森羅万象の音
夏休みが始まって三日目。
僕は祖父母の家の縁側で、スマートフォンを片手に悩んでいた。
「自由研究、何にしよう……」
都会と違って、ここには暇な時間だけはたくさんある。
蝉の声。
風に揺れる木々。
遠くを流れる川。
鳥の鳴き声。
どれも、普段の生活では気にしたことのない音だった。
「だったら、音を録ればいい」
祖父が畑から戻ってきて、麦茶を飲みながら言った。
「この辺りは、音が多いぞ」
「音が多い?」
「ああ。晴れた日は畑仕事。雨の日は本でも読んで過ごす。昔からここじゃ、それが一番だ」
祖父は笑った。
「晴耕雨読ってやつだ」
僕はスマートフォンを取り出した。
「じゃあ、夏休みの自由研究は『この辺りの音』にする」
それが始まりだった。
蝉の声。
川のせせらぎ。
夕立。
夜の虫。
祖父の鍬の音。
祖母が食器を洗う音。
僕は毎日、思いつく限りの音を録音した。
録音した数は、すぐに百を超えた。
せっかくだから、夏休みが終わるまでにできるだけ多く集めよう。
そう思って、僕は音の収集に一意専心するようになった。
そして、ある日のことだった。
録音した音を整理していると、見覚えのないファイルが一つ混ざっていた。
ファイル名は、
「8月8日 15:12」
そんな時間に録音した覚えはない。
再生してみる。
最初に聞こえたのは、蝉の声だった。
ジジジジジ……。
風の音。
木の葉が擦れる音。
遠くで鳴く鳥。
いつもの音だ。
ところが、十秒ほど経ったところで。
小さな声が混じった。
『……まだ一人』
僕は再生を止めた。
今の、何だ?
もう一度再生する。
蝉。
風。
鳥。
そして、
『……まだ一人』
確かに聞こえた。
誰かが喋っている。
でも、僕はこんな声を録音した覚えがない。
その日は、それ以上調べなかった。
翌日。
また一つ、知らない録音が増えていた。
「8月9日 16:03」
再生する。
蝉の声。
風。
川。
そして、
『……あと二人』
背中が冷たくなった。
その翌日には、
『……あと一人』
さらに翌日。
『…………』
何も聞こえなかった。
僕は怖くなった。
それでも、録音をやめられなかった。
気になって仕方がなかった。
世界には、僕が知らない音がまだある。
そう考えると、どうしても探したくなった。
祖父に聞いてみようとも思った。
でも、なぜか聞けなかった。
そんなある日。
雲一つない空が広がった。
夏の太陽が眩しい。
祖父の言っていた青天白日という言葉がぴったりな日だった。
僕は川辺に座り、録音を始めた。
蝉。
鳥。
川。
風。
草。
虫。
遠くを走る車。
僕が今まで集めてきた音。
これで、かなりの数になった。
録音を止めようとした、そのとき。
イヤホンから声が聞こえた。
『森羅万象――』
僕は固まった。
『全部、聞こえてる』
その声を、僕は知っていた。
自分の声だった。
スマートフォンを落としそうになった。
そんな言葉を僕は言っていない。
慌てて録音を止める。
そして、今までの録音を確認した。
全部。
一つずつ。
声の入っていたファイルを探す。
すると、あることに気づいた。
声が聞こえる録音には、必ず僕の足音が入っていた。
コツ。
コツ。
コツ。
僕が歩くたびに。
何かが、僕の音を聞いている。
そう思った瞬間。
スマートフォンが震えた。
新しい録音ファイルが作られている。
僕は触っていない。
ファイル名を見る。
「8月31日 23:59」
まだ、8月31日じゃない。
恐る恐る再生する。
しばらく、何も聞こえない。
無音。
十秒。
二十秒。
三十秒。
やがて。
小さな声が聞こえた。
『明日から――』
そこで一度、途切れる。
そして、
『君の音も聞こえる』
僕はスマートフォンを放り投げた。
その夜。
眠れなかった。
翌朝。
夏休み最後の日。
僕は祖父母に何も言わず、家を出た。
学校へ行けば、何か変わる気がした。
いつもの道。
いつもの校門。
いつもの教室。
なのに。
誰もいなかった。
「……先生?」
返事はない。
友達もいない。
廊下にも。
校庭にも。
誰もいない。
静かだった。
静かすぎる。
僕はポケットからスマートフォンを取り出した。
録音アプリが起動している。
画面には、
『録音中』
と表示されていた。
「……いつから?」
再生ボタンを押す。
最初は無音。
そのあと。
コツ。
足音が一つ。
コツ。
また一つ。
僕の後ろから聞こえてくる。
コツ。
近づいてくる。
僕は振り返らなかった。
振り返ることができなかった。
コツ。
コツ。
コツ。
すぐ後ろまで来た。
そして。
僕の耳元で。
『――見つけた』
僕はゆっくり目を閉じた。
その瞬間。
録音が終わった。
画面に表示されたファイル名は、
「9月1日 00:00」
だった。




