後日談 道化の王、泥濘(ぬかるみ)を這う
凍てつくような十二月の夜風が、作業着の隙間から容赦なく入り込んでくる。
手にかじかんだ感覚と、警備灯(誘導灯)の重みだけが、今の俺が生きているという唯一の実感だった。
「はい、止まってくださーい! 工事車両入ります!」
掠れた声を張り上げ、俺は赤い棒を振る。
目の前を、巨大なダンプカーが土埃を上げて通り過ぎていく。
排気ガスの臭いと、舞い上がる砂塵。
俺は咳き込みながら、顔をしかめた。
ここは大通りのガス管交換工事の現場だ。
クリスマスシーズンのイルミネーションが輝く表通りから一本入っただけで、そこには薄汚れた「裏側」の世界が広がっている。
今の俺、神崎翔吾にふさわしい場所だ。
「おい神崎! ぼさっとしてんじゃねえぞ! 次、一般車通すから誘導しろ!」
現場監督の怒鳴り声が飛んでくる。
あいつはまだ二十代半ばの若造だ。かつての俺なら、部下として顎で使っていただろう年齢だ。
だが今は、彼が「上」で、俺は「下」だ。
絶対的なヒエラルキーがそこにはある。
「……はい、すいません」
俺は頭を下げ、卑屈な笑みを浮かべた。
プライド? そんなものは五年前にドブに捨てた。
生きていくために、俺は泥水をすすることを選んだのだ。
作業が終わり、休憩時間になった。
俺はパイロンの陰に座り込み、コンビニで買った冷え切ったおにぎりを齧る。
具は一番安いツナマヨだ。
かつて、赤坂の高級料亭や、銀座の寿司屋で経費を使いまくっていた俺の舌は、今や添加物だらけの飯にすっかり慣らされてしまった。
ふと、ポケットからスマートフォンを取り出す。
画面には無数のヒビが入っている。買い換える金なんてない。
バッテリーの持ちも悪く、常にモバイルバッテリーを繋いでいないとすぐに落ちるポンコツだ。
指先で画面をスワイプし、ニュースアプリを開く。
世間はボーナス商戦だの、年末年始の休暇だので浮かれている。
そんな煌びやかな記事を指で弾いていると、一つのトピックが目に留まった。
『IT大手サイバーネクスト、過去最高益を更新。若き開発本部長が語る未来戦略』
そのサムネイル画像を見た瞬間、喉の奥に冷たいものが詰まったような感覚に襲われた。
タップして記事を開く。
そこに写っていたのは、整った顔立ちをした三十歳手前の男。
仕立ての良いダークスーツを着こなし、理知的な瞳でカメラを見据えている。
その隣には、彼を支えるように微笑む美しい女性の姿もあった。
『藍月 湊』。
その名前を見るたびに、俺の古傷が疼く。
五年前、俺を地獄の底へと突き落とした張本人。
当時大学生だったあのガキは、今や日本を代表するIT企業の幹部にまで上り詰めていた。
記事によれば、彼は社内最年少で本部長に昇進し、業界の注目を集める若手リーダーとして活躍しているらしい。
私生活でも、同じ会社で出会った女性と結婚し、先月には第一子が生まれたと書いてある。
「……ふざけんなよ」
俺は低く呻いた。
握りしめたおにぎりが潰れ、海苔が破れる。
あいつは全てを手に入れた。
地位も、名誉も、金も、幸せな家庭も。
一方の俺はどうだ?
五年前、三十七歳だった俺は、今や四十二歳。
中肉中背だった体型は、安酒と炭水化物ばかりの生活でだらしなく太り、顔はむくみ、髪には白いものが混じっている。
鏡を見るのが怖いくらい、俺は醜く老け込んでいた。
「どうしてこうなった……」
何度繰り返したかわからない自問自答が、また頭の中を駆け巡る。
あの日、あの一通のメールさえなければ。
俺の火遊びが、あんな完璧な形で暴かれなければ。
俺は今頃、広告代理店の部長あたりに出世して、部下を従え、高級車を乗り回していたはずだ。
妻の玲子の実家の資産をバックに、安泰な人生を送っていたはずなんだ。
「神崎さーん、そろそろ再開しますよー」
若い警備員の声に、俺は現実に引き戻された。
スマホをポケットにねじ込み、重い腰を上げる。
寒さが骨身に染みる。
俺の人生の冬は、いつまで続くのだろうか。
***
夜勤明けの朝。
始発電車に揺られながら、俺はアパートへと帰る。
板橋区の外れにある、築四十年の木造アパート。
六畳一間の部屋はカビ臭く、隣の住人の生活音が筒抜けだ。
かつて世田谷のタワーマンションに住んでいたことが、まるで前世の記憶のように思える。
部屋に入り、コンビニの袋から発泡酒を取り出す。
朝から酒を飲むのが、俺の唯一の習慣であり、逃避だった。
プシュッという音と共に缶を開け、喉に流し込む。
ぬるい液体が胃に落ちると、少しだけ惨めさが和らぐ気がした。
テーブルの上には、督促状の束が散乱している。
消費者金融からの催促、未払いの税金、そして玲子への慰謝料の残債。
五年前、離婚に伴い五百万円の慰謝料を請求された。
さらに会社への不正経費の返還。
貯金などあるはずもなく、借金をしてなんとか一部を支払ったが、利息が雪だるま式に膨らみ、俺の首を絞め続けている。
自己破産しようにも、ギャンブルや浪費癖が原因の借金ではない(と自分では思っているが、実際には見栄のための散財も多かった)ため、手続きは難航した。
何より、玲子の実家の顧問弁護士が徹底的にマークしており、俺が少しでも金を持てばすぐに差し押さえにかかってくるのだ。
「一生かけて償わせる」。
それが、玲子とその父親からの宣告だった。
「……クソッ、どいつもこいつも」
空になった缶を握りつぶし、部屋の隅に投げ捨てる。
俺は布団に潜り込んだ。
眠っている間だけは、この最低な現実を忘れられる。
夢を見た。
五年前の夢だ。
俺は高級スーツを着て、プレゼンをしている。
クライアントの重役たちが、俺の話に頷き、賞賛の拍手を送ってくる。
「さすが神崎さんだ」「次も頼みますよ」
そして夜は、西麻布の会員制バーへ。
隣には若い女がいる。琴羽だ。
「翔吾くんすごーい!」「カッコいい!」
彼女の甘い声が、俺の自尊心をくすぐる。
俺は王様だった。
この世界の全てが、俺のために回っていると錯覚していた。
だが、夢は唐突に暗転する。
玲子の冷たい目。
社長の怒号。
湊の冷徹な声。
『さようなら、他人さん』
『お前はただのバグだ』
「うわぁぁぁっ!」
俺は叫び声を上げて飛び起きた。
全身が汗でびっしょり濡れている。
心臓が早鐘を打っている。
薄暗い部屋。染みのついた天井。
そこにあるのは、栄光の残滓すらない、ただの貧困と孤独だけだ。
「……ハァ、ハァ……」
震える手で水を飲み、荒い呼吸を整える。
枕元の時計を見ると、午後三時を回っていた。
今日もまた、無為な一日が過ぎていく。
腹が減った。
何か食べるものはないかと冷蔵庫を開けるが、中身は空っぽだ。
仕方なく、財布を持って外に出ることにした。
近くのスーパーで、半額の弁当が出る時間帯だ。
アパートを出て、商店街を歩く。
平日の昼下がり、主婦や老人たちが行き交う。
俺のような、昼間からヨレヨレの服を着て歩いている男に向けられる視線は、決して温かいものではない。
「関わりたくない」という空気が肌に刺さる。
スーパーに向かう途中、ふと駅前の不動産屋の前で足が止まった。
ガラス張りのショーウィンドウに貼られた物件情報。
『新築タワーマンション、最上階、家賃三十五万円』。
かつて俺が住んでいた部屋よりも、少し狭いくらいか。
今の俺の月収の二倍以上の家賃だ。
こんな部屋に住める人間が、この世には確かに存在する。
そして俺は、もう二度とあっち側には行けないのだという事実を、まざまざと見せつけられる。
その時、不動産屋から一組の男女が出てきた。
身なりの良い中年男性と、上品な着物を着た女性。
楽しそうに会話をしている。
「……あ」
俺は息を呑んだ。
女性の顔に見覚えがあったからだ。
神崎玲子。……いや、西園寺玲子。
俺の元妻だ。
五年という歳月が流れているはずなのに、彼女は全く老けていなかった。
むしろ、以前よりも肌艶が良く、内側から輝くような美しさを纏っている。
髪は艶やかに結い上げられ、着物の着こなしも堂に入っている。
隣にいる男性は、俺が見たこともない男だ。
穏やかそうで、知的で、そして明らかに「育ちが良い」雰囲気を漂わせている。
「玲子さん、この物件なら教室も広げられそうですね」
「ええ、日当たりもいいですし。生徒さんたちも喜びそう」
二人は微笑み合いながら、俺の目の前を通り過ぎようとしている。
俺は反射的に電柱の陰に隠れた。
惨めだった。
あまりにも惨めすぎて、合わせる顔がなかった。
今の俺は、無精髭を生やし、毛玉だらけのスウェットを着て、サンダル履きだ。
元夫だと名乗ることすら憚られるほどの格差。
二人は俺に気づくことなく、高級車――黒塗りのセダン――に乗り込んでいった。
運転手がドアを開け、恭しく頭を下げる。
車が走り去っていくのを、俺はただ呆然と見送ることしかできなかった。
彼女は再婚したのだろうか。
あるいは、ビジネスパートナーか。
どちらにせよ、彼女は俺という重荷を下ろし、自分の人生を謳歌している。
俺がいない方が、彼女は幸せだったのだ。
その事実は、どんな罵倒よりも深く、俺の心臓を抉った。
「……ははっ」
乾いた笑いが漏れた。
俺は何だったんだ。
俺は彼女を利用しているつもりだった。
金づるだと思っていた。
だが実際には、俺の方が彼女に寄生し、彼女の養分を吸って生きていただけの害虫だった。
宿主に見捨てられた寄生虫は、干からびて死ぬしかない。
それが自然の摂理だ。
スーパーで半額の海苔弁当を買い、トボトボと帰路につく。
商店街の雑踏の中に、ふと見覚えのある後ろ姿があった。
派手なピンク色の髪。露出の多い服。
背中は丸まり、足取りは覚束ない。
「……琴羽?」
思わず声が出た。
その女が振り返る。
厚塗りのファンデーションでも隠しきれない肌荒れ。
目の下の隈。
痩せこけた頬。
かつての、弾けるような若さと可愛らしさは跡形もない。
まるで老婆のような形相をした、二十代半ばの女。
間違いなく、桜井琴羽だった。
彼女と目が合った。
一瞬、彼女の目に驚きの色が浮かんだ。
だが、次の瞬間、彼女はフッと目を逸らし、逃げるように早足で去っていった。
声をかけることもしなかった。
俺も追わなかった。
彼女もまた、地獄を這っているのだ。
風の噂では、風俗店を転々とし、今は場末のスナックか何かで働いていると聞いたことがある。
あるいは、もっと悪い状況かもしれない。
俺たちがすれ違ったあの一瞬の間に流れたのは、かつての共犯者としての連帯感などではない。
「お前のせいでこうなった」という憎しみと、「お互いに落ちるところまで落ちたな」という軽蔑だけだった。
俺たちは二人で、底なし沼に沈んだのだ。
湊という男を裏切り、玲子という女を侮辱した報いとして。
アパートに戻り、冷たい弁当を食べる。
味がしない。
テレビをつけると、ワイドショーで芸能人の不倫ニュースが流れていた。
コメンテーターたちが正義の味方気取りで不倫した側を叩いている。
「自業自得ですね」「家族への裏切りは許されません」
その言葉の一つ一つが、俺に向けられているようで、俺はテレビを消した。
部屋の隅にある鏡を見る。
そこには、敗北者の顔が映っていた。
かつて自信に満ち溢れていた瞳は濁りきり、口元は卑屈に歪んでいる。
これが、四十二歳の俺の成れの果てだ。
もし、時間を戻せるなら。
あの日、琴羽からの誘いに乗らなければ。
いや、もっと前、玲子と結婚した時、打算ではなく本当に彼女を大切にしていれば。
いや、もっともっと前、俺が自分の力ではなく、他人の力を利用して生きようと決めた瞬間から、破滅へのカウントダウンは始まっていたのかもしれない。
「……戻れねえよな」
俺は呟き、飲みかけの酒を煽った。
人生にリセットボタンはない。
俺はこの薄汚い部屋で、借金に追われ、社会の底辺を這いつくばりながら、残りの人生を消化していくしかないのだ。
スマホの通知が鳴る。
MINEの新着メッセージだ。
『登録制バイトの件ですが、明日の現場がキャンセルになりました』
日雇いの仕事が飛んだ通知だ。
明日の飯代が消えた。
「……クソが」
俺はスマホを放り投げ、床に寝転がった。
天井のシミが、人の顔に見える。
湊が嘲笑っている顔か。
玲子が冷たく見下ろす顔か。
それとも、かつての俺自身が、今の俺を見て絶望している顔か。
外では冷たい風が吹き荒れている。
俺の心の中にも、二度と止まない木枯らしが吹いていた。
誰にも愛されず、誰にも必要とされず、ただ生きているだけの肉塊。
それが、道化の王の末路だった。
俺は目を閉じた。
明日が来なければいいのに、と願いながら。
けれど無情にも、明日という日は必ずやってくる。
俺にさらなる絶望と、償いきれない後悔を運んで。




