第2話 金髪の少女
少女の目は、涙で潤んでいた。
「そう、もう誰も、死なせやしないんだから」
語気を荒げたのは、少女の本意ではなかった。目の前の狼をなるべく刺激してはいけない。
「あなた、運がよくてよ。私がここを通りかかることも、あなたのような獣を助けようと思うのも、少し前では考えられないことですもの」
通じるわけがないとわかっていても、少女は話さずにはいられなかった。傷つき横たわる狼の耳は、少女の声に反応しているようだったが、意味がわかるとは思っていなかった。
狼の大きな口は少女が身にまとっていた赤い頭巾によって縛られ、口を開くことができない。牙をなくした獣は、それでもおびえることもなく、ただじっと痛みに耐えているようだった。
「ちょっと待っててね。これは邪魔ね。いま支度をするから動かないのよ。動くと出血がひどくなるわ」
狼は左の後ろ足から大量の血を流していた。穴が開いている。どうやら猟銃で撃たれたようだった。少女の頭巾を狼の口に巻いてしまったことで、少女の金色の髪が風になびいて少女の視界を時々さえぎった。少女は立ち上がると、おもむろにスカートを捲り上げた。少女の白く透き通った肌があらわになる。太ももの辺りまで捲り上げるとそこにはベルトで何かが縛り付けてあった。
「失礼。ちょっとはしたないけど、狼さんには関係ないかしら」
少女は右の太ももにナイフを隠し持っていた。刃渡りは15センチほどで、よく手入れがしてある――つまり切れ味がいいナイフである。
少女はまず、狼の口を縛った頭巾の余った部分をナイフで切り落とし、そこからさらに長さ15センチほどの切れ端を剥ぎ取り、金色に輝く髪の毛を結わくのに使った。
「これでよしっと。じゃあはじめるわよ。まずは弾丸を抜かないと。放っておいたらそこから毒が体中に回って、助からないわ。この痛みに耐えることができたら、あなた、きっと生き残れるわ。だから、お願い。じっとしててね。暴れたら余計なところを傷つけて、それこそ出血多量で死んでしまうわ」
少女は優しく、しかし強い口調で狼に話しかけた。そして、自分の顔を狼の鼻先に近づけて狼の目を見ながら言った。
「私を信じて。いいわね。私を信じるの。わかるわね」
狼はまるで話が通じたかのように、瞬きでそれに答えた。
「いいこね。じゃあ、始めるわよ」
少女は傷ついた銀色の狼の後ろ足をしっかりと左手で掴み、ナイフを傷口に滑らせた。一瞬狼は身体をピクッと動かしたが、激しい息遣いをしながら、痛みに耐えた。
「大丈夫。これならすぐに何とかなるわ。骨を砕いてはいないようね。すごいわ。筋肉の力で弾丸が骨まで行くのを防いだのかしら」
少女には医学の知識があった。少女の父親は医者であった。そして母もその手伝いをしていた。知識は本で、技術は父から教わった。いつしか少女も家の手伝いをするようになった。そして本格的な医学の勉強をするために、家を出たのだが……
「私も獣の身体を看るのは始めてなのよ。でも、大丈夫。大体わかるわ……もう少し、もう少しで弾が取れるわ」
少女は起用にナイフを使い、狼の足の筋肉を傷つけないよう慎重に猟銃の弾を取り出そうとしていた。狼は出血が激しく、意識を保つことが難しくなってきていた。すでに足の痛みは感じない。脳内麻薬が大量に分泌され、現実と夢の区別もつかないような状態になっていた。
「もう少しよ。我慢して……」
少女の声が聞こえる。
なんだ。お前はそこで何をしてる?
我は、我は……闇の……闇の眷属なり
我は……
ついに狼の意識が途絶えた。狼は完全に現実の世界から離れてしまった。狼は大きな闇の塊の中にいた。前を見ても後ろを見ても、地面も空も、そこは闇しかなかった。
我は、闇の眷属なり。
我、あるところ、すなわち闇。
我、消滅するとも、闇は残る。
闇は、永遠に闇なのだ。
「生きるのよ!」
どこからともなく声が聞こえてくる。
「あなた、逝ったりしてはだめよ。もどてらっしゃいな」
声がだんだん大きくなる。
「お願い、私のために、どうか 生きてちょうだい。どうか死なないで、お願い」
我は、我は……
願うものの声を聴くもの
願うものの声に、耳を傾けるもの
願いをかなえるために
邪魔をするものを 噛み砕くもの
願いを見届けるもの
願いがかなうのを……
否、我は闇の眷属なり。
神に背を向け、闇に生きるものなり。
神に背を向け、髪に背を……
「お願い、戻ってきて。私に希望を、生きることへの希望を……」
少女の泣き叫ぶ声が聞こえた。
狼の全身に電流が走る。
ぬぅぅうううう!
なんだ。何だというのだ!
なぜ、我は震える
なぜ、我は怒る
なぜ、我は欲す
我は、我は……
銀色の狼は咆哮した。闇の中で咆哮した。闇は振るえ、怯えた。
闇は、狼に怯えた。
我、行かん!
狼は疾走した。闇の中を疾走した。闇が狼にまとわりつく。狼はそれを噛み千切った。
我、闇の眷属なり
闇よ!我を拒むか!
闇よ!我に従え!
我、闇の眷属なり
闇を従えるものなり!
狼の口から青白い炎のよなものが吹き出す。
ガルルルルルルルルル!
狼の咆哮に闇が触れ、闇がやみに解ける。解ける。解ける。
闇の一番薄くなったところに狼は飛び込んだ。闇は引きちぎられ、切り裂かれ、狼を解き放った。
ガルルルルルルルルル!
「よかった。よかった。大丈夫よ。心配はなくてよ」
金髪の少女は目に涙を浮かべながら叫んだ。
「私は神など信じない。私は命を、命の強さを信じるわ。でも、この世に本当に神様なんてものがいるのなら、よく聞きなさいな!私は絶望はしない。絶対にあきらめない。あなたの無能をこの世にさらけ出してやるわ。命の強さを尊ぶ心こそ、世界を救えるのよ!あなたの助けなんて要らないんだから!」
ニンゲンの金髪の少女よ
我、闇の眷属なり
闇を従えるものなり
そして我、今よりそなたに従うものなり
狼は咆哮した。
ガルルルルルルルルル!
少女は傷ついた狼を手当てしようとする。
狼はそれを受け入れ闇の深淵から抜け出す。