第32話 狂気
狂気に駆られた群衆の波に逆らって一人の男が歩いている。身の丈は2メートルに達し、全身を灰色のフードで覆い隠しているが、分厚い胸板は外側からでもわかる。普段であればだれの目にもとまるのであろうが、人々の関心はすべて魔女に向けられていた。
「哀れなり人よ。狂気に駆られ我を忘れて闇に落ちるか。それもまた人が人であるが故の業だとしても、我の知るところに非ず」
まったく気づかないというわけではない。行く手にその男あればみないぶかしげな顔をしながら避けて通る。はて、こんな男がこの町にいたのか――いや、いまはそれどころではない。はやく魔女を探し出さなければ……
「人よ。探しているものが、実は知らないものだと気づかないのか。知らない魔女をさがそうとして、どうして人に見つけることができるのか。知らないものをどうして見ることができるのか。愚かなり人間。人よ。お前たちはすでに呪われているのだ。そしてそのことに気付かない限り、決してその呪縛から逃れることはできない。しかし――」
男は何かを探しているようだった。自らもまた、知らないものを探していると男は自分を笑ったのである。
「奇妙なものだ。なぜこうしてここにいるのか。何を探しにここに来たのかもわからぬとはな。まぁ、いずれわかるときがくる。そしてまた、忘れ去る。我、真理を求めず。真理を知らず。知ることのないものをどうして求めることができようか。我知るは、我の血の求め従うを是とし、我の道は我の血によって開かれる。我の血は我の血であることを我は知る。真理というものがあるのであれば、我の血の中にこそ真理はあるのだ」
ドサッ!
男の足に何かが当たる。それはひどく非力で、小さいものであった。そして男を見るなり泣き出した。
エーン! エーン! パパァー! ママァー!
男にはそれが子供であることはすぐにわかったが男の子であるか女の子であるかわからなかった。年齢にして5歳かあるいはそれよりもしたかもしれない。しかし男には『それ』がどうして泣いているのか。どうしてこれほどまでに非力なのかを理解できずにいた。そこにもう一人の子供が現れた。泣いている子供より少し大きい。大きい子供は小さい子供の手を引いて男の前から姿を消した。男も子供のこの町の大人たちからは見えない存在になっているようである。
男は再び歩き出し、町の中に消えて行った。
ジャン・フォンティーヌは父親が自分のことを探していることをしらず、またエーベルハルトもエドモンド司祭が7の不満と3の頼みごとをエーベルハルトに伝えるために探していることを知らなかった。二人は町の中の騒ぎを気にしながらも、黙々と作業をこなしていた。クリスもまた父アベルから渡されたメモに書かれた品々を準備するのに集中をしていた。どんな勇者にもどんな賢者にも悪しき考えを持ち、それをなそうとする者の気配をすべて感じることも、陰謀を見破ることもできない。4人が再び病院を営むアベルの家に集まったとき、狂気に駆られた群衆はオデットの家に押しかけ、魔女の手掛かりを探して部屋中を荒らしてまわり、いくつかの彼らの探している答えを見つけた。そのうえでオデットの墓を掘り起し、遺体をバラバラにしたあとに火の中に投げ入れた。
「オデットと仲の良かったクリスティーヌはやはり何らかの関係があるにちがいない。実際にオデットはクリスティーヌから字を習ったりしていた。あの子が字を読めるようになったのはクリスティーヌが恐ろしい魔術の書を読ますためだったのではないのか」
一つの仮定、一つの妄想、そして強大な畏れが、あるものを見えなくし、ないものを見えたかのように思わせる。胴体からオデットの首を切り落としたとき、オデットは「クリス」と言いかけたというものまで現れた。そしてオデットを焼いた炎からでた煙は、クリスの家の方角へ向かって流れて行ったと誰かが言い出すと、男たちは手に農機具や工具を握りしめてクリスの住む家目指して歩き始めた。その後ろを恐る恐る女たちが続いた。
「本当にあの子なのかい」
「あの子はずっとこの町に住んでいるわけじゃないから、きっと南の町で悪魔に出会ったのさ」
「魔女を殺せば平和になるの」
「教会から来たというエドモンド司祭を呼んだ方がいいんじゃないの。エドガーじゃ頼りないし……」
こうしてエドモンド司祭は魔女裁判のエキスパートとして半ば町の人々に引っ張り出される形でこの魔女狩りの列に参加することになった。最初エドモンド司祭はそれを拒もうとしたが、この騒ぎの中であればエーベルハルトとの合流もできるかもしれないという打算も少しはあった。しかしそれは、最悪の形でなされることをエドモンド司祭には知る由もなかった。
その列を卑屈な笑みを浮かべながら見守る者がいた。長く伸ばした髪の毛を後ろで結わき、闇に溶け込むような暗い色をしたシャツにズボン。肌の色の白さが不気味なほどに目立つ。ひ弱そうに見えて、目は爛々と輝き、唇が異様に赤い。男は卑屈な笑みを浮かべながら、それでいて目はまったく笑っていなかった。すべてがアンバランスなのだ。
「クゥクックックッ……宴の始まりだ。踊れ! 踊るんだ! 狂ったように……クゥクックックッ……」
そしてその邪悪な気配に不快感を表す者もいた。
我は、闇の眷属なり。我、月の灯りとともにその姿を獣と変え、地を走り、闇を切り裂き、血を求めるなり。我の血は、神の理に叛き、闇に生き、光を忌み嫌うものなり。
清らかなることも邪なることを是とせず、非とせず。ただ闇の声に従うのみ。我の血に従うのみ。その血いわく、卑しきものを忌み、乏しきものを疎む。
我の血猛る。我の血を汚すものは我の牙により噛み千切られ、我の爪により引き裂かれる。
「奴の名。あの卑しき者の名は……テオドール」