凡庸の母、鶏を裁く。たまたま、殺意の帳簿。
電話が鳴ったのは、夕飯の下ごしらえをしている最中だった。
鶏むね肉を切りながら、少し薄くしすぎたな、と思った。でも、まあいいか、と包丁を置く。
知らない番号だ。出ると、若い男の声がした。やけに丁寧で、言葉の角が丸すぎる声。
「田島美咲さんのお母さまで、お間違いないですか」
その言い方が、なぜか耳に残った。名前を確認するだけなのに、答え合わせをされている気がしたからだ。
「はい」
そう答えた自分の声が、思っていたより軽くて、少しだけ不安になった。一瞬の沈黙のあと、受話器の向こうで、紙をめくる音がやけに大きく響く。
「こちら、ATLASの総務部ですが」
会社名を聞いた瞬間、背筋に冷たい水が流れた。
美咲の勤め先だ。大きくて安定した会社、親戚に自慢できる会社。なのに、その名前が、今は私の胸を重く押さえつける。
「本日、田島美咲さんに関して、緊急のご連絡がありまして」
緊急――
その一語で、キッチンの空気が凍った。私は、手元の鶏肉を見つめた。いつもより白すぎる。
「……はい」
私の声が、震えている。受話器の向こうの丁寧さが、かえって残酷に響く。
「社内調査の結果、不正行為の疑いが確認されました」
不正。
行為。
疑い。
意味を理解する前に、頭の中で美咲の顔を探した。
真面目で、静かで、決して派手ではない。誰よりも努力家で、ひたむきに数字を追うだけの子なのに。
「横領の件で、社内でお話を聞かせていただくことになりまして」
横領……
その言葉が耳に触れた瞬間、体の奥で何かが逆流した。怒りなのか、恐怖なのか、自分でも分からない。ただ、喉が固まる。
指先が、わずかに震えた。手のひらが湿っている。
「……何かの、間違いではないでしょうか」
私の声は思ったより低く、細い。必死に形を保っているだけで、気を抜けば崩れそうだった。
でも、それ以上を出せなかった。母親として持っているものを、全部その一言に詰めたつもりだった。
「詳しいことは、直接ご説明しますので」
通話が切れる。受話器を置いても、手が離れない。
胸の奥が、熱を持ち始めている。目に入るものすべてが、遠くの幻のようにぼんやり揺れていた。
私は美咲に電話をかけた。
呼び出し音が、やけに長い。洗濯機の止まらない脱水みたいに、耳の奥で回り続ける。三度目で、ようやく繋がった。
「……お母さん」
泣いてはいない。でも、声の奥で何かを押し殺している。
私の胸の内側が、ぎゅっと縮む。冷たい痛みが、背骨をなぞった。
「美咲。今、どこなの?」
返事を待つ時間が、壁のように立ちふさがる。
「……会社…」
それだけで、言葉が途切れる。受話器の向こうで、何かを飲み込んだ気配がした。
でも、理由を聞く必要はないと、私の体が先に分かっていた。今、聞けば、痛みが増えるだけだ。
「とにかく、今から行くから」
そう言って、電話を切る。
私は立ったまま、しばらく動けないでいた。キッチンの時計が、何も起きていない顔で、時間を落としていく。
震える手で、着替えに手を伸ばす。ボタンを一つ、掛け違えた。それだけのことが、世界の終わりみたいに絶望的。
私は一度すべてのボタンを外し、祈るような手つきで、もう一度自分を縫い合わせる。
財布の中身は、笑えるくらいに軽い。紙幣は1枚。でも、電車賃だけは、ある。
足りる。
でも、その先は、わからない……
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私は今、ATLASの本社ビルの前に立っている。
深く息を吸うと、胸の奥がざわついた。この先で、娘の人生がどう転ぶのか。まだ、知らない。
受付に立つと、白い制服の女性が、マニュアルの角をなぞったみたいな笑顔を向けてきた。
「ご用件をお伺いします」
声にも、表情にも、温度がない。ゼロだ。
「田島と申します」
私が名乗ると、彼女はエプロンの紐を結び直したみたいに、背筋をわずかに正した。
奥から男が現れる。マネキンみたいに整った顔。視線は冷たく、笑みはない。
それだけで、ここが日常の場所じゃないと分かった。
「こちらへ」
人の喉を通しているだけの、機械みたいな声で、会議室へ案内される。
私は、一歩ずつ進む。手のひらに汗が滲んでいる。握ったバッグが、少し重い。
通された会議室は、思っていたよりも広かった。
机と椅子がきれいに並び、余計なものが何一つない。ここでは、誰かの都合や感情が入り込む余地はなさそうだった。
冷房の風が、足元から這い上がってくる。夏なのに、氷水をひっくり返したみたいな冷え方。
私は、美咲を探した。端の席に、肩をすぼめて座っている。視線は机の上に落ちたまま、私と目が合わない。
……どうして、こっちを見ないの。美咲?
そう思った瞬間、心臓の鼓動が、不協和音を奏で始める。
資料が配られ、説明が始まった。
数字。
表。
専門用語。
言葉は丁寧なのに、内容が頭に入ってこない。説明と一緒に、数字がいくつも読み上げられる。
なのに、視線が自然と逸れてしまう。知らない国のニュースを聞いているようで、肝心な部分だけが、うまくぼかされている気がした。
胸の奥に、薄い埃が積もるみたいな違和感が残る。きれいに並びすぎた数字を見ると、昔から、理由もなく落ち着かなくなる。
誰も、美咲の顔を見ていない。確認するのは、紙と数字だけ。
私は、何度か口を開きかけた。でも、そのたびに、話は先へ進んでしまう。
「証拠は揃っています」
「内部調査は完了しています」
淡々とした声。決められた文章を、ただ読み上げているだけ。もう印刷が終わって、配り終えた回覧板を、今さら書き直せないみたいに。
……待って。
そんなふうに、もう決まったみたいに進む話なの?
胸の奥が、ゆっくりと熱を帯びていく。腹が立つというより、順序が違う、と体が言っていた。
美咲は、こんな形で説明される人間じゃない。私は、そう理解しているつもりだった。
「何か……誤解があるんじゃないでしょうか」
声にすると、思ったより弱かった。でも、このまま消えるわけにはいかないのだ。
向かいに並ぶ担当者たちは、一瞬だけ視線を上げ、すぐにまた資料へ戻る。
ああいう仕草は、結論が決まっているときに出る。説明はしているけれど、受け取る気は最初からない。
結局、その日のうちに、結論が変わることはなかった。
美咲は、会社を失った。肩書も、席も、まとめて。全部。
帰りの電車に揺られながら、私は、窓に映る美咲を見た。
ぼんやりしている。泣いてはいない。現実を、まだ飲み込めていない顔。
私は、何かを言おうとして、やめた。今はまだ、言葉を置く場所が見つからない。
家に着くと、すぐにインターホンが鳴った。
警察だと名乗る声。低く均一で、こちらの都合を一切考えない音だった。
いきなり家宅捜索が始まる。
引き出しを開け、書類を広げ、通帳を一つずつ確かめていく。探しているというより、手順をなぞっているだけに見えた。
私は、ただ見ていた。きっと、何も出ない。その確信だけは、揺がなかった。
実際、何も出なかった。それでも、部屋の空気は変わらない。むしろ、重く沈んでいく。潔白は証明できても、疑われた事実までは消せないらしい。
何なの、これ……。どうして?
私は、説明が足りないだけだと思っている。けれど現実は、その確認を待ってくれない。
その日の夕方。私は、キッチンで鍋に火をかけていた。
美咲が、ぐつぐつと煮える鍋を見つめたまま、ぽつりと口を開く。
「私……生きてても、迷惑だよね……」
こぼれた言葉が、湯気に混じって落ちた。すぐには消えない。キッチン全体に、薄く残る。
私は、美咲の目を見据える。真っ白な地図の上で、迷子になった瞳が震えていた。
「……私が、いなければ…」
最後まで言わせてはいけないと、黙って距離を詰めた。
そして私は、彼女を力の限りに抱きしめる。考えるより先に、腕が動いた。骨が当たる感触がしても、緩める気はない。
この子は、ここにいる。
生きている。
それだけで、もう十分だ。
「あなたが生まれた日から、お母さんの人生に、迷惑なんて一秒もない」
私の声は低く、小さいけれど、全く揺れてはいなかった。
美咲の肩が、小さく震える。その震えを、逃がさない。
私は、絶対に離さない。今も、これからも。ここで幕を引くなんて、万が一にも、万分の一にもあり得ない。
美咲をベッドに横たえた後で、炊飯器のスイッチを押す。いつもの音なのに、遠くで鳴った気がした。
そして、仏壇の前に座り、手を合わせる。線香の火が、途中でふっと消えた。胸の奥に、黒い重さが落ちる。
「……ごめんね。今日は、何も守れなかった」
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田島和枝。四十五歳。給食センターでパートの仕事をしている。
自分は、どこにでもいる普通の主婦だと思っていた。少なくとも、昨日までは。
買い物から戻ると、ポストの前に回覧板が落ちていた。風に飛ばされたわけじゃない。誰かが、雑に入れて、そのままにした感じがあった。
回覧板は、いつも通り順番に回された跡がある。表紙の角が少し折れていて、見慣れた字で名前が並んでいる。
それを見て、少しだけ安心してしまった自分がいる。
ただ、近所の奥様たちは、玄関先で立ち話をしなくなった。
その代わり、カーテン越しに人の気配を感じることが増えた。皆、外では会わずに、家の中でスマホを見ているらしい。
「田島さんの娘さんが横領したんですって」
「会社のお金に手を出したって……」
「あんなに真面目な子が、何で」
直接言われたわけじゃない。でも、そういう声が、このあたりに漂っているのは分かった。
SNSを開くと、そこも同じだった。匿名のアカウントが、美咲の写真を勝手に使い、まるで確定事項みたいに話を進めている。
コメント欄には、正しそうな言葉が並ぶ。でも、誰一人、事情を知ろうとはしていない。
私は、スマホを見るのをやめた。それ以上見ても、何かが変わる気はしなかったから。
昼過ぎ、給食センターから電話が入る。いつもの番号だった。
「しばらく、休んでください」
丁寧な声だった。理由も、説明もなかった。聞き返すことはできたと思う。でも、しなかった。
たぶん、答えはもう分かっていたから。知らないふりをするほど、鈍くはなれない。
夕方、チャイムが鳴った。
美咲が玄関へ出ると、そこに立っていたのは、北條由紀だった。ATLASの同期入社で、今も連絡をくれている、数少ない一人。
「……これ」
短い言葉と一緒に、由紀は小さな封筒を差し出した。中に入っていたのは、一本のUSBメモリ。
「私が保存してたやつ。美咲が、普段使ってたデータ」
それ以上、説明はなかった。由紀は長居をせず、軽く頭を下げて帰っていく。
美咲は、そのUSBを握ったまま、しばらく玄関に立っていた。家の中は静かだった。私は、キッチンで夕飯の準備をしている。
「……お母さん」
彼女は、USBをテーブルの上に置いた。理由も、経緯も、何も言わない。
それで伝わると思っているわけじゃない。ただ、この人なら、見れば分かるかもしれない。そんな、曖昧な期待だけが顔に書いてある。
私は、ちらりとUSBを見る。それから手を洗い、布巾で拭いて、椅子に座った。何も聞かないし、もちろん責めることもない。
ノートパソコンを開き、慣れた手つきで、USBを差し込む。画面に表示されたのは、数字の表だった。美咲が担当していた案件のデータ。
私は、淡々と目を通す。スクロールの速度は一定。速くも、遅くもない。何か見つけようとはしない。探す、というより、確認しているだけだった。
……それでも。
途中で、手が止まった。
理由はない。説明できる言葉も浮かばない。ただ、私には分かってしまう。この数字は、どこかがおかしい、と。
合計は合っている。帳尻も合っている。一見すれば、問題はない。それでも、並び方が違う。順番が、ほんの少しだけ、歪んでいる。
私は、何も言わないまま、メモ帳を引き寄せた。画面を見ながら、数字を書き写していく。
整理する。並べ直す。ただ、それだけ。修正もしない。結論も出さない。
美咲は、背後でその様子を見ていた。母は何も言わない。顔色も変わらない。でも、手が止まらない。淡々と、粛々と、数字だけを追っている。
その姿を見て、美咲の胸に、小さなものが灯った。希望、と呼ぶには弱い。確信には、ほど遠い。
それでも、この人は、私を疑っていない。そう感じられるだけで、少しだけ息ができた。
私は、メモ帳を閉じてUSBを抜き、パソコンの電源を落とす。
「……美咲。疲れたでしょう?」
それだけ言って、立ち上がった。大丈夫だとも、安心しろとも言わない。説明もしない。
私は、美咲の前に立ち、そっと抱きしめた。強くはないけど、でも離さない。
「お母さんはね……」
一瞬だけ、言葉を探す。
「いつだって美咲の隣にいるよ」
短い、それだけの言葉だった。
美咲の肩が、かすかに震えた。私は、その震えを、黙って受け止める。
何も解決していない。何も証明されていない。
それでも――母は、ここにいる。
それだけは、動かないのよ。何があっても。
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外では雨の音が、重く、粘りつくように夜を支配していた。
玄関のチャイムが鳴った瞬間、私の心臓が嫌な予感で跳ね上がった。
インターホン画面の向こうに立つ影は、雨に濡れた路面に、長く、不吉に伸びている。
人の形をしているのに、人の訪問ではない。そんな違和感だけが、鉛のように溜まっていく。
「……ああ、そういう人か」
私の声は、自分でも驚くほど軽かった。怖くないわけじゃない。ただ、恐怖が声に追いつく前に、理解のほうが先に来ただけ。
背後で、美咲が小さく息を吸う。その呼吸が、やけに大きく聞こえた。
「美咲……」
振り向かないまま、名前を呼んだ。声を低く抑えて、叱る時より、ずっと静かに。
「奥に行って。何があっても、出てこないで」
私は、理由は言わなかった。言えば、余計に怖がるから。
美咲は、一瞬だけ言葉を探すように口を開きかけ、それから何も言わずに頷いた。私の背中に視線を残したまま、廊下の暗がりへ消えていく。
……それでいい。
私は、ドアの前で深呼吸を繰り返した。指先が震え、制御が効かない。
それでも、心の奥に、しっかりと硬いものを打ち込む。鉄の楔を、抜けないように、深く。
――触れさせない。
――この家にも、この子にも。
鍵を外した瞬間、部屋に流れ込んできたのは、雨の冷たさと、湿った革の匂いだった。
生活とは違う種類の匂い。人の家に上がる前に、踏みつけることを前提にした気配がする。
雨に濡れた男が、二人いた。
その視線は、私を見ているようで見ていない。人間ではなく、物を見る目だ。邪魔なものをどかす時の、あの目。
「やあ、田島さん」
呼ばれた途端、胃の奥がきゅっと縮む。名前を知っている、という事実だけで、人はここまで不快になれる。
「娘さん、出してもらおうか」
それは、低く濁った、でも結論だけを突きつけてくる声だった。初めから、説明する気も、交渉する気もないみたいに。
私が返事をする前に、男たちは土足のまま踏み込んできた。床が、ミシミシときしむ。
そして、愛着のある家具が、次々と意味もなく蹴られる。
私が大事にしてきた暮らしは、思っていた以上に軽かった。男たちの乱暴な手つきひとつで、みっともなく床にばら撒かれていく。
主婦の節約も工夫も誇りも、彼らからすれば、探し物の邪魔になるゴミと大差ないらしい。
静かだった生活が、音を立てて崩れていく。それは破壊というより、無視に近かった。
「ここにいるのは……私だけです」
私は、声が震えるのを、無理やり舌で押さえつける。
一歩、前に出る。身体が勝手にそうした。
「フッ、隠しても無駄だ」
男が鼻で笑い、獲物を探す獣の視線が、家の中をなぞる。
「盗んだ金は返す。それが筋だろ?」
筋。
その言葉が、喉の奥に引っかかる。何度も耳にした響きなのに、少なくとも今は、当てはまる場所がない。
その時、二階から、ほんのわずかな物音がした。男たちには気づかれないほどの、小さな気配だ。
……美咲。
次の瞬間、遅れて心臓が跳ね上がった。男の気配が、はっきりと変わる。その苛立ちが、空気を重く揺らした。
「おい」
視線の先にあるのは、部屋の隅に置かれた古い仏壇。
一瞬。けれど、引き伸ばされたみたいに長い沈黙。
直後、凄まじい音がして、仏壇が乱暴に揺さぶられた。
「やめっ……!」
叫びは、抵抗する間もなく、空気の中に消えていった。
男はためらいもなく仏壇に蹴りを叩き込み、乾いた音とともに木屑が舞い、祈りを置いていた場所が無惨に崩れ落ちた。
その拍子に、何よりも大切にしてきた夫の遺影が床へ落ち、砕けたガラスの音が、心臓の奥を直接えぐる。
「どこだ、娘は!」
怒声が部屋を打ち、残った空気まで震わせた。
私は唇を強く噛み締めた。
この場で何が起きても、口を割るつもりはない。たとえ刺し違えても、娘をこの獣の前に差し出すことだけはしない。
男の足が、床に落ちた遺影へと近づいていく。泥に汚れた靴底が、私の最愛の人の記憶を、無慈悲に踏みにじろうとしている。
そう分かった瞬間、考えるより先に体が動いた。
「やめて……っ!」
喉が焼けるほど叫びながら、震える足に無理やり力を込めて、男の前へ身を投げ出す。
邪魔者を見るような視線が突き刺さり、拳がゆっくりと振り上げられる。
それでも、私は退かなかった。血に汚れた手も、泥と破片にまみれた服も気にせず、ただ男から目を逸らさない。
「……通さない」
私が絞り出した声は、氷みたいに冷えている。恐怖も絶望も、その奥で、母としての怒りに押し固められていた。
次の瞬間、男の拳が私の頬に叩きつけられる。衝撃で視界が歪み、遅れて口の中に鉄の味が広がった。
それでも、私は崩れなかった。倒れなかった。
その場に立ったまま、睨み返す。その目に宿った執念と殺気に、男は一瞬だけ息を詰まらせ、視線を泳がせる。
「……チッ。また来るわ」
吐き捨てるように言い残し、男たちは苛立った足取りで背を向けた。
足元には、無残に砕けた仏壇の破片。踏みにじられた、家族の記憶。
男たちは去り、静けさが戻る。窓を叩く雨音だけが、虚しく部屋に響いている。
床に散らばった木片を踏みしめながら、私は二階へ駆け上がった。足の裏に刺さる痛みの感触すら、今は遠い。
「おかあ……さん……」
美咲の声は、泣く一歩手前で、細く震えていた。その瞬間、胸の奥に張りつめていたものが、一気に崩れる。
私は、細く小さな体を、壊れてしまいそうなほど強く抱きしめた。血の生温かさも、泥の冷たさも、腕に伝わるすべてが、どうでもよくなる。
ただ、この子がここにいる。それだけで。
「大丈夫……もう、大丈夫だから」
自分に言い聞かせるみたいに、何度も繰り返す。
けれど、私の胸の奥では、全く別の感情が、静かに、でも確かに湧き始めていた。
男たちの嘲る目。拳の重さ。弱い者が踏みにじられるのが当然みたいな、この世界の理屈。
それらが、ゆっくりと沈殿して、消えない傷として刻まれていくのが分かる。
美咲を抱く腕が震えていた。私自身の血の温もりと、外に残った雨の冷たさが混じり合って、逃げ場を失っている。
……ここは、まだ終わりじゃない。
地獄の入口に、立たされたばかりだ。
心の中で、声にならない叫びが膨らむ。
「ねえ、あなた。この世の仁義は、どこに消えたのよ」
その言葉が、私の口から出ることはなかった。代わりに、娘を抱く腕に、さらに力を込めた。
もう、離さない。何があっても。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
雨は、夜明けまで止まなかった。
床に散らばった仏壇の木屑は片づけきれず、濡れた靴跡もそのままに、我が家は昨夜の暴力を記憶し続けている。
私は美咲を眠らせたあと、一人でテーブルに向かい、ノートPCを開いた。指先がまだ、わずかに震えている。
画面に映るのは、あのUSBデータだった。何度も見た数字。
けれど、今夜は何かが違う。視線が、自然と同じ箇所で止まる。整いすぎた列。美咲の名前が置かれた場所だけが、不自然なほど静かだ。
私は息を整え、何も考えないようにして、数字を追った。怒りも、恐怖も、飲み込む。ただ、事実だけを見る。
胸の奥で、何かがゆっくりと形を結び始める。確信、と呼ぶには早い。
それでも昨夜の暴力が、ただの偶然や不運ではないことだけは、はっきり分かった。
二階から、寝返りを打つ気配がした。私は画面を閉じ、立ち上がる。母親の役目は、まだ終わっていない。
その時だった。
玄関のチャイムの音が、家の中に突き刺さる。昨夜よりも強く、遠慮のない押し方。胸の奥が、ひやりと冷える。
私は考える前に、二階へと体を動かしていた。
「美咲。鍵をかけて。出てこないで」
声は低く、震えていなかった。美咲は何も聞き返さず、ただ頷いた。
二階のトイレに鍵が掛かる音を確認した直後、玄関の向こうから怒声が聞こえる。
「今日は話が早ぇぞ」
男の汚い声が、近所中に響き渡る。
「娘を連れてくから」
その一言が、平和な街の沈黙を、逃げ場のない地獄へと変質させた。
でも、私は一歩も退くつもりはない。昨夜刻まれた傷が、まだ熱を持っている。その熱が、胸の奥で静かに燃え続けている。
ここから先は、もう引き返せない。私はそう理解したまま、ただ玄関に立ち続けていた。
玄関のドアが、昨日よりも強く蹴り破られる。雨粒が吹き込む中、男たちは躊躇なく家の中へ押し入ってきた。
すぐそばに、昨日の仏壇の破片が散らばっている。床の木屑が、昨日の恐怖を覚えているかのように足元でざらついた。
「おい、娘を出せ」
言葉に感情の起伏はない。ただ、暴力と恐怖の色を帯びて、部屋を満たしていくだけ。
美咲の小さな声が、二階のトイレから漏れる。震えている。逃げる場所を見つけたけれど、声まで押し込めることはできない。
私は足を踏みしめる。体の芯が冷たくなる。昨夜の恐怖が、まだ脳裏に残っている。そして、その恐怖は今、怒りに変わりかけていた。
男たちは、家具を片っ端から蹴り倒し、皿や花瓶を粉々に砕いていく。その音は、怒号よりも深く突き刺さる。雨の音が混ざり、世界全体が歪む。
「……やめろ!!!」
思わず絞り出した私の声が、衝撃と破片の向こうでかき消された。
その時―――
玄関に、一人の男が立った。
一歩を踏み込む前から、空気が震える。周囲の男たちとは違う。生ぬるい威圧ではなく、静かに沈み込む圧。格が違う。
雨に濡れた黒い革靴は、音を立てずに床に触れる。ピンと張った肩。スーツの端まで整えられ、濡れた髪が額にかかるたびに、かすかに光を反射した。
男は、崩れた仏壇を見た。そして、床に伏した遺影に視線を落として、ゆっくりと息を吐く。空気を押し返すような、深くて長い吐息。
何かを思い出すかのように、その胸の動きが静かに揺れている。
男は、しゃがみ込んでから、無残に散らばった仏壇の破片を、指でなぞった。それから、遺影をじっと見つめ、指先で愛でるように触れた。
そして、ゆっくりと目線を上げて、私を見据えた。視線は鋭く、それでいて言葉にならない問いかけのように重い。
腕の角度、足の位置、呼吸の間。全てが周りに、そこを退けと圧している。
周囲の男たちは、無言で一歩、また一歩と後退する。動きが鈍り、緊張で手が震える者もいた。音もなく、彼の一歩だけで支配される。
「姐さん……」
言葉は短く、低く、静かに落ちた。でも、そのたった一言が、この部屋の重力を決定づけた。
男の一瞥だけで、この理不尽な破壊行為を率いた人物が後ずさった。空気を裂くように、男は無言のまま拳を振り下ろす。
音もなく、けれど確実に、権力の序列が叩き込まれる。その場にいた全員の背筋が凍る。
そして、男は静かに、私の目の前で両膝をついた。その姿に、部屋の空気は重く沈む。
土下座――それは、私に向けられた謝罪であり、敬意でもあった。
好き放題に暴れていた獣たちが、同じように膝を折る。逃げ場のない圧が、すべてを押さえつけた。
「……申し訳ありません」
その言葉だけで、状況の全てが語られる。説明はない。理由も過去もない。男の態度だけが、ここで起きた出来事の正体を示していた。
男は、ケジメとして、依頼主のATLASへの同行を申し出た。
でも私は、首を横に振った。低く、静かに、でも断固として。
「……来ないで。一人で行く」
私の手には、USBメモリが一つ。鍵のように握りしめ、背筋を伸ばす。その姿に、部屋中の空気が微かに震えた気がした。
ふと気づくと、美咲が、言葉にならない不安を抱えて立ち尽くしていた。
私は、彼女に何も説明はしない。ただ腕に力を込め、涙を拭う間も惜しむように、この胸に抱きしめて言った。
「お母さん、筋を通してくる。……待ってて」
言葉は短く、温度を抑えた。でも、それで十分だった。美咲の目に映る母は、もう、普通の主婦ではない。
背筋を伸ばし、ノートPCを手に、私は家を出た。雨に濡れた道路も、崩れた仏壇も、少しずつ遠くなる。
一列に居並んだ男たちが、石像のように深く頭を垂れて見送っている。
私の背中から噴き出す漆黒の焔は、白み始めた空を焦がす昇龍となって、夜明けを焼き尽くしていく。
その瞳からは、主婦・田島和枝の光は、完全に消えていた。
そこにいたのは、かつて全国の裏組織・暴力団の資金を、たった一人で動かした闇のマネーフィクサー
――帳場の神、新城和枝だった。
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眩しい朝の光が、巨大なATLASビルのガラスに反射して、街を淡く照らしている。
私は、ノートPCを片手に、静かにビルに足を踏み入れた。
受付の女性も、警備員も、初めは普通に挨拶を返す。でも、その視線がほんの少しだけ、私を避けるように動いている。
視界の端に違和感を感じる。人の動きが、空間が、微かにずれている。
私は、丁寧に名乗った。
「田島和枝です。娘・美咲の件で、相談に参りました」
声は低く、落ち着いている。しかし、その言葉の裏に潜む圧が、受付嬢の背筋を一瞬で、凍らせた。
無機質な廊下の照明が、私の影を長く伸ばす。
人々が道を空ける。
でも、これは殺気じゃない。無言の圧が、部屋の空気を歪めているだけ。
私は、ノートPCを取り出す。USBを慎重に挿す。そして、椅子に座り、静かに画面を開いた。
モニターには、美咲が関わった帳簿の数字が映る。赤い印、数字の歪み、矛盾。
私は手を止め、息をひそめ、指先で軽くスクロールする。
「……数字が、泣いてる」
心の中で呟く。目に見えない声が、帳簿の中で叫んでいた。
これだけで、何が正しいか、何が歪んでいるか、私にはすべて分かる。
数分後、役員室の扉が開く。ぞろぞろと役員連中が入って来た。
最後に入ってきたのは、社長だった。長身で威圧的。デスクに手をつき、眉間に皺を寄せる。
「田島さん、話は聞いている。無駄だよ、不正社員の親が何を言っても」
口にする言葉は冷たく、侮辱の刃を含んでいた。だが、私は微動だにせず、椅子に深く腰をかける。
低姿勢。普通の主婦の顔。だが、その目だけが、静かに燃えていた。
社長が鼻で笑い、資料を投げつけるように置いた。
「数字の扱い方もわからん主婦が。いったい何が言いたいんだ?」
私は、初めて声の温度を変えた。でも、怒鳴らない。決して威圧しない。ただ、低く、静かに言葉を紡ぐ。
「……あんた、帳簿、読めないでしょ?」
社長の肩が、微かに震えた。部屋の空気が、一瞬で張り詰める。
私は目を逸らさず、数字を指で追った。淡々と、でも確実に、会社の内部構造を紐解いていく。
裏金、スケープゴート、権限の不正移譲。すでに警察に通報済みであることも、頭の片隅で確認していた。
その時、部屋の扉が静かに開く。
「……あの、すみません」
振り返ると、美咲の同期、北條由紀が立っていた。
手には資料があり、彼女の目はわずかに震えていた。だが、その資料もまた、私の掌の中で、静かに決定的な力を持つことになる。
由紀の手元の資料が、デスクに滑り込む。私は一瞥しただけで、内容を理解した。
社長も、役員も、言葉を失っている。数字が物語る真実に、逆らえる者はいないのだ。
私は淡々と、そして、確実に言葉を選ぶ。
「今からでも、隠ぺいは可能でしょう。ですが、内部で流れている金の全貌は、すでに別サーバーで確保済みです」
社長の顔が、瞬時に青ざめた。権力の盾も、帳簿の前では、紙切れに等しい。数字だけが語る世界。
終わりの旗は、もう振られていた。数多の火事場を踏んだ私の経験が、これ以上の暴走を警告している。
だが、砕かれた日常と美咲の震える肩を想うと、怒りの焔はもう誰にも止められなかった。
私は、ゆっくりと立ち上がる。
「数字を舐めんなよ、こら。あんたらが弄んでいる一桁には、誰かの血の滲む人生が張り付いてんだ。わかってんのか!!!」
社長が、震えあがって跳ねた。そして、そのまま静かに膝を折り、冷たい床に崩れ落ちた。役員たちも、沈黙のまま頭を下げる。
静かな、しかし決定的な裁き。かつての帳場の神が、今、巨大企業の不正を解体した。
隣で聞いていた由紀は、驚きのあまり目を丸くして、口をあんぐりと開けたまま固まっている。
窓の向こうから、遠くたなびくパトカーのサイレンが、彼らのレクイエムのように、冷たい空気に溶け込んでいった。
私は目を閉じて、心の中で伝える。
「仁義は通したよ、あなた……」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その日の夕方。美咲と二人で、質素な食卓を囲む。
まだ家は片付いておらず、家具の破片が転がっている。体中の傷が、鈍く痛んだ気がしたが、そんなことはどうでもよかった。
キッチンの小さな窓から、淡い夕暮れの光が優しく差し込んでいる。
美咲の笑い声が、小さく弾んだ。
「ふふっ…。ねえ、お母さんって、本当は何者なの?やくざでしょ」
私は、かなり性格が悪そうに微笑む。
「あははっ、違う違う。ただの、あなたのお母さんよ!」
食卓の向こうでは、真新しいピカピカの遺影が、私たちを見つめていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
人生の底に落ちた人間は、弱く見えるかもしれません。
けれど本当に強いのは、何も誇れなくなったあとでも、守るものを手放さない人だと思っています。
そんな強さを、静かに描きたくて書いた物語です。




