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ある令嬢の遺書

作者: 双葉からす
掲載日:2026/02/27

 黒い服の人たちが、花に埋もれた棺を囲んでいる。

 公爵家の葬儀にしては質素だった。参列者も少ない。白百合と薄紫の竜胆が控えめに棺を飾っているが、花を選んだのは私だ。ご家族は花の種類すら指定しなかった。棺の中に眠る人が、生前どれほど軽んじられていたかを、この花の数が物語っている。

 私はエリーゼお嬢様の侍女だった。十二年間、ただ一人の侍女だった。

 手の中の封筒が重い。上質な紙に薄紫の封蝋。お嬢様が最後に私に託した、たった一通の遺書だ。

 

「——では、故エリーゼ・フォン・シュヴァルツの遺書を、侍女マリアが代読いたします」

 

 私の声は、静まり返った礼拝堂に小さく響いた。

 ステンドグラスの光が石畳に模様を落としている。聖堂の椅子は百人分あったが、埋まっているのはその五分の一にも満たない。

 最前列に座る公爵様が、面倒くさそうに足を組み替えた。この葬儀が終わったら次の社交の予定があるのだろう。隣の奥様は目を伏せていたが、泣いているのではない。退屈しているのだ。指先で膝の上のハンカチの刺繍を弄んでいる。

 第二王子殿下は参列すらしていなかった。先月まで婚約者だったというのに。代わりに付き人が花を一輪だけ置いて帰った。白い薔薇が一本。それだけ。

 妹のカタリナ様だけが、真っ直ぐ前を向いてこちらを見ていた。何の感情も浮かべていない、磨き上げた翡翠のような瞳で。その瞳は幼い頃からずっとそうだった。欲しいものを見つけた時も、手に入れた時も、飽きた時も、同じ顔をしている。

 

 私は封蝋を丁寧に剥がし、便箋を広げた。

 お嬢様の字だ。いつも通りの、一画一画が真っ直ぐで丁寧な字。最後の最後まで乱れていない。この方はいつだってそうだった。どれだけ泣いた夜の翌朝でも、寝台の隅で目を腫らしていても、机に向かえば文字だけは完璧だった。

 

 ——読みます。

 


 

「お父様へ。

 十七年間、育ててくださりありがとうございました。

 私の部屋を妹に譲ってくださった日のことを、今でも覚えています。あれは八歳の冬でした。お父様は書斎に私を呼び、暖炉の火に目を向けたまま、こうおっしゃいましたね。

 『カタリナは体が弱いから、日当たりの良い部屋が必要だ。お前は姉なんだから我慢しなさい』

 ごもっともです。

 あの南向きの部屋は、確かに妹に必要なものでした。大きな窓から差し込む光、庭の薔薇が見える景色、春には小鳥が窓辺に来ること。全部、体の弱い妹にこそふさわしいものでした。

 代わりに与えられた北向きの小さな部屋で、私は本をたくさん読みました。日が差さない部屋は目が疲れにくく、読書にはとても向いていました。冬は寒かったけれど、毛布にくるまって読む本は格別でした。

 お父様のおかげです。感謝しております」

 

 公爵様の足が止まった。組んでいた足を静かに降ろし、背筋を正した。目線が棺に向く。棺の中の娘を見るのは、今日が初めてではないだろうか。

 私は続ける。

 


「お父様へ、もうひとつ。

 毎年の社交季、新しいドレスをカタリナに仕立ててくださったこと、ありがとうございました。

 私には昨年のカタリナのドレスが回ってきましたが、お針子のマルタに頼んで丈を直してもらう時間が、とても楽しかったのです。マルタは私に繕いの技を教えてくれました。おかげで使用人たちの衣服のほつれをお直しできるようになり、厨房のベルタや庭師のクラウスに『ありがとう』と言ってもらえました。

 お父様には一度も言ってもらえなかった言葉を、使用人たちからもらいました。

 あの時間がなければ、私は『ありがとう』を知らないまま死んでいたかもしれません。

 ですから、感謝しております」

 


 

 公爵様の喉が鳴った。唾を飲み込む音が、静寂に沈んだ礼拝堂ではっきりと聞こえた。

 奥様が顔を上げた。退屈の色はもうない。ハンカチを弄ぶ指が止まっている。

 


「お母様へ。

 お母様が私の名前を呼んでくださったこと、覚えていらっしゃいますか。

 一度だけ。

 私が十二歳の誕生日の夜でした。カタリナが高熱を出して寝込んでおり、お母様は看病で一日中カタリナの部屋にいらっしゃいました。日付が変わる頃、お母様はふらりと廊下に出て、たまたま私の部屋の前を通りかかりました。灯りが漏れていたのでしょう。扉を開けて、こうおっしゃいました。

 『あら、エリーゼ。まだ起きていたの。おめでとう』

 それだけでした。たぶん、十秒もいなかったと思います。たぶん、カタリナの看病の合間のお暇潰しだったのだと思います。

 それでも私は嬉しかった。

 お母様に名前を呼ばれたのが、後にも先にもあの一度きりでしたから。

 普段、私のことを何と呼んでいらしたか、覚えていますか。

 『お姉ちゃん』です。

 朝も昼も夜も、いつでも。来客があっても、使用人に紹介する時も。

 私は『お姉ちゃん』という役割だけの存在になりました。

 私にも名前があったこと。エリーゼという名前を付けてくださったのはお母様だということ。この遺書でお伝えできていれば幸いです」

 

 

 奥様の手が震えていた。

 扇子を握りしめたまま、歯を食いしばっている。泣いてはいない。泣けないのだ。泣く資格がないことを、今、初めて理解したのだろう。あるいは——泣く資格がないことを理解した自分に、どうしていいかわからないのだろう。

 私の声も震えそうになる。でも読む。最後まで読む。お嬢様がそう望んだから。

 

 

「カタリナへ。

 あなたが欲しいと言ったものを、私は全て差し上げました。部屋も、ドレスも、お菓子も、家庭教師の時間も、社交界でのお披露目の順番も。

 最後にあなたが欲しがったのは、私の婚約者でしたね。

 差し上げました。

 だってあなたは、いつもこう言ったでしょう。

 『お姉様のものが一番素敵に見えるの』

 あの言葉が、私は嬉しかったのですよ。だって私の持っているものを『素敵だ』と言ってくれたのは、この家であなただけでしたから。

 だから差し上げたのに。あなたは受け取った途端に興味をなくすのです。部屋を譲られた翌週にはカーテンを替えたいと言い出し、ドレスは一度着ただけで衣装部屋に仕舞い込み、家庭教師はつまらないと二ヶ月で替えました。

 殿下のことも、同じでしたか。

 ……ねえ、カタリナ。あなたが本当に欲しかったのは、私の持ち物ではなく、『お姉様が大切にしているもの』を奪う行為そのものだったのですか。

 それとも、私に構ってほしかっただけですか。

 もう聞けませんね。ごめんなさい」

 

 

 カタリナ様の翡翠の瞳が、初めて揺れた。

 私は十二年間この家に仕えてきたが、カタリナ様の瞳が揺れるところを一度も見たことがなかった。唇が微かに開き、音にならない息が漏れた。それが何の感情なのか、たぶんカタリナ様自身にもわからないのだろう。自分の中にそんなものがあったことすら、知らなかったのだ。

 

 

「第二王子殿下へ。

 殿下はきっと、この遺書が読まれる場にはいらっしゃらないでしょう。それでも記します。いつか届くことを祈って。

 婚約を解いてくださり、感謝しております。殿下が最後に私におっしゃった言葉を覚えていますか。

 『君との婚約は政略だった。心を通わせたことは一度もない。カタリナとは違う』

 正直に言ってくださって、ありがとうございました。

 ひとつだけ訂正させてください。心を通わせたことが一度もなかったのは、殿下の側の話です。

 私の側には、ありました。

 殿下が書見の合間に窓の外の雨を見ている横顔が好きでした。書類の束にうんざりしながらも最後の一枚まで目を通す几帳面さが好きでした。カタリナに目を奪われていた殿下のことも、嫌いにはなれませんでした。

 これは恨み言ではございません。事実の訂正です。

 記録は正確であるべきですから。書記官の娘として、それだけは譲れませんでした」

 


 

 殿下の付き人が、柱の陰で顔を歪めていた。白い薔薇を一本だけ置いて帰った、あの付き人。彼は知っているのだろう。殿下がこの言葉を聞いたら何を思うか。そして、この言葉が殿下に届くかどうか。

 届かないだろうことを、私は知っている。

 

 残りは短い。

 最後の段落。お嬢様の字が、ここだけ少しだけ丸い。急いで書いたのではなく、力が抜けている。たぶん、書きながら微笑んでいたのだと思う。

 

 

「最後に、この遺書を読んでくれている人へ。

 マリア。あなたですね。あなた以外にこの役目を引き受ける人がいないことは、わかっていました。

 十二年間、ありがとう。

 あなたは私に名前をくれた人です。毎朝『エリーゼ様、おはようございます』と言ってくれましたね。雨の日も、私が泣いた翌朝も、あなたは必ず同じ笑顔で同じ言葉をくれました。

 私がこの家で名前で呼ばれたのは、母の一度と、あなたの四千三百八十回です。

 数えていました。一日も欠かさず。

 朝、あなたの声で目を覚ますたびに、今日も生きていようと思えました。

 だから最後のお願いです。

 この遺書を読み終えたら、泣かないでください。あなたはもう十分すぎるほど、私のために泣いてくれましたから。

 代わりに、明日の朝は少しだけ遅く起きてください。

 もう私を起こしに来なくていいのですから。

 

          ありがとう。

              エリーゼ・フォン・シュヴァルツ」

 

 

 ——読み終えた。

 

 便箋を胸に抱いて、顔を上げる。

 礼拝堂は沈黙していた。

 誰も動かない。泣いている人は一人もいない。泣ける人が一人もいないのだ。感謝の言葉で丁寧に塗り固められた便箋の裏側に、何が埋まっていたのか。全員がそれを今——遅すぎるほど遅く——理解している。

 公爵様は棺を見つめたまま、まばたきを忘れていた。奥様は扇子を落としたことにすら気づいていない。カタリナ様の唇はまだ微かに開いたまま、何かを言おうとして言えずにいる。

 

 遺書を胸に抱く。

 お嬢様。泣くなと言いましたね。

 

 ——無理です。

 

 だって。四千三百八十一回目の「おはようございます」は、もう永遠に来ないのですから。

 

 花に埋もれた棺は何も答えない。

 窓の外では春が来ていた。お嬢様が一度も見ることのなかった、南向きの窓から差す春の陽光が、棺の上の白百合を静かに照らしていた。


(了)

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。


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『幼馴染の騎士団長に並びたくて、感情を一個ずつ魔力に変換していったら、王国を救っちゃいました。』

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よろしければ覗いていただけると嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
家族以外約17人は最低でも参列して聞いてる人がいて、一人も外で喋らないわけがないですよ。 公爵家のとっても美味しい醜聞ですもん。 名指しされた家族は、恥を掻かされたと怒るだけで後悔などしないでしょう…
令嬢の周囲は式場を出たそばから笑える程度には何も感じてないでしょ。 遺言の内容が漏れて周囲から傷と見られてからが本番でしょう。 その頃には王子ともども令嬢を消したと言われてるかも?
この後たぶん言われた人たちは悪口言って後悔とかはしなさそうだからざまぁじゃないな。。 手紙読んだ人だけ泣いてくれそう。 死に損って感じでちょっとざんねん。
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