第30話 混乱と混沌
いつもと全く様子が違っていた。ローヴィルの教会には朝から人々が集まり始めていた。自分の命の無事を神に感謝し、隣人の死を悼む。命の喜びと悲しみが混在し、やがてそれは、明日には自分がどうなるかわからないという方向へと天秤が傾き、人々は祈りをささげる。しかしいくら祈りをささげたところで、神がこれまでローヴィルの町の人々を何かの手段で救ってくれたことは一度もない。救済は常に人知れず行われるものなのかもしれない。そう教えられてきたし、そう信じてきた。しかし今彼らに必要なのは、もっと具体的な安心である。死病やの天候の不順による作物の不作というのは、どのみち人の手でどうにかできるものではない。人は祈り、神は人知れずその祈りにこたえて町の人々を最悪の事態から守ってくれていた。そう理解していたし、心からそれを望んでいた。
しかし、今は違う。獣の襲撃――それも尋常ではない邪な存在に命を脅かされているのである。彼らにはそれに抗うすべはない。狩られる身なのである。
「エドガー司祭、あれは、あの獣はいったい何者なんです? あれは悪魔の使いですか? それとも神の天罰なのでしょうか?」
教会に救いを求めて集まった人々は、若い司祭に――デニス司祭が生きていればという枕詞を誰もが心の中で呟いてしまう――頼るしかなかった。
「神はあのようなものを遣わせたりはしません。あれは悪魔の仕業です」
「悪魔なら、私たちはどうすればいいのです? 神に祈ればよいのですか? それとも私たち自身で悪魔を退治しなければならないのですか? そんなことができるのですか?」
町の人々の質問にエドガー司祭は困り果てていた。なぜならそんなことは父デニスから少しも教わっていないからである。
「わ、わたしもこのようなことは初めてで……古い文献を調べてみないことには……父は……デニス司祭なら、このような時こそ、神に祈り、教えを請えと……」
エドガーの父、デニス司祭は町の人々の信頼が厚く、どのような天変地異があっても、最後は神が必ずお救いくださる。どんな時も神に祈ることを忘れてはならないと説いていた。町の人々もデニス司祭の言葉を信じ、そして神を信じて今日まで暮らしてきた。絶対の神への信頼は、デニス司祭の神への忠誠、信仰の厚さがあってこそのものであった。人々はデニス司祭を通して神の存在を感じることができたのである。しかしそのデニス司祭も神のもとに召された。今はその息子エドガーがその役割を担っている。優秀な父親の跡を継いだ息子。どこの社会でもあることだが優秀な父親の後を継ぐ息子は、そこそこ優秀であってもなかなか評価されない。そしてこれもよくあることだが、エドガー司祭は決して無能ではないが平凡な人間である。父の言うとおりにやってさえいれば、何も心配はなかった。そんな父親がこの世を去った後、エドガー司祭は頼るものをなくし、それを書物、古い文献に頼ったのである。平時であれば、それで問題はなかったのだろう。しかし、有能な父ですら体験したことがないような異常な事態である。エドガー司祭には荷が重すぎ、誰一人としてそれを責める気はない。責める気はなくても、人の呑み込んだ言葉は、いずれ相手に伝わるものである。エドガー司祭は苦悩し、混乱した。そして文献以外に頼るべきものを探すことになる。それが中央からやってきた若い司祭であっても、それを責めることができる者はいないであろう。
「エ、エドモンド司祭、いったい私は、私たちはどうすればよろしいのでしょうか? 司祭であれば、枢機卿のおそばに仕えていたあなた様であれば、このようなときにどうすればよいのかご存知でありましょうか? 私は父デニス司祭には遠く及ばない非才な身でございます。どうかご教授いただけないでしょうか」
このような申し出にエドモンド司祭がどのような反応をするのかをエドガー司祭はまったく予測をしていなかった。むしろ救われて当然という感覚――父が神を信じて疑わず、自分もそんな父を信じて疑わないように、エドモンド司祭が快く要請にこたえてくれるものだと思い込んでいた。
「私はそのようなことをするためにここに来たわけではない。そもそも魔女狩りなどと勝手なことを知識のない者がやるからこのようなことになるのじゃ」
意見としてはまっとうな意見であり、同時にあくまでもたとえ話であって、そもそも魔女狩りと今回の件に因果があるなどと、エドモンド司祭自身思っていなかった。言葉の勢いである。しかし言ってすぐにエドモンド司祭は自分の発した言葉をすぐに修正したいと思った。それは自分の言葉を聞いたエドガー司祭の表情があからさまに自分の言ったことを真に受けて、目を輝かせながら何かを言いかけたのがわかったからであるが、すでに手遅れであった。
「で、であれば、エドモンド司祭! 私たちをどうかお導きください! 私たちの過ちがこのような災いをもたらしたのであれば、それは正さねばなりません。それができるのはエドモンド司祭のほかにはございません。やはり魔女裁判のやり方や刑の執行方法について誤りがあったのですね。やはり魔女がこの町にまだ潜伏しているということでしょうか? エドモンド司祭。どうか私たちをお救いください!」
エドモンド司祭は3度言葉を飲み込んだ。最初の『お導きください』と言われたときに断りの言葉を言おうとして遮られ、『エドモンド司祭のほかにはございません』の時に『私にそんな力はない』と言いそびれ、『魔女裁判のやり方……』のところで『知らん』と言う機会を逃し、そして『お救いください』の言葉にしぶしぶ、『承知した』と答えざるを得なくなった。
「わ、わかった。わかったから少し時間を……」
エドガー司祭はこの『わかった』の言葉にエドモンド司祭が否定をしようとして失敗した3つの問いの答えをすべて『Yes』と受け取り、『正しい魔女裁判を行い、それによって、この町を救おう。準備のために時間をくれ』ととらえたのである。もちろんエドガー司祭は、順を追って否定し損ねた3つの問いをただすとともに、それでもなお現状を打開する手段があるのかないのか、エーベルハルトに相談する時間がほしいといったのである。歯車はどうしようもなく狂いだし、運命の糸は、もはや誰にも修復できぬほどに絡み合い、混乱と混沌をいざない始めた。