霧の中、赤かった糸を切り離す
私、アニカは椅子に座っていた。手には温かいマグカップ。砂糖はすっかり高騰してしまったけれど、今日は惜しげもなく使ってココアを入れた。…これからするであろう話を前に、少しでも落ち着かせて欲しかった。
目の前に座るトーマスの顔は暗い。多分きっと、私も同じような顔をしていると思う。
ココアをほんの少し口に含む。彼も同じようにしてマグカップに口をつけた。じんわりとした甘さと温かさが体に染み渡るけれど、変わらずお互いは口を閉ざしたままだ。
これから交わされるであろう会話を、二人とも恐れていた。けれどそれと同時に、早く終わらせてしまいたい気持ちが間違いなくお互いの中にはあった。
しびれを切らして先に口を開いたのは私だった。
「あなたは、」
まずい、と思った。きっとこの言葉の続きを言って仕舞えば、私とトーマスの関係は終わってしまうと思った。
それでも、出かけたこの言葉を飲み込むには私はもう、私は彼を想う心を見出せていなかった。
「あなたは一体、何を愛しているの?」
トーマスは一度目を見開いて硬直した後、また人のよさそうな笑みを浮かべた。いつもより数段ぎこちないのは、きっと気のせいではないだろう。
「決まってるだろ?もちろんお前だよ」
暖炉の薪の爆ぜる音が、やけに大きく響いた。
トーマスの手が私の肩に触れた。そしてもう片手は私の頭の後ろに。あぁ、そう言う流れか。心の中で軽く落胆する。私がこれ以上何か面倒なことを言う前に、口を塞いでしまおうという魂胆が透けて見えた。
「…嘘を言わないで」
私は自身の肩に置かれた手を払った。あまり力を込めたつもりはなかったが、案外それはすんなりと私から剥がれた。
もし本当に愛していたなら、私がなんと言おうのも、言葉を尽くして重ねて私を信じ込ませて欲しかった。それなら私は嘘でもよかった。
けれど、彼の選んだ答えは違った。ただの我儘じゃない。私は知っていた。あの頃の私たちであれば、どれだけお互いのために言葉や時間を尽くしても苦などではなかった。
つまりもう彼の心は私にはなくて、私の心も彼にはなかった。ただ、築き上げてきた関係と捧げた時間の全てを壊してまるで無駄であったと示されてしまうことを恐れていただけだ。私も、トーマスも。
そうだと思えて仕舞えば、そうだと分かりきって仕舞えば、私を止めるものはもう何もなかった。愛でさえも私を止められはしなかった。元よりそんなものは、とっくの昔に消え失せてしまっていたから。
「あなたが本当に愛しているのはこの国。理想を盾に人殺しを正当化するこの国だわ…!!」
そしてもうじききっと戦争を仕掛ける。この村とも近い国境の接した隣国に。
「黙れ!!」
ばちん、と鋭い音がすると共に、私の左頬に鋭い痛みが走る。トーマスが、私を叩いた。
視界がぐらりと傾いた私の目に入ったのは、暖炉の上に置かれた私とあなたで撮った初めての写真。あの頃は、一緒にいることが何よりも楽しくて何よりも幸せだった。
でも今は…?
懐かしいよりもざらりとした不快感が私の体を満たしていく。痛む左の頬は熱いのに、頭の芯はすうっと温度が下がったように冷徹に染まっていく。
「いいえ黙らない」
そう言えばトーマスは、私がこんなふうに怒ることが嫌いだった。女らしく泣いて喚き散らした方がまだ可愛げがあるとでもいうのだろうか。生憎そんな可愛らしさは持ち合わせていないし、彼の言う女らしさは理解出来ず終いだ。
手を挙げられれば口を閉ざしてしおらしく泣き続けるだけの人間にはなりたくない。トーマスのために変わるつもりもない。もちろんこれからも、誰のためにだってそれは変わらない。
だからこれは彼だったからじゃなくて、誰に対してもの私の答え。そしてトーマスが私を頬を叩いたことが、彼の答え。それが全てだ。
私は深く息を吸い込んだ。
「これがあなたの答えなんでしょう?どうしていた私を叩いたのか、自分でも分からないって言うつもり?」
「……」
いつもこれだ。都合が悪くなったら口を噤んで、まるで私だけが悪いかのような顔をしてこっちを見る。いや違う、知っている。本当は私の目なんて見ていない。私の言葉なんて届いていない。
「…もう、私たちの関係はお終いにしよう。これ以上は無理だよ、私たち」
私は目を伏せた。彼と合わせてやる視線なんて、もう持ち合わせてはいなかった。
それでも、私の中に悲しみがあるのと同じように、彼の中にも私に対する情はあったみたいだった。曲がりなりにも、一度は幸せに包まれて永遠の愛を誓った仲なのだから。
「待ってくれっ、アニカ…!」
トーマスの顔色が変わる。彼の手がまた私に伸びてくる。私は反射的なそれを躱した。彼が恐れているのは私に見限られることじゃない。連れ添ってきた女に逃げられることでしかない。彼にとってはもう、私が私であることは気にするべきことではなくなっていた。
この国が、結婚して子供を作ることを推奨しているから恐れているだけだ。こんな閉塞的な村だから、新婚の夫が嫁に逃げられたなんて瞬く間に広がるだろう。それも村きってに仲の良い二人であれば、尚更。
トーマスはもう本当の意味で私を愛してはいなかった。
「……さようなら」
私は走り出していた。廊下を駆け抜けて玄関を開けて。もう二人の家にはいたくなかった。この村にもいたくはなかった。
泣いていた。
この期に及んで、トーマスが私を引き留めてくれるのではないかと期待していた自分に反吐が出そうだった。期待していたと言う事実と、引き留めてはもらえなかった現実が、余計にアニカの心を抉った。でもトーマスの目は、きっともう淀んでしまっていた。
それでも愛していた。
そして多分、この怒りは愛していることの裏返しだ。きっと私はまだ、トーマスのことを嫌いになりきれていない。このまま赤い糸で結ばれているはずの縁を切り離すことに心が痛むのは、決して勘違いなんかじゃない。
それでも私に出来た最善の選択はこれでしかなかった。お互いがお互いの信じるもののために生き続けるには、これしかなかった。
そうだと言わせてほしい。そうだと誰かに言い切ってほしい。けれど私に心の底から頼れる人なんてもういない。戦争が始まれば、尚更。
アニカは走り続けた。村の外れの山の近く。隣国との国境付近。人のこない山小屋に向かって、一目散に。
ー・ー・ー
勢いよくドアを開けて、アニカは山小屋の中へ半ば体を滑り込ませるようにして入り込んだ。勢いよくドアを閉めると、山小屋の中は一気に暗く沈んだ。
けれど不思議と、あの村の中のような淀みはない。どこまでも冷たい。けれど今の彼女には、その距離感が心地よかった。
「随分と派手な到着だね、アニカ」
部屋の隅に置かれたランプが、微かに彼の輪郭を浮かび上がらせていた。机の上に何かの書類を整然と並べているその姿は、冷徹なほどに洗練されていた。
アニカは彼を睨みつける。別に何かが憎くてそうしたわけではない。そうでもしなければ、また涙がこぼれてしまいそうだった。ここで虚勢を張らなくてはいつ張るのか、と彼女の心の中から何かが叫んでいた。少ない彼女のプライドが、彼に対して弱味を見せることを拒んでいた。
「…ギルバート」
けれどそんな思いとは裏腹に、アニカの喉から出た声はひどく弱々しかった。
ー・ー・ー
私は自分で言うのも何だが頭がよかった。記憶力もよかったから大抵のことは一度教えられれば覚えられるし、それに相応しいぐらいの知識に対する好奇心も持ち合わせていた。
だからなのだろうか。神様は交換とでも言わんばかりに、私から愛嬌を取り除いていた。まあそれも、私の八つ当たりでしかない言い方だ。
無愛想、と言うほどのものではなかったけれど、わざわざ特別親しくしたいとは思ってもらえない程には人付き合いが下手だったらしい。らしい、と言うのはまだ一応認めてはいないからだ。私は丁寧に人と話をしようといつだって心がけていたのに。
しかし実際私の周りにあったのは、紙とペンと本、数学の問題と理科の教科書、それと生き物の図鑑だった。父と母は私の勉学に対する熱意を肯定しつつも、いつも私の交友関係を気にしていた。
どこか閉鎖的な村と私は、どれだけ一緒にいても打ち解け合うのは難しかった。
けれどトーマスは別だった。あとついでにギルバート。
トーマスは同じ村の中で、私が唯一楽しく過ごせる同年代の子供だった。本を読んでる時に割り込んでは来るけれど、いつも決まって笑わせてくれた。
ギルバートは時々遊びに来ていた、国境を超えてすぐ近くの村に住む子だった。あの頃は、国境なんてただの緩い線でしかなかったから。
…強いて大人たちが変わり始めた頃をあげるなら、私とトーマスが十二歳、ギルが十歳だったあたりだろうか。
ー・ー・ー
秋の風が心地よく吹いていた。収穫を終えた大人たちはいつもよりも朗らかで、前日に迫った収穫祭を前に祝いの酒を早くも交わしていた。
私は村の入り口、広場に立っていた。トーマスも一緒だ。すると、見慣れた荷車とずんぐりむっくりした馬が見えてきた。
トーマスが駆け出した。私もそれに続く。荷台から顔を出したのは、数ヶ月ぶりのギルバートだった。目だけを出したその姿は、巣穴から周囲を伺う野ウサギに似ていた。こんなことを言ったら、また嫌そうな顔をされそうだけれど。
「ギル!久しぶり。遅かったね?」
私は手を差し出して飛び降りるよう促す。ギルは少し躊躇った後、トーマスに目配せをして荷台から飛び降りた。
「うん、なんか国境越えたところで止められちゃって」
ズボンの汚れを払いながらギルが答える。柔らかい黒髪が風に揺れていた。長めの前髪から覗く瞳は、歳に似合わずに落ち着いていて、しかし年相応に愛らしかった。
「なぁ、おばさんたち今日からうちに泊まるんだろ?いつまでいられるんだ?」
トーマスがにょきっと割り込んでくる。あった瞬間にギルの頭を軽く叩いて、自分との身長差を見せつけていくあたり馬鹿っぽい。
ギルとトーマスは従兄弟同士で、とても仲が良かった。二人のお母さん同士も仲のいい姉妹だったからこそだと思う。弟や妹のいない私は、よくギルバート相手にお姉さんぶっていた記憶がある。
ギルがゆるく頭を振った。
「今年は収穫祭が終わったら帰るって、母さんが」
…言葉を濁してはいるけれど、ここ最近はほんの少しだけ、大人たちのこの村にやってくる隣の国の人たちへの目線が厳しいことが理由な気がする。
でもそれ以上はわからない。大人は何も教えてくれない。大人のことはいつも大人だけで済ませてしまう。子供のことにはよく介入してくるくせに。
「ちぇっ、残念」
トーマスはそれきりその話題への興味が無くなったのか、いきなり私たち二人の手を掴むと走り出した。そう言えば、この前に見つけた秘密の隠れ家みたいな所をギルにも教えたいってはしゃいでいた気がする。
いつしか山の中に入っていって、トーマスが得意げに先頭を行き、私がその後を少し遅れてついていく。ギルは不慣れな山に怯えつつも、私たちに置いていかれまいと頑張ってついて来ていた。
たどり着いたのは、一つの山小屋だった。すっかり山に入る人が減って、使われなくなった山小屋を、探索していた私とトーマスが見つけたのだ。川がない方に突き進んだトーマスの馬鹿さ、もとい冒険心もたまには役に立つらしい。
「すごいね…!ここ、誰も使ってないの?」
秘密基地にしようとせっせと掃除こそしたものの、やはりまだ埃は目立つらしい。鼻と口を覆ったギルは、私たちより随分と綺麗好きだった。
「おうよ!だから今日はみんなで掃除だ!」
トーマスが勢いよく拳を空に向かって突き上げる。私とギルは少し目を見合わせた後、苦笑しながらそれに同じた。私たちは知っていた。どうせトーマスが一番にやる気を無くしてサボり始めるであろうことを。
「なぁ〜もうよくないか?めっちゃ綺麗になったって!」
トーマスが箒と塵取りを適当に床に転がした。さっきから繰り返し繰り返し同じところを掃いてはゴミを捨てにいくことの繰り返しでらもうすっかり飽きてしまったのだろう。
「だめ。トーマス、そこ汚い」
雑巾で床をゴシゴシ擦りながらトーマスに指示を飛ばすのはギルだ。さっきから拭っても拭っても落ちないシミとずっと格闘し続けている。こういうところになると急に頑固になるから、少しだけ面白い。
私はと言うと、窓拭きをしていた。じゃんけんで私が勝ったから遠慮なく好きな仕事を選ばせてもらった。自分が拭くことでどんどん綺麗になっていくガラス窓と、その反対側に見える綺麗な空を眺めるのが好きだった。家で掃除をする時はもっぱら拭き掃除ばかりさせられるから。
トーマスはギルの言い方にムッとしたのか、ギルにちょっかいをかけ始めた。初めは無視していたギルもだんだんイライラを募らせてきているのが目に見えてわかる。まずい。
「今日はもう終わりにしよう!明日はお祭りだし。ね?」
私は雑巾を投げ出して慌てて二人の間に入る。なんだかんだ私が一番この中で大人っぽいから、こう言う時はそれらしく気を回してやるものだ。
まだ続けたそうに不服そうなギルに立つことを促して、もうすでに外に飛び出したトーマスの跡を追う。下り坂を走るのは結構大変だった。
広場ではお祭りの支度がもうすっかり出来上がっていて、大人たちも出来上がってる人がちらほら。絡まれると面倒なので足早に通り過ぎる。まあ、私は大人に絡まれるほど可愛がられてはないから、問題はギルだ。
…でも、今年は少し変だった。
いつもなら見ないうちにでっかくなったと適当に絡んで適当に連れ回す大人たちが、今年はギルを見るたびにひそひそと仲間内で言葉を交わらせるようになっていた。どこか嫌な感じのする、喋り方だった。
どれだけ探してもトーマスは見つからなくて、私とギルは手を繋いだままうろうろと狭い村の中を彷徨っていた。
「きゃあっ」
突然、広場の真ん中の方から女の人の悲鳴が聞こえた。
ギルが息を呑んだ。私はつぶやいた。
「ユリアおばさんだ」
ユリアさんは、ギルのお母さんだ。そしてトーマスのお母さんの妹。この村の出身。
「母さん!!」
ギルが悲鳴みたいな声を上げて走り出した。私も慌てて跡を追う。
広場の真ん中で、ユリアさんが転んでいた。ちょうどトーマスのお母さんに助け起こされている。ギルはユリアさんに飛びついていた。トーマスも、その中にいた。
村人たちがそんな彼らを遠巻きに見つめていた。
誰も転んだ彼女を助け起こそうとはしなかったのだろうか。と言うか、こんな平な場所で人が派手に転ぶはずがない。ユリアさんは悲鳴をあげていた。…一体、誰が彼女を転ばせた?そしてその場にいたはずであろうたくさんの人たちはどうして、その犯人の名前を言わない?
広場の中の空気が淀んでいる。きっと村の人たちは気づいていない。
ひそひそ声で交わされる根も葉もない噂、誰かの適当な憶測、都合のいいようにくり抜かれた話。どれもこれも、少し頭を使えばそんなことあるわけないってわかるはずなのに。
私の腹の中でムカムカと暴れ回っていた何かが、ぶちりと音を立てて私を押し留めていた何かを噛みちぎった。
「ねぇ、馬鹿じゃないの?」
思ったよりも、大きな声が出た。出したこともないぐらい、低い声だった。私の声が村人たちの足首にまとわりついてそのまま締め上げてしまえるかもしれない、と出来るはずもないことが頭の中に浮かんでは弾ける。怒りが変な方向に走り出して関係のないことまで考えてしまう。私の悪い癖だ。
「ユリアおばさんはこの村の出身だし、たくさん遊びに来てるじゃない。どこぞの見知らぬ都の人たちなんかより、よっぽど私たちの仲間で味方なんじゃないの?…もう少しものを考えてから行動に移しなさいよ」
胸の前で本をきつく抱きしめる。声が震えないように背筋を伸ばす。流石の私でもこんなたくさんの村人相手に、しかも大人も混じった中にきっぱりと否定の言葉を投げかけるのは度胸が必要だった。
村の人たちの視線が突き刺さる。はっきりと標的が彼らから私に移行したのが嫌でもわかった。全身を村人たちの突き刺すような視線に晒しながら、私はじっと耐えていた。きっと空を睨んでいた。泣き出すなんて真似は、したくなかった。
「アニカ行くぞ」
ぐいっ、と誰かが私の腕を引っ張った。トーマスだった。私はそのままトーマスに引きずれるようにして駆け出した。少しいたところで、まだ涙を目から溢れさせているギルが心細げに歩いていた。トーマスはギルの手も掴むとそのままスピードを緩めることなく走り続けた。
三人で山小屋に駆け込んだ。おばさんたちは家に帰ったみたいだった。三人ともぜえはあ、と肩で息をしていた。
そうしたら、涙を拭っていたギルがぽつりと漏らした。
「…僕も、アニカみたいになれるかな?」
たくさん勉強したらなれるよ、と嬉しくなって答えようとしたらトーマスが割り込んできた。
「やめとけ、こんなのはアニカだけで充分だ」
と、冗談混じりに返す。流石に聞き捨てならなかった。
「ちょっとなにそれ!!」
私は怒ってトーマスをポカポカ殴る。あんまり手加減はしていないのでそれなりに痛いはずなのに、トーマスはごめんごめんと軽く笑って流すだけだった。もう、なんとなくいつも通りになっていた。それが心地よかった。
私とギルに焼かれた肉を渡してくれた。あの状況の広場から持ってこれたことに驚く。トーマスを見つめてみたら、イタズラっぽく笑って私たちに食べるように促した。なるほど、共犯になれと言うことか。
食んでみると、じゅわりと肉汁が口の中に溢れて、ふんだんに使われた塩と香辛料がさらにそのおいしさを引き立てる。
私が無言でむしゃむしゃと肉を咀嚼しているのを見たトーマスは少しホッとしたように息を吐き出した。私の機嫌が治ったことを察知したらしい。そしてまたにぱっと笑うと、とんでもないことを口にした。
「アニカはそこがいいんだろ。それに、そうやってたら可愛いし」
ぐっ、と返答に詰まる。こう言うことをふとした瞬間に言ってくるからタチが悪い。なんだかんだ私が、トーマスが例え馬鹿でもただの馬鹿であると見切りをつけられない理由がここにあった。
「なによ、それ…」
なんとか肉を飲み込んで目線を下げた私の頭を、トーマスが軽く撫でた。村の陽気な喧騒が少し遠くから聞こえてきた。きっと、祭りもたけなわなのだろう。この分なら、明日になれば多分みんな都合の悪いことは忘れているはずだ。この村の人たちはいい意味でも悪い意味でもその日その日を生きているから。
私がもじもじしていたら、トーマスは気をよくしたのか何を思ったのか私の良いところを突然列挙し始めた。
「アニカは頭がいい!あと気が強そうに見えるけど実は結構落ち込みやすいよな!それに、ものの名前とかは知ってんのに人付き合いは下手なんだよなー」
訂正。褒めが半分、貶しが半分だった。素直に喜ぶことはできない。でも不思議と、そこまで嫌な気持ちにはならなかった。
ふと、ギルがそわそわした目でこちらを見ていたので、なんでかわからなかったのでとりあえずわしゃわしゃと全力で頭を撫でてやった。撫でると言うよりもかき混ぜると言う方が近かったかもしれないけれど。
三人分の笑い声が、昨日より綺麗になった三人だけの秘密基地に響いていた。トーマスは食べこぼしていたし、ギルは泣き腫らした顔だったけれど、私たちはみんな思いっきり笑い合っていた。
とてもとても、幸せだった。
ー・ー・ー
収穫祭な後、ユリアさんとギルはまた国境を越えて彼らの家へと帰っていった。いつもは見送りに来ていた村の人たちは、家の中に閉じこもっていた。
それから一年、二年…五年と少し、ぐらいだろうか。二人とも村に遊びにこなくなった。村人たちは不思議なくらい、彼らのことを口に出さなかった。
私とトーマスは初めの方こそ心配していたものの、二人のことを聞くたびに大人たちから睨まれたり、ついにはトーマスのお母さんからまでも、そのことは口にしないでくれ、と頼まれてしまった。もう、私たちがギルたちを心配することは許されてはいないみたいだった。
そして、国境がずいぶん前に封鎖されていたことを誰かから聞かされた。その頃には、みんな少しずつ変になってしまっていた。自分たちが変わってしまったこともわからないぐらいに。
遂にはトーマスの中からもギルバートと言う仲の良い従兄弟の存在はかき消されたみたいだった。憎むべき敵国に身内がいることに耐えきれなかった故か、敵国の人間は身内などではないと言う考えなのか。私にはわからない。だけど私は、私にとっては、ギルはいつまでも私の弟分だった。
徐々にすり替えられていったトーマスの思考。段々と過激になっていく村人の思想。父も母ももう声をあげて反対することに疲れ切ってしまっていた。今は特に反抗も賛成もしないまま、村の片隅でひっそりと暮らしている。
あぁ、この村から何かが去ってしまったのだと、私はそう思った。
けれど私も、村の外の人から見れば村の一部の人間に違いなかった。父と母と同じように、私もただ何も言わずに村人の中に紛れていた。そうでもしないと、彼らの一番身近な標的が私になってしまう。それと、私の家族。
トーマスと結婚したのは、思えば少しだけ打算があったかもしれない。国の教えに熱心な彼と家族になれば、私の父母も私も少しは白い目で見られなくなると踏んだからなのかもしれない。
でもそうやって愛だの恋だのとは違うことに結びつけようとしても、間違いなく私は…
「…私は彼を愛していたわ」
本当だった。だからこそ悔しかった。何に対してそんな感情を抱かずにはいられないのかわからなかったけれど、とにかく悔しかった。
「彼も私を愛していたはずなの…」
負けたような気がしたのかもしれない。この国に。私の彼に対する愛はたった一人の彼に向いていたはずなのに、彼が選んだのは従順な国民に対する国の愛だった。
「そうだね」
静かな相打ち。はっきりと肯定こそしないが、その言葉に否定は滲んでいない。ギルは昔からよく、何かをはっきりとは言わない子だった。けれどその言葉の中には、確かな彼の見解と意識が含まれている。
だから私は言葉を重ねる。聞いてほしかった。きっと、ギルが本当に私の言葉を噛み砕いて全てを理解することは不可能だ。でも私がこんなことを話せる数少ない人の中で、私の知る限りギルが一番その究極の理解に近いと思った。それが良いこととして出るのか悪いこととして出るかなんて、わからないけれど。
「彼と私はどこで間違えたの?こんなことになる前に、もっと何かできた気がするの…」
やはり口下手なのがいけないのだろうか。全てにおいて。
もしかしたら私は、彼の愛の上に胡座をかいていたのかもしれない。何かに対する努力を、怠っていたのかもしれない。でも努力をしなければ続けられない暮らしなんて、こんな私が一体どれだけ取り繕って続けられるのだろうか。
もし、どう足掻いても来てしまう終わりが今日だとしたら?…それでも私は、少しでもいい自分を彼に対してつくせただろうか。
わからない。そのことを考えるには、私と彼は長らく一緒にいすぎた。
「おれに言われても困るんだけど」
ギルの声は変わらず冷たい。けれどその中には、確かに昔を懐かしむ色が含まれていた。氷の塊が一瞬、太陽の光を煌めかせるのと同じように。
「…そうだね、ごめんなさい」
私は涙を拭うと、無理矢理少し微笑んで見せた。ギルは机の上に広げていた書類を手早くまとめると立ち上がった。
…身長が、かなり伸びていた。声変わりもしているし、まるで知らない人みたいになっていた。それでも私はなぜか、ギルはギルだとわかった。不思議なことこの上ない。
「………でもびっくりした。まさかギルがここにいるなんて」
振り返ったギルの横顔に浮かぶ表情はあまり読み取れない。あの頃より、多くを語らなくなった。でも多分それは、私も同じことなのだろう。
ギルは私の質問には答えずに、私に対して問いかけてきた。
「これからどうするつもり?村に戻るつもりなら止めるけど」
その声にほんの少しだけ昔のギルが顔を覗かせる。私は懐かしい気持ちで首をゆるく振った。
「ううん。もうこの村には、この国にはいたくない…」
「なら、おれが案内してあげる。この国を出よう」
コノクニヲデヨウ。このくにをでよう。…あぁ、この国を出ようってことか。
「え?」
涙が瞬時に乾いた。
「だから、おれの国に来れば良いよ。安全は保証するし、それにちゃんと準備もしてきた」
変わらず口調は淡々としていることが腹立たしい。それではまるで、私がここに来ることが初めからわかっていたみたいではないか。急速に頭が冷えていく。それと同時に、先ほどまでの自分が少しだけ悲劇によっていたかもしれないと言うことに気がつく。恥ずかしい。
「すごいね。薄気味悪い」
動揺する気持ちを隠すように悪態をつく。正直ギルのやってることはかなり気持ち悪い部類に分類されると思うので許してもらいたい。
「褒め言葉として受け取るね」
昔はもっと可愛かったのに、と私は小さくこぼした。まさか聞こえるとは思っていなかったけれど、お互い様だよ、と返答されて私はぎこちない笑みを浮かべた。
ほんの少し、戸惑っていた。思っていたよりも、すんなりとトーマスとの別れを決めてしまえた自分と、今こうやってお互いの腹を探り合うような会話を楽しむ自分に。
ギルから外套を受け取ると、躊躇わずにそれを羽織った。行動に躊躇いを見せていたら、きっと私の心は揺らいでしまうから。
ドアを軽く軋ませて、私たちは外に出た。霧が立ち込めていて薄暗く、視界が悪い。なるほど。これは確かに逃げるのにはうってつけかもしれない。こちらが道を把握しているなら尚更。
私はは一度きつく目を閉じた後、ゆっくりとその目を開いた。もう迷いはなかった。
私とトーマスは結ばれていたはずだ。確かにお互いのことを思い合っていたはずだ。…それでも、譲れないものが大きすぎた。お互いの譲れないものが相容れないものでしかなかった。
だからきっと、私たちは別れなくてはいけなかった。少しでも、かつて愛したことがある相手なら尚更。ううん、訂正する。少しなどではない。もっとずっと、愛していた。そして今も、きっと心のどこかでは諦め切れてはいない。
であればこそ、私は私の手でこの縁を切り離す。村を捨てるのと同時に、トーマスとの赤い糸も切り離す。赤かった糸と言うべきだろうか。かつての赤さはすっかり色褪せた。今改めて見てみれば、私が赤だと錯覚していたのは私たちどちらもの血と涙が渇いてできた歪な色でしかなかった。生半可な覚悟では、この気持ちにケジメはつけられないことをわかっていた。だからこそ、ここでキッパリと区切りをつけさせてほしい。
私のために。それに他でもない、トーマスのためにも。
「さようなら…」
アニカはもう一度呟いた。そして、踵を返した。少し先にはギルの外套が見える。こう言う時つかず離れずそばにいようとするあたり、多分自分と気が合うのだろう。
アニカは霧の中へと歩き出した。もう二度と、振り返らない。




