第13話 広場へ
人だかりというほどのものでもない。まだ夜が明けきらぬ頃、教会の裏手にあたるその場所は、町の罪人を処断するのに使われる広場であり、かつて公開処刑が何度か行われた。その中には魔女裁判も含まれていたが、そのことを知る者は少ない。広場に集められたのは、町のごく一部の人間である。オデットの家族にはすでに刑の執行のことが告げられており、年老いた母親は、ショックで寝込んでしまっていた。オデットにほかに家族はない。そのこと自体が彼女の不幸といえたかもしれない。このような場合、普通は年老いた母親こそ魔女として、大衆の犠牲となり、それは一種の社会的システムとして機能する必要悪のようなものであった。それが今回、オデットに白羽の矢が立ったのは、ひとえにレイナルドの策謀によるものだが、それを知る者はほとんどいない。
オデットは小屋から出され、貼り付け台にくくりつけられていた。20人ほど集まった町の人の中には、レイナルドをはじめ、エドガー司祭、ジョルジュ、エリックフォンティーヌらの姿があった。このときジャンは使用人の小屋に閉じ込められたままであり、クリスは人目を避けて大通りから外れた道から大回りをして教会の裏手に向かっていた。
誰ひとりとして口を利かず、黙々と刑の執行の準備を整えていた。レイナルドは時々小声でいつもつるんでいる仲間と何やら話している。オデットはただ呆然とその様子を眺めていたが、ある感情が彼女の心の奥底、闇の深いところから湧き上がってきていた。そしてその闇の声を聞くものが一人、いや一匹の獣が町のすぐ外まで来ていることをそこにいる者は誰も気づいていなかった。
「我、黒き望みをかなえる者、悲しき想いを見つめる者、深き闇をさ迷う魂の叫びに、耳を傾ける者」
その息遣いは、激しく、どす黒い炎を吐き出すかのようであった。森の生きとし生けるものはみな、一匹の獣を畏れ、沈黙を守った。その静寂は空気の淀みとなり、不穏な影を町に落とした。
「なんだ。この感覚は……何か、来る」
町はずれの小さな小屋に宿泊していたエーベルハルトは静かにベッドから体を起こし、周囲に気を配った。ハンターとしてのエーベルハルトの感であろうか。あるいは経験からくる感覚の修練、或いは彼を守護してきた古の魂の教えなのか。彼は危険を察知した。
「静かすぎる。朝だというのに一羽の鳥の影も形も見えない。声も聞こえない」
窓の外は明るみだし、靄がかかっている。それはまるで時が止まってしまっているかのようにその場に淀んでいる。風がない。何もかもが静止しているかのようであった。
「いや、みんなビビッていやがる。これは相当な奴が近くに来ているって証拠だな」
エーベルハルトは静かに準備を始めた。昨日の晩、すでに武器のチェックはしている。エドモンドはまだ寝たままだ。エーベルハルトはエドモンドを起こさないようにそっと外にでたが、気を取り直して部屋に戻り、エドモンドをたたき起こした。
「おい!起きろ!町の様子がおかしい。私一人でも十分なのだが、荷物持ちがいる。とっとと起きて、これを持ってわしについてこい」
「な、なにごとですか、こんな朝っぱらから……」
エーベルハルトは持っていた銃の銃口をエドモンドの鼻先に突き付けて構えた。
「わしは愚図は一番嫌いじゃ。わしが短気を起こすのが先か、司祭は体を起こすのが先か」
エドモンド司祭はそれから1分以内に支度を済ませ、小屋を出た。
「わ、私はエーベルハルト殿の助手ではありませんぞ。わ、私は……」
「死にたくないのなら、わしの言うとおりにするんじゃ。おぬしにはわからんじゃろうが、どうも様子がおかしい。殺気と、恐怖、血の匂いと腐臭。どうやら奴が近くにいるようだ」
寝ぼけた頭でエーベルハルトの言葉を復唱し、そしてエドモンドは一瞬寒気を感じて足を止めた。それは朝の起き抜けの寒さではない。凶悪な獣に対する純粋な恐怖が、エドモンドの肝を寒からしめたのであった。
「わかったら、これからしばらくわしの言うことを聞いてもらうぞ。第一に、愚図愚図するな。第二に、わしの言うことに文句を言うな。第三にわしの支持しないことはするな。それだけじゃ。長生きしたかったらそうするんじゃな」
不本意極まりないという顔で、それでもエドモンドはうなずかざるを得なかった。どんな危険な場面に出会っても、この男の背中の後ろにいる限りは、安心だとエドモンドは直感的に感じたのである。それはハンターとしてエーベルハルトが、危険を察知する能力にたけていたのだとしたら、エドモンドは自分の身を守ることに長けていたと言えるのかもしれない。
「どうやらあの教会のあたりのようじゃな。妙な殺気が集まっておる。人も集まっているようじゃな」
「こんな朝っぱらからいったいこの町の連中は何をしておるのか。まったくおかしな連中だ」
「そいつは、どうかな。これはどちらかといえば、あんたら聖職者の領分の騒ぎのようだがな」
「エーベルハルト殿、朝っぱらからこんな銃を持って町をうろつくなど、我々のほうが町の人間からおかしな目で見られるのではないか」
「だからあんたを連れている」
エドモンドはエーベルハルトが自分をたたき起こした理由を知り、はらわたが煮えくり返る思いだったが、そんな態度を少しでもエーベルハルトに見せては何倍にして返されるかわからない。今はおとなしくエーベルハルトの言うことを聞くしかないとあきらめた。
エーベルハルトが感じた凶悪な獣の影は、いよいよ町の中に侵入し、教会のあるほうへ向かっていた。その歩みは体躯のわりに軽快であるが、その重量感はそのあたりに生息している獣――狼のそれとは桁の違うものであった。また、その毛並み暗闇でも輝いて見えるほどの見事な銀色をしており、神々しいという言葉がふさわしい。しかし、その瞳に宿る紅蓮の炎は、そのものが神とは、まったく正反対の側に身を置くものであることがすぐにわかる。闇の眷属。
「我は、闇の眷属なり。我、月の灯りとともにその姿を獣と変え、地を走り、闇を切り裂き、血を求めるなり。我の血は、神の理に叛き、闇に生き、光を忌み嫌うものなり」
「ハァ、ハァ、ハァ……しかりなさいなクリスティーヌ。あなたはまだ、疲れてはだめよ。オデットを救い出すまでは……」
クリスにはオデットが不本意な運命を受け入れなければならないその時までに、オデットの目の前までたどり着くことはできると確信していた。しかし、それからどうするのか、どうやってオデットを助ければいいのか、まったくアイデアが浮かばないことに苛立ちを隠せないでいた。今は考えるよりも、走ることに集中しよう。そう自分をごまかしてみても、隠しきれない動揺と不安は、彼女の冷静さをさらに奪っていった。町のはずれ――木々が立ち並ぶ林をやみくもに走り抜けるクリスの前に、突然それは現れた。
大きい、そして美しく輝く銀色の獣毛。見る者を圧倒する燃えるような赤い瞳、ひと噛みで人の首を食いちぎるかのような大きな口、今までに見たことのないような『それは』うっそうとした林をもう抜けようかという少し広まった場所に出たとき、目の前に突然現れた。クリスは自分の鼓動が一瞬止まったのを感じ、息をのんだ。
畏れ――それは圧倒的なまでの力を持つ、抗うことのできない者を目の前にしたときに湧き上がる感覚。決して見てはいけないもの、聞いてはいけないもの、触れてはいけないもの。アンタッチャブルな存在。
「お願い、どうかここを黙って通してちょうだいな。わたしは、わたしには、いかなければならないところがあるの。助けなければならないお友達がいるの。彼女を救うことができたら、わたしは喜んであなたに身を捧げるわ。でも、今はだめなの。だからお願い。どうかわたしをこのままいかせてちょうだいな」
銀色の巨大な狼は、一歩、また一歩、クリスに近づいた。クリスはひるまず、同じ言葉を繰り返す。
「お願い。お願いだから、ここを通してちょうだいな」
その時、クリスの向かおうとしていた方角、狼の後ろで人の声がした。クリスはその声に聞き覚えがある。ローヴィルの町の司祭――エドガーの声である。それほどに広場は近くであった。狼は耳をそばだて、やがてクリスをその場に残し、声のするほうへ駆け出した。クリスはその場に座り込み、胸の前に手を合わせて、神に感謝の言葉を言いかけて我に返った。
「だめ、そっちはだめよ。待って、そっちにはオデットが……」
クリスは立ち上がろうとしたが、足がいうことを聞かない。
「オデット、オデットを助けないと」
クリスは自分の太ももを両手で叩き、気合を入れた。
「うまくすれば、これはチャンスかもしれない。でも、オデットは動けないはずだわ。狼のエサなんかにするものですか!」
クリスはついに立ち上がり、銀色の狼の後を追いかけた。赤いずきんは頭からずれ落ち、美しい金色の髪があらわになる。その金髪に弱弱しい朝日がまとわりつく。それはあたかも光の精がこれから起きる惨劇の現場にクリスを行かせまいと引き留めているかのようであった。




