第12話 祈り
「お願い、神様……オデットを、オデットを助けて。彼女はこんなつまらないことで命を落とす子なんかじゃない。あの子は、悪魔に魂を売ったりはしてない。この世に魔女なんていやしない」
クリスは泣きながら必死に祈るしかなかった。しかしクリスは祈りながら、悪魔がいないのであれば、また神もいないのだということを知っていた。でも、今は祈るしかない。たとえこの世に神などいなくとも、自分にはそれしかできない。
「クリス……クリスティーヌ! しっかりなさい! あなたがあきらめてどうするの? 考えるのよ。祈ることも大事だけど、ほかに何ができるか考えるのよ」
クリスは考えた。自分は今どこにいるのか。そして何ができて何ができないのかを。ジャンは私を守ろうと必死でこんなことをしている。私を大事にいもう気持ちがジャンに私をだまし討ちにするような非常な手段をとらせたのだ。そこまでジャンを追いこんでしまったこの状況。そう、もしオデットが――オデットが生きているにしろ、そうでないにしろ、幽閉された状況から解放されれば、ジャンは私を解放してくれる。そしてこの場合、オデットが生きて二度とこの町を歩くことができないことは、残念ながらかなりの確率で決まっていること。オデットが生きている限り、彼は私をここに閉じ込めておくに違いない。生きている限り……
「そうだわ。この手があったわ。そうね。でもこれしかないわね。この方法はジャンには有効よ。でも、うまくやらないと、今度こそ手がなくなってしまうわ」
クリスはスカートの中から父から受け取った短剣を取り出した。その短剣は柄のところに見事な細工がしてあり、とても高価なものに見た。
「お父様、どこでこんなものを手に入れたのかしら……何か事情がありそうね。でも、今はこの短剣を託してくれたお父様に感謝をしなければならないわね」
クリスは閉ざされたドアを思いっきり叩いた。
ドン!ドーン!
「ねぇジャン。少しお話をしましょう。最期のお願いよ。このドアを開けてちょうだい」
「だめだよクリス。それはできない。君をみすみす危険な目にあわすようなことはできない。僕は君に嫌われてもいい。君を守るためなら何でもすると決めたんだ」
「あぁ、ジャン。こんなにうれしいことはないわ。わかったわ。あなたの気持ちはしっかりと受け止めたわ。もう何も思い残すことはないわ。私、死ぬわ」
「く、クリス!何をバカなっことを!」
「ここに来る前にお父様が護身用にと短剣を持たせたの。あなたは私のカバンをこっそり持ち出して、危険なものは部屋には残さないようにしたみたいだけど、残念ね。私はそれを懐にこっそり忍ばせていたのよ」
「な、なんてことを!」
ジャンが対応に窮している間、クリスはしっかりと準備に取り掛かっていた。部屋にあった小麦粉の入った麻の袋の口をひもでしばりつけ、テーブルクロスを適当な大きさに切り、それを結んで一本のロープに仕立て、天井の梁にロープをひっかけ仕掛けを作る。ロープを切ると天井につるされた小麦粉の入った袋が下に落ちる仕組みだ。
「嘘だと思うのなら窓からのぞいてごらんなさいよ。外からでもこの短剣はしっかり見えてよ」
「くそっ!」
ジャンが小屋を回り込んで、鉄格子の入った窓からこちらを除いた。クリスはロープが死角になるように窓に近づいてのど元に突き付けた短剣を窓の外のジャンに見せた。
「クリス!いいかい、今からドアを開けるから早まるんじゃないよ!」
ジャンが血相を変えて入口に回り込み、閂を外す音がした。ジャンは、ドアを開けるや否や、クリスに飛びかかて短剣を奪い取るしかないと考えていた。多少、クリスを傷つけることことになっても、この際はやむを得ない。クリスを助けるためには、自分はなんだってできる。そう信じ込んでいた。
勢いよくドアが開かれジャンはクリスの姿を探した。真正面にクリスが立っている。クリスの表情に何とも言えない申し訳なさそうな表情を見て取ったジャンは、一瞬クリスにとびかかるのを躊躇した。次の瞬間、クリスが持っていた短剣をすっと、下におろす。ジャンはゆっくりとクリスに歩み寄ろうとした次の瞬間、ジャンの頭上から小麦粉が降ってきた。
「あーっ!クリス!君は……」
視界を失い、上下左右の感覚もわからない。ジャンはクリスに突き飛ばされ、床に二回転ほど転がり、もがいていた。
「ジャン、ごめんなさい。こうするしかなかったの」
クリスはすばやくドアを閉め、閂をかけた。形勢逆転である。
「神様にお願いするのはまだ早いわ。私は私のやれることをやるだけよ」
クリスは、駆け出した。外は星の姿が見えなくなるほどに明るくなっている。オデットはおそらく殺される。それも多分早い時間に。その前になんとか助け出さなければならない。オデットを死なせてはならない。
「いずれ犯人を暴き出してやるわ。こんなバカなことを考えるなんて、絶対に許せない。そうね。オデット自信に聞けば、何か心当たりがあるかもしれないわね」
クリスには勝算はなかった。仮にオデットの刑が執行されるまえに、彼女のそばに行けたとしても、彼女に会うことなど許されようはずもなかったし、強引にオデットを助け出すような方法は何一つ思いつかなかった。それでもクリスは走らずにはいられなかった。そして最後に祈らずにはいられなかった。
「ああ、神様! かわいそうなオデットをどうか見捨てないで上げてください。せめて私がたどり着くまで、彼女の命を奪わないでください。そのためにならこれからの私の時間をあなたに捧げても後悔はしないわ。時間を、時間を止めてちょうだい!」
そういってすぐにクリスは首を振り、両手でほっぺたをパーン!っと叩いた。
「ああ、クリス、しっかりなさいな! 祈るよりも先にやることは多いわ。考えなさい! 患者には祈りよりも考えることが大事なのよ!」
それは父の教えであった。
『医者は患者が死ぬまで祈ってはいけない。祈るよりも先に、やるべきとをはたくさんある』
クリスは最後まであきらめないと心に誓いながら、懸命に走り続けた。クリスの激しい息遣いは、町から少し離れた森の中にまで届いていた。漆黒の闇の中、二つの光る眼が燃えるような熱い視線を町の方角に向けてた。
「来たかよ。ついに来たかよ」
その獣は大きな耳をしていた。その耳には遠く離れた少女の息遣いを捕えていた。
「このものではないな」
その獣は大きな鼻をしていた。その鼻は遠く離れた血の匂いをかぎ分ける。
「匂うぞ。血の匂い。神に見捨てられた女の血の匂い」
その獣は大きな目をしたいた。その眼は人の心の闇を捕えることができた。
「見える。見えるぞ。ニンゲンよ。お前たちの持つ心の闇が手にとるようにワシにはみえる」
その獣は大きな爪を持っていた。大きな牙を持っていた。
グルルルルルルルルルルゥゥゥ
それはまさしく獣であり、獣を超えた存在。自然の摂理に逆らうものであった。
ガルルルルルルルルルルゥゥゥ
「我、黒き望みをかなえる者、悲しき想いを見つめる者、深き闇をさ迷う魂の叫びに、耳を傾ける者」
星は空に溶け、月は白く弱弱しい光を放ち、地平が赤く染まりゆく。ローヴィルの町は血の朝を迎えた。