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朔夜~月のない夜に  作者: めけめけ
第1章 運命の二人
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第14話 狼が来た

 自分の身に何が起きているのかは十分に理解していたが、自分に身に何が起きたかについては思い出したくもないし、考えたくもなかった。オデットは支柱に縛り付けられ、これから訪れるだろう死の苦しみに耐えることよりも、ほんの数時間前に自分に身に起きたことを思い出すことのほうが恐怖であった。そして、これから迎える死によって、その恐怖から開放されるのであれば、それはそれでいいとさえ思えていた。


 オデットは地面に突き立てられた直径15センチほどの木製の支柱に両腕を後ろ手に縛られ、その足元にはよく乾燥したワラが積まれている。それを準備しているのは自分もよく知る町の人間であるが、決してオデットに目を合わせようとはしなかった。しかし、その中でただ一人だけ、オデットに冷たい視線を浴びせる男がいた。オデットはその視線を感じながら、必死で無視しようと試みたが、ついにそれはかなわなかった。


 レイナルド・シルベストル――自分はあの男によって、あの嫉妬深く、執念深い蛇のような男によって謀殺されようとしている。でも、これで……これであの恐怖から逃れることができるのであれば――気を失いそうな絶望感の中で、忌々しい記憶だけがまるで足元から這い上がってくる蟲のようにオデットの脳裏に浮かんでくる。あのざらざらとしたいやらしい視線、悪魔のようなささやき声、恐ろしく滑らかな指先に感触、そして……


「いや、いや、いや、いやーーーーー!」

 オデットはぎりぎりのところで記憶がよみがえるのを泣き叫ぶことによって抑えることに成功したが、誰も耳を貸そうとはしない。魔女の声に耳を傾けてはならないのだ。魔女の瞳に目を合わせてはいけないのだ。魔女の身体に触れてはならないのだ。なぜなら彼女は悪魔に魂を売った女であり、町中を不幸にする源なのだから。


 エドガー司祭が古い本を広げて、町の人たちに向けてなにやら説いて聞かせている。この魔女裁判が神の名の下で行われ、正当なものだあり、オデットは魔女の疑いをはらすことは残念ながらできなかった。推定有罪であり、これから行われる処罰の結果として、この裁判の結果が正しかったのかどうかは証明されるであろう――とおよそ、そのような内容が書いてある文章を、理解力に乏しい朗読者が、最初からそんなものを聴く気はなかったという聴衆の前で説いて聞かせるのであるから、内容を理解するものもいなければ、誰の心にも残る話でもなかった。


 いよいよかと、オデットが絶望を覚悟しようとした瞬間、オデットの目にある光景が映し出された。それはレイナルドがオデットにあの冷たい視線を浴びせながら……いや、ざらざらとしていやらしい視線にそれは変わって行ったのだが、レイナルドに近しい若者に耳元で何かささやいているのである。何を話しているのか?


「あ、あの男は、私が辱めを受けたことを、ほかの男に話しているというの……私は、私は死んだあとにも、あの男に魂を汚され続けるというの? 私は、私は、あんな男の、あんな男のために、静かに眠ることもできないというの……ああ、神様、あなたは私にどれほどの苦難を与えるというのですか? 私にご慈悲を……今すぐあの男の口を開かないようにしていただけないのですか? そうでなければ私はあまりにも哀れすぎます。悪魔に魂を売ったと疑われ、町の人たちを不幸にしたと責められ、あんな男によって辱められた私は……私は何を信じればよいのですか? 嗚呼、もしも悪魔に魂を売ってあの男の口を永遠に閉ざすことができるのであれば、すでに汚された魂です。私は悪魔にだってこの魂を差し出すかもしれません。どうかそんなことになりませんように。神様、私を助けてください。私の魂を悪魔などに売り渡させないでください。神様――」


 オデットの願いは沈黙によってかき消された。オデットはそれを神からノーを突きつけられたと思うしかなかった。


「お願い。この願いをかなえてくれるのであれば、私はどんなことになってもかまわない。悪魔でももっと恐ろしい忌まわしい存在でもかまわない。どうか私の願いを……あの男、レイナルド・シルベストルの薄汚い口を今すぐ塞いでくださいまし。それが叶うのであれば……」


「お、おい、あれはなんだ。あれは……」

 それはレイナルドに耳打ちをされていた若者の声であった。ほかの町の人々は、オデットの哀れな姿を、あるいは呪われた姿を見ないようにと頭をたれ、ほとんどのものが視線を足元に落としていた。その中にあってレイナルドとその若者だけはオデットにいやらしい視線を送っていたのであった。レイナルドは話に夢中になり、若者やほかの人間に話を聞かれないようにごく身近な周囲にしか気を配っていなかった。町の中心から教会、教会裏に集まる群集、そして支柱に縛られたオデットを直線で結び、その先には雑木林がある。その林の出口からオデットの縛られている位置までは20メートルほど空間があり、その雑木林から巨大な銀色の影がいきなり姿を現したのである。


 ガルルルルルルルルルルゥゥゥ


「お、おい、なんだアレは!」

「なんて大きな……」


 逃げるという選択肢をとるものはその場にはいなかった。いや逃げようにも逃げることができなかったのである。そのあまりに圧倒的な大きさ、銀色に輝く神々しさと見るものを威圧する迫力にみな我を忘れ、行動の自由を奪われてしまったのである。巨大な銀色の狼は右に左に蛇行しながら、ゆっくりとオデットに近づいていった。それは同時に町の人々にも近づいていることになるのだが、彼らは支柱に縛り付けられ動くことのできない一人の哀れな女性とそれに徐々に近づく狼という光景にすっかり思考が麻痺してしまったようであった。


 つまり、自分たちが刑を執行しようとしていた人間が、まったく関係のない獣によってその生命に危険が及んでいるという事実――本来的に人間は命の危険にさらされている同胞を助けようという感情が働く仕組みがあるのであろう。少女を焼き殺すために用意したワラを運ぶのに使った農機具を武器として構えたのは、自分の身を守るためではなく、狼から少女を守るためであったことに、誰もそのときは気づきもしなかった。しかし、そこに違う価値観を有するものもいた。


「みたか、あれを!あの女は本当に魔女だったんだ!早くあの女を殺せ!でないとこのローヴィルの町がこの世のものでないものの力によって死の町に変えられてしまうぞ!」

 レイナルドは本当的に自分の命の危険を感じたのかもしれない。しかし、レイナルドの言葉は、彼の思惑とはまったく違う結果を生み出した。


「あ、悪魔だ。悪魔の使いに違いない。あ、あれは狼男じゃないのか。あんなものに太刀打ちなんかできやしないぞ」

「そ、そうだ。逃げろ。逃げるんだ!」

 レイナルドは舌打ちをした。自分も逃げるべきだとは思ったが、そのタイミングを完全に逸してしまった。銀色の狼の視線はレイナルドに固定されている。なぜそうなるのかはわからないが、レイナルドは銀色の狼の標的になっているのだという確信めいたものを感じ、恐怖した。


 ズトーンッ!


 そのとき一発の銃声がこだまする。エーベンハルトがレイナルドの背後から銀色の狼に向けてライフルを発砲したのである。


「下がっていろ。若造。ここはわしの戦場じゃ。死にたくなかったらとっと逃げるんじゃ」

 エーベンハルトは狙いを定めて撃ったわけではなかった。目的はあくまでも狼の足を止めることで、そのために狼とオデットとの間の5メートルほどの大雑把な地面に向けて銃を発砲し、その試みは見事に成功した。狼はいったん動きを止めた。エーベルハルトが2発目を撃とうとライフルを構えると、狼はオデットとエーベルハルトを直線で結ぶ位置に身を置いた。オデットを盾にし、死角に入ったのである。


「ちぃっ、こいつは本物だな」

 エーベルハルトは銃を構えたまま、右に移動したが、狼もまた右に動いた。オデットは、いまだに事態を把握できないでいる。

「あの女、あの女は魔女だ。一緒に撃ち殺してしまってもかわまんぞ。今まさに、あの女を焼き殺そうとしていたところなんだから」

「なにぃ! いまどき魔女狩りだと!」

 それまで狼に向けられていたエーベルハルトの殺気は一気にレイナルドへと向けられた。レイナルドはその殺気に圧倒され、しりもちをついた。

「な、なんで、だって、あの女は魔女なんだ、あの女、あの女が狼を……」

「ふん! 貴様、事情はあとでゆっくり聞かせてもらう。邪魔だ! 消えうせろ! おい!エドモンド!この下衆をさっさとワシの前からどかせ……いや、後ろに下がって監視していろ」

「な、なんで私がこんなことを……」

「死にたくないならそうしろと言っている。あとで非礼は詫びてやるから、いまはワシの言うとおりにしてもらおうかエドモンド司祭」


 エドモンドに選択権はなかった。




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