第20話 二組の親子
クリスティーヌ・クラウスにとって、今日ほど父親の存在を大きく感じたことはなかった。もしも父親がそばにいて支えてくれなければ、彼女の心は耐えきれずに闇にひれ伏せてしまったかもしれない。
「クリス、わが娘よ。オデットは、あの子は本当に気の毒なことをした。だけどクリス、いいかい? 自分を責めたりしてはいけないよ」
「どうして、お父様、私……私は大事な友達を助けることができなかったのよ。オデットは……あのやさしいオデットがあんなむごい死を無理強いされる理由なんかないよの。しかもみんなわかっているの。そんなことはありえないとわかっているのにどうして止めることができないの?」
「クリス。優しい子よ。私は医者だ。人の病気やけがを治すのが仕事だが、これまで救ってきた人と同じ数だけ救えなかった人たちがいる。その意味で医者は無力なのかもしれない。いや、私は無力というよりは無能なのかもしれない」
「そんな、お父様は医者として立派に勤めをはたしているわ。この町の人たちだってそれは知っている。お父様のことをそんなふうに思っている人なんかいないわ」
「人は病にかかれば苦しむ。医者は苦しみを和らげることはできても病気を治すことはできないのだよクリス。病気を治すのは病気にかかった患者そのものなのだよ。医者は患者がより早く、そしてより有利に病気に立ち向かえるよう、援護することしかできない。それ以上のことを望めば、医者は医者ではなくなるのだよクリス。わかるかい?」
クリスは小さくうなずいた。うなずきながらも何か否定するに足りる言葉が自分の中にないか必死で探すのであった。
「いいかいクリス。このローヴィルの町はとても厄介な病にかかっている。並大抵のことでは直すことはできない。治療には時間が掛かるし、よく効く薬は副作用も激しい」
「わかるわ。でも、わからない。どうしてオデットが…・・・魔女狩りは薬にはならないわ」
クリスの父、アベル・クラウスは大きくため息をつき、そして足元を見つめながらつぶやいた。
「私も言葉を使ってすべてを説明することはできないし、理解もしていない。ただ、人間の身体がさまざまな機能で病気と闘うように人間の社会も病と戦おうとする。魔女狩りという野蛮な行為も、その昨日の一部である可能性を私が言い聞かせたところで、お前の悲しみは何一つ癒されないだろう。しかし・・・・・・」
父は子の顔を慈しみにあふれた表情で見つめていった。
「私は、お前のことを誰よりも愛しているのだよ。クリス」
「お父様・・・・・・」
父は強く子を抱きしめ、子は父に泣きついた。
「オデットは本当に気の毒なことをした。でも、私はお前を失いたくはない。それはきっとあの若者も――ジャン・フォンティーヌも同じ気持ちだろう。そういう行為を無為にすることは、結果的に自分をも不幸にする。どうか自分を大事にしておくれ、クリス」
クリスには父親の気持ちが痛いほどわかった。そしてジャンのこともクリスなりに十分にわかっているつもりでいたが、クリスが思う以上にジャンが彼女のことを思い、そして思いつめていることをクリスは知らなかった。
「父さん、いったい広場で何があったんですか?」
クリスと言葉を交わせないまま、ジャンはフォンティーヌ邸に戻り、父エリックと対面していた。
「ジャン、私も一部始終を見ていたわけではないのだ。魔女裁判の結果オデットは有罪と決まった。そして刑を執行しようとしたとき、化け物が・・・・・・人狼が現れ、レイナルドとオデットを殺したのだ」
「人狼・・・・・・あの狼男ですか! 悪魔に魂を売ったものが変化するという」
「私にもよくわからん。いや、そのような存在にはむしろ否定的であったし、魔女についても懐疑的だったのだよ。わたしは・・・・・・」
「ならなぜ父さんは魔女狩りなんか! あんなことをしなければこんな悲劇はおきなかったかもしれない」
「ジャン、それはちがう。この町を救うためには魔女狩りは必要だったのだ。それがシェリエールの娘になるとは思わなかった」
「おもわなかったって、それはどういうことですか?まるでそれは・・・・・・」
「ジャン、魔女狩りというのは、生贄なのだよ。かつてすべての人が貧しいかったころ、小さな子供を山の神や森の精霊に捧げたのと同じさ。天災、厄病、風評、人々の心の不安を取り除くために、必要な仕組みなのだよ」
ジャンは声を荒げた。
「だからって! だからって、魔女狩りだなんて!」
エリックも声を荒げる。
「だが、魔物はいたのだ! オデットは魔女狩りで死んだのではない。あの化け物に殺されたのだ!」
ジャンも少しは話を聞いていた。それは信じられないような話ではあったが、多くの人の目撃証言がある。だが、実際にオデットやレオナルドが殺害されたところを見たものは少ないようだ。その目撃者に直接話を聞くことはできなかった。
目撃者――それは他ならないクリスティーヌ・クラウスのことであり、ジャンはクリスに話しかけることができなかった。それが何よりももどかしかった。せめて何が起きたのかを直接その惨状を見た誰かに聞くことができるのであれば、クリスにかける言葉も見つかるかもしれない。だが、頼りの父親でさえ、その現場は見ていないのだという。
「父さん、あの広場で何があったか、一部始終を見ていた人はクリス以外にいないのですか?」
「エーベルハルトとかいうハンターと教会から派遣された若い司祭・・・・・・エドモンドとかいったか。その二人ならことの一部始終を知っていると思うが、あの二人はよそ者だ。何が目的でこの町にやってきたのかわからん連中だ」
「彼らは今どこに?」
ジャンは、父親ににじり寄った。
「なにをするつもりだジャン。勝手は許さんぞ」
今度は父が息子ににじり寄る。
「僕は、僕の愛する人を守りたいだけなんだ。父さん」
「アベルの娘か。あまり関心せんなぁ」
「父さんとあの医者の間に何があったか知らないけど、僕には関係のないことです。ましてクリスにはなんのつみもないことじゃないですか」
「罪・・・・・・罪か」
エリックは息子に背を向けて部屋の出口に向かって数歩歩き、立ち止まり、そして背中越しに息子に言って聞かせた。
「なぁ、ジャン。愛する息子よ。お前は賢い子だ。そして勇気もある。そしてやさしい子だ。だがそれだけでは多くの人を守ることはできない。より多くの人を守るためには・・・・・・そう、このローヴィルの町を守るためには、時には小さな犠牲を強いることをいとわない非情さも必要なのだよ。わかるな」
息子は父の背中に語りかける。
「一人を救えないで、どうして多くの人を救えるというのですか?」
「思えもいずれわかるときが来る。人は時に非情な選択に迫られることがあるのだ。それを乗り越えてこそ、真のリーダーとなり、多くの人を守ることができるのだ。なんら罪を犯さないものに、守れるものなどないのだよ」
息子は父の背中が小さく見えた。しかし、その父の肩にはローヴィルの人々の暮らしが掛かっていることをジャンは知っている。知っていてそれでも父に逆らう言葉を捜そうとしたとき、父の小さな背中ほどに、自分の背中は他人からどんなふうに見えるのだろうと考えた。
「僕には、まだ、わかりません。わかりたくない」
「そうか。それもいい。しかし、いずれそのときは訪れるのだ。選択しなければならないときが・・・・・・」
ジャンは父を裏切ることはできないとわかっていた。わかっていてなお、やはりクリスを守りたいという気持ちは、それを凌駕していた。
「エーベルハルト・・・・・・ハンターか」
ジャンはエーベルハルトに会いに行くことに決めた。