第26話 等価交換
「アベル。ひとつ忠告しておく」
クリスが運んでくれたコーヒーの香りを愉しみ、ふた口ほど口にしたあと、エーベルハルトは右手で白い色が目立つあごひげをいじりながら静かに話し始めた
「なんだね」
「もう忘れるんだ」
「それはできない相談だ。君の忠告には聞くべき価値があるのは承知している。君はいつだって正しい」
「そんなことはない。私は――」
「常に何が最良かを考えているだけ……か」
「そうだ。その努力を惜しまない。それだけだ。決して私の選んだ道がすべて最良だったとは思っていない。失敗は誰にでもある。人なのだから仕方がない――しかし、君は」
「言いたいことはわかっているつもりだ。だからそれ以上、私を責めないで欲しい」
「別に責めているつもりは――」
「君の申し出を引き受けるつもりだが、しかし、材料がなくてはどうにもできん」
「それは心配要らない。材料なら――銀なら用意してある」
アベルはひどく疲れた表情をエーベルハルトに見せた。
「枢機卿か?」
「あの男は食えない男だ。いや、食えないどころか危険だと私は思っている。あの男は妙に勘がいい。そしてキレすぎる」
「しかし、その危険すぎる男の命でここにきたのだろう?」
「あの男の怖いところはこちらが断れないような状況を作ってから指示を出すところだ。今回のことだってそうさ。あの男が君の名前を出すことはなかったが、仕度品の中に明らかに銀の弾丸を作るために必要なものを入れている。私のような表面的な言葉や命令では動かない人間には、そういうやり方をする。逆にエドモンドのような――言わば私を監視する役目を負わされた若い司祭なのだが、あのような小者を動かすときには、権威と金とわずかばかりの欲を刺激して人を動かす」
「手ごわいな」
「ああ。そうだ。だから今はあの男の書いたシナリオの通りに動くことにしている」
「しかし、枢機卿はワシを錬金術師としてまだ利用しようというのか」
「君の過去について知るものは少ない。枢機卿は秘密を最も大事にする男だ」
「だから君をよこしたわけか。君の頼みなら断れるはずもない。恐ろしい男だ」
錬金術師という言葉をアベルが口にしたとき、エーベルハルトは少し意外な気がした。普段、人前でこの言葉を口にすると、アベルはひどく機嫌を悪くする。その言葉をアベル自らが口にしたのはいつのことであったか、エーベルハルトは考えていた。
「あのような忌々しい術を使わずに何とかできればいいのだが、どうやら君の提案を引き受けるしか他に手はないようだな。ワシは絶対にあの子を――クリスを守らなければならない」
「うん。そうしてくれると助かる。だが、どうか自分自身を――連金の術を使う君自身を責めないで欲しい」
「それはできない。できんよ。エーベルハルト。私はこの罪の意識を一生背負っていくつもりだ」
「奥様のことは――」
「なぁ、エーベルハルト。人はどこまでも強欲だ。昨日よりも今日、今日よりも明日の暮らしを浴したいと願い、それを実現してきた。人の営みとはそういうものだとは思う。しかし、だからといってそのために何をしても言いということにはならない。私はそれを侵そうとした人間だ」
「アベル。それはこの際、もっと多くの人が抱えるべき問題で、君一人で背負って行けるものではないよ」
「それはちがうよ……ちがうのだ。私は妻を助けんとするばかりにあろうことか禁断の術に手を染めようとしたのだよ。それは私自身の問題で、誰かに背負わせるものでも、誰かと分かち合うべきものではない。これは私の――私とあの子の問題だ」
アベルはクリスが入れてくれたコーヒーをしばらく眺めながらそこまで言い終わると、コーヒーを一気に身体に流し込んだ。
「コーヒーというのは香りを楽しむもので、味わうものではないよ」
「君は相変わらずだな。君は間違いを犯した。そしてそれを悔い、錬金の術をすべて封じた。でもその術で多くの人が救えるのだとしたら、或いはそれによって大切な人を守れるというのなら、君は自分を責めることはないと思うのだが」
「エーベルハルト。私はもともと医者だ。錬金術師ではない。だから医学の発展も信じているし、同じように今できることの限界を知っている。妻を医学で助けられないとわかったとき、私は医学以外の力で妻を助ける可能性があるのであれば、それを追求することも医学のひとつだと考えた。でも。それは違っていた。錬金術の基本的概念は等価交換だ。死に掛けた命を救うためには、それと同じ価値のものを捧げなければならない。それを知ったとき、私は私の妻を助けるために、自分の娘の命を引き換えにすることを考えてしまったのだ。まだ幼い、あのクリスを私はこの手にかけようとしたのだよ」
「でも君はそれをしなかった」
「しなかったのではない。できなかったのだ!」
アベルは少しだけ声を荒らげ、そしてとても悲しそうな目をしながら床に向かってはき捨てた。エーベルハルトは立ち上がり、アベルのすぐ横に立ち、意気消沈する古い友人の肩に手をおいた。
「わかった。もうこの話は止めにしよう。過去を清算するときはいずれ来る。そのときに笑って死を受け入れるか。なすべきことをなせなかったともがくことになるのか。それはまだ先のことだろうよ。それまでに我々には、なすべきことが多くある。今夜はありがとう。君に会えてよかったよ」
アベルは彼の肩に乗せられた旧友の手に自らの手を重ねた。アベルの手はすっかり冷え切っていた。
「ありがとう。君にはいろいろと世話になりっぱなしだ。いつか借りが返せるときがくればよいのだが……」
「今は一刻も早く銀の弾丸が欲しい。おそらくやつらはこれからもこの町を襲うだろう。不定期に、断続的に現れては、一人ずつ狩をする。やつらの目的は恐怖を植え付けることだ。そうなってからでは手のつけようがない。魔女狩りのような蛮行をこれ以上させないためにも、君の協力が必要なのだ」
「魔女狩り――君は心底憎んでいるのだね」
「狼男など採るに足らん。本当に怖いのは、狼男や魔女の恐怖に耐えられなくなった人間そのものだ。恐怖は人を支配し、心の中に悪魔を生む。それはなんとしても避けねばならない。枢機卿もそう考えている。その意味で、私と枢機卿の利害は一致しているわけだ。その間はお互いを必要としているから、まぁ、これほど心強い後ろ盾はないといっていいだろう。しかし――」
「そうでなくなったときは、怖い存在だな。わかった。すぐに作業に取り掛かろう。期待にはこたえてみせる。早速材料を運んでくれ。できれば、それとわからないようにしてくれるとありがたいが、非常時だ。そうも言っておれんか」
「場所はここでいいのか?」
「ああ。地下に工房がある」
「娘さんは――クリスはしているのか?」
「知らん。だからできればそれとわからないようにして欲しいのだが、いずれあの子にも話をしないとならんだろうな」
「うらやましいな。いい娘さんじゃないか」
「ふむ。ワシには過ぎた娘だ。貴公はどうなのだ。相変わらず独身を貫いておるのか」
「これにて失礼する」
エーベルハルトは、アベルに背を向けてドア口までさっそうっと歩いていった。
「ずるいぞ。エーベルハルト。勝ち逃げか?」
「勝算のない戦はやらん」
そういうとエーベルハルトは、一度もアベルを振り返ることなく部屋を出た。
「夜が明けたらまた来る」
アベルはイスから重い腰を上げて天井を眺めながらつぶやいた。
「アネモネ。あの子は許してくれるだろうか?」
アベルは天国に旅立った亡き妻に問いかけたが、その声にこたえるものなどいないということを、アベルが一番良くわかっていた。
シナリオの構成上 以下の内容を書き換えました
(修正前)
「ああ。そうだ。だから今はあの男の書いたシナリオの通りに動くことにしている」
「しかし、枢機卿はどうしてワシが銀の弾丸を――錬金術師であることを知っていたのだ」
「それに関しては心当たりがないわけではないが、今は何の証拠もない」
「詮索しても意味はないか」
(修正後)
「ああ。そうだ。だから今はあの男の書いたシナリオの通りに動くことにしている」
「しかし、枢機卿はワシを錬金術師としてまだ利用しようというのか」
「君の過去について知るものは少ない。枢機卿は秘密を最も大事にする男だ」
「だから君をよこしたわけか。君の頼みなら断れるはずもない。恐ろしい男だ」