ。余所見をしていたのはぶつかってきた男であり、グスタフが大男でなければ、倒れこんだのはグスタフの方かもしれない。しかし真理が正しい結果を生むとは限らない。そして事実は真理を覆い隠す。
「な、なにしやがる」
倒れこんだ男は右手に手ごろな薪を握っていた。人を殴るのにちょうどいい。そしてこのようなときに相手を威嚇するのにもちょうどいい大きさであった。本来であれば倒れこんだ男の恫喝は効果的に相手に働くはずであったが、しかし、相手が悪い。大男の腕の太さは倒れこんだ男の薪は、武器にはなりえないことを示している。
「我が名はグスタフ。お前に問う。この騒ぎ、いったい何事が起きたというのか。みなどこに向かっている。答えよ」
倒れこんだ男は一瞬戸惑った。大男が唐突に名乗り、そして勝手な要求を一度に二つ――『何が起きたか』と『どこにいくか』を尋ねてきたことにも戸惑ったが、男の声があまりにも低く地響きがしたかのような声であったこと、そしてあまり聴きなれない訛りがあったことで、対応が遅れたのであった。
「な、なんだ。あんたいったいどこの人間だ……み、みんなこれから魔女を捕らえに行くところだ。き、昨日、魔女と疑われたオデットという少女が魔女裁判にかけられて有罪になったんだ。刑は執行されたが、と、とんだ邪魔が入った。狼男が現れたんだ。やつら夜中に町を襲撃しやがった。いっぱい死んだんだ。で、魔女はまだ他にもいるということになった。今からその魔女のところへ……町外れで医者をやっているアベルの娘、クリスティーヌが魔女だって話だ」
「愚かなりニンゲンよ!」
いきなり叱咤されたことに腹を立てはしたものの、男の怒気に当てられたことにより、倒れた男は、皮肉なことに狂気から解き放たれた。
「み、みんなが、そういっているんだ。な、なんでも教会から派遣されてきた司祭が、他に魔女がいるに違いないって……オデットの蕎麦にいた人間を疑えっていうから……」
倒れこんだ男は、右手に握った薪を見つめ、そしてそれを放り投げた。
「だってよ。だってよぉ……狼男が現れて本当に町を襲ったんだ。俺の仲間もやられた。あの気のいい料理店の旦那も、気立てのいい若い奥さんもみんな奴らに殺されたんだ。喉を噛み千切られ、目玉くりぬかれて、心臓を抉り出されて……あれは、あれは、本当に地獄だ!」
グスタフと名乗った大男は、男に背を向け、群集の向かう方向へと歩き出した。その一歩一歩に強烈な怒気が感じられた。男の背中はたとえ後ろから殴りかかっても、次の瞬間に強烈な反撃を繰り出すような隙のなさがあった。戦の経験のない倒れこんだ男にもそれはすぐにわかった。
「怖いのだ。怖いのだよ~」
男はその場に座り込んだままとうとう泣き出してしまった。そんな男を尻目にグスタフは群集をかき分けるように前に進む。グスタフを突き動かすものが何であるのか。本人にもわからなかったが、グスタフの脳裏には一人の少女の姿が浮かんでいた。
「あの金髪の娘なのか……我を呼ぶのは」
「あれは……グスタフ。あれはグスタフじゃないか。クックックックゥ……これはまた面白いことになってきたぞ。しかし、なんだってヤツがこの町にいるんだぁ」
もし町がいつもどおり平穏なときの中にあるのであれば、グスタフの存在は道行く人すべての注目を浴びていただろう。非日常は非日常を隠す。一人一人は見慣れない大男を気にしながらも、今やらなければならないこと――魔女を探し出し、火あぶりにすることばかりに気をとられていた。しかしこの男――卑屈な笑みを浮かべたテオドールは用心深くグスタフの動向を見守っていた。
「そうかぁ。そうだったなぁ。そういえば少し前に奴とあったんだった。俺たちの警告を無視してまでこんな町に何の用があるっていうんだ。しかし人の姿をした銀狼を拝むのは久しいなぁ。何年振りか、或いはそれほど立っていなかったか……覚えちゃいない。覚えてなんかいられねぇんだよ」
人狼の記憶は狼の時と、人狼、そして人の姿のときと記憶が連続しない。変身とは外見だけではなく、すべての機能が変化してしてしまう。狼の姿で人のように記憶をしたり思考したりはできない。記憶もまた同じである。テオドールはしばらく考えこんだ後、一つの結論にたどり着いた。
「奴は、何かを探しているのか……いや、人を探しているのか。ならばあの魔女の疑いをかけられた哀れなお嬢さん――医者の娘とかいったか?」
テオドールは仲間に合図を送り、グスタフと距離を置きながらあとをつけて行った。不穏な空気が流れる。しかしそれに気付いているものはほとんどいなかった。