第23話 嵐が去るまで
ローヴィルの町は東西に長く伸びており、北側と東の先は深い森になっている。この森を抜けると神聖ローマ帝国領となる。しかし、森の中に馬車のような車両が通れる道はなく、ローヴィルの町に入るには南側に迂回することになる。商業的な物流は西と南が中心であり、西はフランス領土の中心へ、南は地中海に続く道となり、どちらかといえばローヴィルは南側――マルセイユとの流通が盛んであった。東側は西に比べればひっそりとしたたたずまいになっている。ローヴィルで町医者をやっているアベル・クラウスの家はその東側の中心から南に行ったところにある。アベルの一人娘、クリスことクリスティーヌ・クラウスは17歳。幼いころに母を亡くし、男手一人で育てられないとして、マルセイユの遠縁の親戚に預けられたのは5歳のころであった。15歳で父のもとに戻るまでの間、クリスはマルセイユで勉学に励み、父の手伝いをするための医学の知識はもちろん、様々な科学的な知識を身に着けていた。
「マルセイユでは魔女狩りや狼男なんて童話や民話の世界の話だと思っていたけど、こんなことになるなんて……」
「クリス、どうか信じてほしい。お前がこれまで培ってきた知識や教養は決して間違えではないのだよ。狼男が実在していたからといって、オデットが魔女だということにはならない。わかるね。クリス」
「ええ、それはもちろんよくわかっているわ。でも、じゃぁ、どうしてオデットは死ななければならなかったの?」
金色に輝く美しい髪をした娘の頭を、父は優しくなでながら言った。
「私に果たしてお前が納得できるような言葉をかけてあげることができるかどうかわからないが、クリス。お前だけでも本当に無事でよかった。私は本気でそう思っているのだよ。クリス」
「老練なハンターが……確かエーベルハルトという人が、私を助けてくれたのだと思うわ」
父はその名前に少なからず聞き覚えがあるという反応をしたのをクリスは見逃さなかった。父もクリスには嘘は通用しないと知っていたので正直にそのことを打ち明けた。
「エーベルハルト……あの男がここに。このローヴィルに来ているのか。そうか。それならば話は早い」
「ご存じですのね。あの方も、私が名を名乗ったときに何か言いたげな顔をしていましたから、もしやと思ったのだけれど、確かめるような余裕もなくて……ごめんなさい、お父様」
「いいのだよ。クリス。あの男が来ているのであれば、私は私の準備をせねばなるまい。あの男は私の知る限り、もっとも信頼できるハンターだよ。きっと私たちの力になってくれるだろう。そして、あの男もまた、私を頼って必ずここに訪れるだろう。お前が気に病むことはなにもないよ」
「お父様を頼る? 薬でも処方するのですか?」
「いいかいクリス。たとえ親子でも、私は私のすべてをお前に話したわけでもないし、話すつもりがないこともいっぱいある。いや、話したくないこと。知られたくない過去といった方がいさぎよいか」
クリスは父親の表情から何かを読み取ろうとして、それをすぐにやめた。クリス自身、自分でよくわかっているのである。自分は頭がよく回るし、気も効く。しかしそれが必ずしも誰にでも好かれる能力ではないことを。知りすぎるものは、信頼される以上に警戒されるのである。たとえそれが肉親であっても。
「私はお父様が過去にどんなことをなされていたのか、それは正直なんでも知りたいと思うわ。でも、人が嫌がることを無理に知ろうとすることは、決して良い結果を生まないこともよくわかっています。でも、これだけは信じてください。たとえお父様が過去になにか私に知られたくないようなことがあったとしても、私にはそれをすべて受け止める自信があるわ」
「クリス。自分を過信してはいけないよ。私は――」
ガタンッ! ガタンッ!
アベルが何かを告白しようとしたのか、或いはクリスをたしなめようとしたのか、のちにそのことを確かめる機会は永遠に失われることとなるが、クリスもアベルもそのことを知る由もなかった。アベルが言いかけた言葉を脅迫的な物音が遮ったのである。
グルルゥゥゥゥ……
二人は息をひそめ、周囲に気を配った。
ワウォーーーーーーー
ウォーーーーーーーー
狼の遠吠え。それも複数ある。群れだ。父は娘を強く抱きしめ、娘はありったけの注意力で周囲の状況を把握しようと努めた。
ガシャーーンッ!
キャァアーーーーー
ヤメローーーー
近くの家が襲われ散る。狼の襲撃?
「奥の部屋に移りましょう。ここでは危ないわ」
「そうだな。私が戸締りを確認してくるから、お前先に奥の部屋にいってなさい」
「だめよ。お父様。そういうことは二人でやった方が安全よ。お父様の考えそうなことは、私にはわかるわ。私だけ助けようなんて思わないで。私はこれ以上、大事な人を目の前で失うのはいやよ」
娘の決意の固いことはすぐにわかった。
「賢いところは母さん譲りだな。それに――」
「頑固なところはお父様に似たのよ。きっと」
いたずらっぽく笑顔を見せたクリスの頬にキスをすると、二人は玄関の椅子を置き、窓にはテーブルを立て掛けた。
「みんな大丈夫かしら。心配だわ」
「しかし、いま私たちにできることはないもない。生き延びて、嵐が去った後にけが人の手当てをする。もっとも……」
自分たちが生き延びられるかどうか、或いは襲われた人たちは、けがでは済まないだろう――おそらくはそんなことを考えているに違いにとクリスは思い、そして次の瞬間には頭を振って、そのことを考えないようにしなければと自分をたしなめた。
「そうね。お父様。今は嵐が去るのを待つしかなさそうね」
長い夜になる。クリスはそう覚悟した。