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六年間の純愛と、三ヶ月の裏切り。バグだらけの彼女を、僕が静かに削除(デリート)するまで  作者: ledled


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9/10

後日談 道化の王、泥濘(ぬかるみ)を這う

凍てつくような十二月の夜風が、作業着の隙間から容赦なく入り込んでくる。

手にかじかんだ感覚と、警備灯(誘導灯)の重みだけが、今の俺が生きているという唯一の実感だった。


「はい、止まってくださーい! 工事車両入ります!」


掠れた声を張り上げ、俺は赤い棒を振る。

目の前を、巨大なダンプカーが土埃を上げて通り過ぎていく。

排気ガスの臭いと、舞い上がる砂塵。

俺は咳き込みながら、顔をしかめた。

ここは大通りのガス管交換工事の現場だ。

クリスマスシーズンのイルミネーションが輝く表通りから一本入っただけで、そこには薄汚れた「裏側」の世界が広がっている。

今の俺、神崎翔吾かんざき しょうごにふさわしい場所だ。


「おい神崎! ぼさっとしてんじゃねえぞ! 次、一般車通すから誘導しろ!」


現場監督の怒鳴り声が飛んでくる。

あいつはまだ二十代半ばの若造だ。かつての俺なら、部下として顎で使っていただろう年齢だ。

だが今は、彼が「上」で、俺は「下」だ。

絶対的なヒエラルキーがそこにはある。


「……はい、すいません」


俺は頭を下げ、卑屈な笑みを浮かべた。

プライド? そんなものは五年前にドブに捨てた。

生きていくために、俺は泥水をすすることを選んだのだ。


作業が終わり、休憩時間になった。

俺はパイロンの陰に座り込み、コンビニで買った冷え切ったおにぎりを齧る。

具は一番安いツナマヨだ。

かつて、赤坂の高級料亭や、銀座の寿司屋で経費を使いまくっていた俺の舌は、今や添加物だらけの飯にすっかり慣らされてしまった。


ふと、ポケットからスマートフォンを取り出す。

画面には無数のヒビが入っている。買い換える金なんてない。

バッテリーの持ちも悪く、常にモバイルバッテリーを繋いでいないとすぐに落ちるポンコツだ。

指先で画面をスワイプし、ニュースアプリを開く。

世間はボーナス商戦だの、年末年始の休暇だので浮かれている。

そんな煌びやかな記事を指で弾いていると、一つのトピックが目に留まった。


『IT大手サイバーネクスト、過去最高益を更新。若き開発本部長が語る未来戦略』


そのサムネイル画像を見た瞬間、喉の奥に冷たいものが詰まったような感覚に襲われた。

タップして記事を開く。

そこに写っていたのは、整った顔立ちをした三十歳手前の男。

仕立ての良いダークスーツを着こなし、理知的な瞳でカメラを見据えている。

その隣には、彼を支えるように微笑む美しい女性の姿もあった。


藍月あいづき みなと』。


その名前を見るたびに、俺の古傷が疼く。

五年前、俺を地獄の底へと突き落とした張本人。

当時大学生だったあのガキは、今や日本を代表するIT企業の幹部にまで上り詰めていた。

記事によれば、彼は社内最年少で本部長に昇進し、業界の注目を集める若手リーダーとして活躍しているらしい。

私生活でも、同じ会社で出会った女性と結婚し、先月には第一子が生まれたと書いてある。


「……ふざけんなよ」


俺は低く呻いた。

握りしめたおにぎりが潰れ、海苔が破れる。

あいつは全てを手に入れた。

地位も、名誉も、金も、幸せな家庭も。

一方の俺はどうだ?

五年前、三十七歳だった俺は、今や四十二歳。

中肉中背だった体型は、安酒と炭水化物ばかりの生活でだらしなく太り、顔はむくみ、髪には白いものが混じっている。

鏡を見るのが怖いくらい、俺は醜く老け込んでいた。


「どうしてこうなった……」


何度繰り返したかわからない自問自答が、また頭の中を駆け巡る。

あの日、あの一通のメールさえなければ。

俺の火遊びが、あんな完璧な形で暴かれなければ。

俺は今頃、広告代理店の部長あたりに出世して、部下を従え、高級車を乗り回していたはずだ。

妻の玲子の実家の資産をバックに、安泰な人生を送っていたはずなんだ。


「神崎さーん、そろそろ再開しますよー」


若い警備員の声に、俺は現実に引き戻された。

スマホをポケットにねじ込み、重い腰を上げる。

寒さが骨身に染みる。

俺の人生の冬は、いつまで続くのだろうか。


***


夜勤明けの朝。

始発電車に揺られながら、俺はアパートへと帰る。

板橋区の外れにある、築四十年の木造アパート。

六畳一間の部屋はカビ臭く、隣の住人の生活音が筒抜けだ。

かつて世田谷のタワーマンションに住んでいたことが、まるで前世の記憶のように思える。


部屋に入り、コンビニの袋から発泡酒を取り出す。

朝から酒を飲むのが、俺の唯一の習慣であり、逃避だった。

プシュッという音と共に缶を開け、喉に流し込む。

ぬるい液体が胃に落ちると、少しだけ惨めさが和らぐ気がした。


テーブルの上には、督促状の束が散乱している。

消費者金融からの催促、未払いの税金、そして玲子への慰謝料の残債。

五年前、離婚に伴い五百万円の慰謝料を請求された。

さらに会社への不正経費の返還。

貯金などあるはずもなく、借金をしてなんとか一部を支払ったが、利息が雪だるま式に膨らみ、俺の首を絞め続けている。

自己破産しようにも、ギャンブルや浪費癖が原因の借金ではない(と自分では思っているが、実際には見栄のための散財も多かった)ため、手続きは難航した。

何より、玲子の実家の顧問弁護士が徹底的にマークしており、俺が少しでも金を持てばすぐに差し押さえにかかってくるのだ。

「一生かけて償わせる」。

それが、玲子とその父親からの宣告だった。


「……クソッ、どいつもこいつも」


空になった缶を握りつぶし、部屋の隅に投げ捨てる。

俺は布団に潜り込んだ。

眠っている間だけは、この最低な現実を忘れられる。


夢を見た。

五年前の夢だ。

俺は高級スーツを着て、プレゼンをしている。

クライアントの重役たちが、俺の話に頷き、賞賛の拍手を送ってくる。

「さすが神崎さんだ」「次も頼みますよ」

そして夜は、西麻布の会員制バーへ。

隣には若い女がいる。琴羽だ。

「翔吾くんすごーい!」「カッコいい!」

彼女の甘い声が、俺の自尊心をくすぐる。

俺は王様だった。

この世界の全てが、俺のために回っていると錯覚していた。


だが、夢は唐突に暗転する。

玲子の冷たい目。

社長の怒号。

湊の冷徹な声。

『さようなら、他人さん』

『お前はただのバグだ』


「うわぁぁぁっ!」


俺は叫び声を上げて飛び起きた。

全身が汗でびっしょり濡れている。

心臓が早鐘を打っている。

薄暗い部屋。染みのついた天井。

そこにあるのは、栄光の残滓すらない、ただの貧困と孤独だけだ。


「……ハァ、ハァ……」


震える手で水を飲み、荒い呼吸を整える。

枕元の時計を見ると、午後三時を回っていた。

今日もまた、無為な一日が過ぎていく。


腹が減った。

何か食べるものはないかと冷蔵庫を開けるが、中身は空っぽだ。

仕方なく、財布を持って外に出ることにした。

近くのスーパーで、半額の弁当が出る時間帯だ。


アパートを出て、商店街を歩く。

平日の昼下がり、主婦や老人たちが行き交う。

俺のような、昼間からヨレヨレの服を着て歩いている男に向けられる視線は、決して温かいものではない。

「関わりたくない」という空気が肌に刺さる。


スーパーに向かう途中、ふと駅前の不動産屋の前で足が止まった。

ガラス張りのショーウィンドウに貼られた物件情報。

『新築タワーマンション、最上階、家賃三十五万円』。

かつて俺が住んでいた部屋よりも、少し狭いくらいか。

今の俺の月収の二倍以上の家賃だ。

こんな部屋に住める人間が、この世には確かに存在する。

そして俺は、もう二度とあっち側には行けないのだという事実を、まざまざと見せつけられる。


その時、不動産屋から一組の男女が出てきた。

身なりの良い中年男性と、上品な着物を着た女性。

楽しそうに会話をしている。


「……あ」


俺は息を呑んだ。

女性の顔に見覚えがあったからだ。

神崎玲子。……いや、西園寺玲子。

俺の元妻だ。


五年という歳月が流れているはずなのに、彼女は全く老けていなかった。

むしろ、以前よりも肌艶が良く、内側から輝くような美しさを纏っている。

髪は艶やかに結い上げられ、着物の着こなしも堂に入っている。

隣にいる男性は、俺が見たこともない男だ。

穏やかそうで、知的で、そして明らかに「育ちが良い」雰囲気を漂わせている。


「玲子さん、この物件なら教室も広げられそうですね」

「ええ、日当たりもいいですし。生徒さんたちも喜びそう」


二人は微笑み合いながら、俺の目の前を通り過ぎようとしている。

俺は反射的に電柱の陰に隠れた。

惨めだった。

あまりにも惨めすぎて、合わせる顔がなかった。

今の俺は、無精髭を生やし、毛玉だらけのスウェットを着て、サンダル履きだ。

元夫だと名乗ることすら憚られるほどの格差。


二人は俺に気づくことなく、高級車――黒塗りのセダン――に乗り込んでいった。

運転手がドアを開け、恭しく頭を下げる。

車が走り去っていくのを、俺はただ呆然と見送ることしかできなかった。


彼女は再婚したのだろうか。

あるいは、ビジネスパートナーか。

どちらにせよ、彼女は俺という重荷を下ろし、自分の人生を謳歌している。

俺がいない方が、彼女は幸せだったのだ。

その事実は、どんな罵倒よりも深く、俺の心臓を抉った。


「……ははっ」


乾いた笑いが漏れた。

俺は何だったんだ。

俺は彼女を利用しているつもりだった。

金づるだと思っていた。

だが実際には、俺の方が彼女に寄生し、彼女の養分を吸って生きていただけの害虫だった。

宿主に見捨てられた寄生虫は、干からびて死ぬしかない。

それが自然の摂理だ。


スーパーで半額の海苔弁当を買い、トボトボと帰路につく。

商店街の雑踏の中に、ふと見覚えのある後ろ姿があった。

派手なピンク色の髪。露出の多い服。

背中は丸まり、足取りは覚束ない。


「……琴羽?」


思わず声が出た。

その女が振り返る。

厚塗りのファンデーションでも隠しきれない肌荒れ。

目の下の隈。

痩せこけた頬。

かつての、弾けるような若さと可愛らしさは跡形もない。

まるで老婆のような形相をした、二十代半ばの女。


間違いなく、桜井琴羽だった。

彼女と目が合った。

一瞬、彼女の目に驚きの色が浮かんだ。

だが、次の瞬間、彼女はフッと目を逸らし、逃げるように早足で去っていった。

声をかけることもしなかった。

俺も追わなかった。


彼女もまた、地獄を這っているのだ。

風の噂では、風俗店を転々とし、今は場末のスナックか何かで働いていると聞いたことがある。

あるいは、もっと悪い状況かもしれない。

俺たちがすれ違ったあの一瞬の間に流れたのは、かつての共犯者としての連帯感などではない。

「お前のせいでこうなった」という憎しみと、「お互いに落ちるところまで落ちたな」という軽蔑だけだった。


俺たちは二人で、底なし沼に沈んだのだ。

湊という男を裏切り、玲子という女を侮辱した報いとして。


アパートに戻り、冷たい弁当を食べる。

味がしない。

テレビをつけると、ワイドショーで芸能人の不倫ニュースが流れていた。

コメンテーターたちが正義の味方気取りで不倫した側を叩いている。

「自業自得ですね」「家族への裏切りは許されません」

その言葉の一つ一つが、俺に向けられているようで、俺はテレビを消した。


部屋の隅にある鏡を見る。

そこには、敗北者の顔が映っていた。

かつて自信に満ち溢れていた瞳は濁りきり、口元は卑屈に歪んでいる。

これが、四十二歳の俺の成れの果てだ。


もし、時間を戻せるなら。

あの日、琴羽からの誘いに乗らなければ。

いや、もっと前、玲子と結婚した時、打算ではなく本当に彼女を大切にしていれば。

いや、もっともっと前、俺が自分の力ではなく、他人の力を利用して生きようと決めた瞬間から、破滅へのカウントダウンは始まっていたのかもしれない。


「……戻れねえよな」


俺は呟き、飲みかけの酒を煽った。

人生にリセットボタンはない。

俺はこの薄汚い部屋で、借金に追われ、社会の底辺を這いつくばりながら、残りの人生を消化していくしかないのだ。


スマホの通知が鳴る。

MINEの新着メッセージだ。

『登録制バイトの件ですが、明日の現場がキャンセルになりました』

日雇いの仕事が飛んだ通知だ。

明日の飯代が消えた。


「……クソが」


俺はスマホを放り投げ、床に寝転がった。

天井のシミが、人の顔に見える。

湊が嘲笑っている顔か。

玲子が冷たく見下ろす顔か。

それとも、かつての俺自身が、今の俺を見て絶望している顔か。


外では冷たい風が吹き荒れている。

俺の心の中にも、二度と止まない木枯らしが吹いていた。

誰にも愛されず、誰にも必要とされず、ただ生きているだけの肉塊。

それが、道化の王の末路だった。


俺は目を閉じた。

明日が来なければいいのに、と願いながら。

けれど無情にも、明日という日は必ずやってくる。

俺にさらなる絶望と、償いきれない後悔を運んで。

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