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森羅万象の音

掲載日:2026/08/16

 夏休みが始まって三日目。


 僕は祖父母の家の縁側で、スマートフォンを片手に悩んでいた。


「自由研究、何にしよう……」


 都会と違って、ここには暇な時間だけはたくさんある。


 蝉の声。

 風に揺れる木々。

 遠くを流れる川。

 鳥の鳴き声。


 どれも、普段の生活では気にしたことのない音だった。


「だったら、音を録ればいい」


 祖父が畑から戻ってきて、麦茶を飲みながら言った。


「この辺りは、音が多いぞ」

「音が多い?」

「ああ。晴れた日は畑仕事。雨の日は本でも読んで過ごす。昔からここじゃ、それが一番だ」


 祖父は笑った。


晴耕雨読(せいこううどく)ってやつだ」


 僕はスマートフォンを取り出した。


「じゃあ、夏休みの自由研究は『この辺りの音』にする」


 それが始まりだった。


 蝉の声。


 川のせせらぎ。


 夕立。


 夜の虫。


 祖父の鍬の音。


 祖母が食器を洗う音。


 僕は毎日、思いつく限りの音を録音した。


 録音した数は、すぐに百を超えた。


 せっかくだから、夏休みが終わるまでにできるだけ多く集めよう。


 そう思って、僕は音の収集に一意専心(いちいせんしん)するようになった。


 そして、ある日のことだった。


 録音した音を整理していると、見覚えのないファイルが一つ混ざっていた。


 ファイル名は、


 「8月8日 15:12」


 そんな時間に録音した覚えはない。


 再生してみる。


 最初に聞こえたのは、蝉の声だった。


 ジジジジジ……。


 風の音。


 木の葉が擦れる音。


 遠くで鳴く鳥。


 いつもの音だ。


 ところが、十秒ほど経ったところで。


 小さな声が混じった。


『……まだ一人』


 僕は再生を止めた。


 今の、何だ?


 もう一度再生する。


 蝉。


 風。


 鳥。


 そして、


『……まだ一人』


 確かに聞こえた。


 誰かが喋っている。


 でも、僕はこんな声を録音した覚えがない。


 その日は、それ以上調べなかった。


 翌日。


 また一つ、知らない録音が増えていた。


 「8月9日 16:03」


 再生する。


 蝉の声。


 風。


 川。


 そして、


『……あと二人』


 背中が冷たくなった。


 その翌日には、


『……あと一人』


 さらに翌日。


『…………』


 何も聞こえなかった。


 僕は怖くなった。


 それでも、録音をやめられなかった。


 気になって仕方がなかった。


 世界には、僕が知らない音がまだある。


 そう考えると、どうしても探したくなった。


 祖父に聞いてみようとも思った。


 でも、なぜか聞けなかった。


 そんなある日。


 雲一つない空が広がった。


 夏の太陽が眩しい。


 祖父の言っていた青天白日(せいてんはくじつ)という言葉がぴったりな日だった。


 僕は川辺に座り、録音を始めた。


 蝉。


 鳥。


 川。


 風。


 草。


 虫。


 遠くを走る車。


 僕が今まで集めてきた音。


 これで、かなりの数になった。


 録音を止めようとした、そのとき。


 イヤホンから声が聞こえた。


森羅万象(しんらばんしょう)――』


 僕は固まった。


『全部、聞こえてる』


 その声を、僕は知っていた。


 自分の声だった。


 スマートフォンを落としそうになった。


 そんな言葉を僕は言っていない。


 慌てて録音を止める。


 そして、今までの録音を確認した。


 全部。


 一つずつ。


 声の入っていたファイルを探す。


 すると、あることに気づいた。


 声が聞こえる録音には、必ず僕の足音が入っていた。


 コツ。


 コツ。


 コツ。


 僕が歩くたびに。


 何かが、僕の音を聞いている。


 そう思った瞬間。


 スマートフォンが震えた。


 新しい録音ファイルが作られている。


 僕は触っていない。


 ファイル名を見る。


 「8月31日 23:59」


 まだ、8月31日じゃない。


 恐る恐る再生する。


 しばらく、何も聞こえない。


 無音。


 十秒。


 二十秒。


 三十秒。


 やがて。


 小さな声が聞こえた。


『明日から――』


 そこで一度、途切れる。


 そして、


『君の音も聞こえる』


 僕はスマートフォンを放り投げた。


 その夜。


 眠れなかった。


 翌朝。


 夏休み最後の日。


 僕は祖父母に何も言わず、家を出た。


 学校へ行けば、何か変わる気がした。


 いつもの道。


 いつもの校門。


 いつもの教室。


 なのに。


 誰もいなかった。


「……先生?」


 返事はない。


 友達もいない。


 廊下にも。


 校庭にも。


 誰もいない。


 静かだった。


 静かすぎる。


 僕はポケットからスマートフォンを取り出した。


 録音アプリが起動している。


 画面には、


 『録音中』


 と表示されていた。


「……いつから?」


 再生ボタンを押す。


 最初は無音。


 そのあと。


 コツ。


 足音が一つ。


 コツ。


 また一つ。


 僕の後ろから聞こえてくる。


 コツ。


 近づいてくる。


 僕は振り返らなかった。


 振り返ることができなかった。


 コツ。


 コツ。


 コツ。


 すぐ後ろまで来た。


 そして。


 僕の耳元で。


『――見つけた』


 僕はゆっくり目を閉じた。


 その瞬間。


 録音が終わった。


 画面に表示されたファイル名は、


 「9月1日 00:00」


 だった。

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