後日談 枯れ落ちた枝、残された根の痛み
晩秋の風が、庭の植木を揺らしている。
リビングの窓から見える空は高く、澄み渡っているのに、私の心はずっと曇り空の下にあるようだ。
定年退職まであと数年。
本来なら、妻と二人で旅行の計画を立てたり、孫の顔を見る日を楽しみにしたりと、人生の収穫期を迎えるはずの時期だった。
だが、今の我が家には、重苦しい静寂だけが居座っている。
妻の恵子は、キッチンで洗い物をしているが、その背中は以前よりも一回り小さくなったように見える。
あの日以来、私たちは「娘」の話をしなくなった。
いや、できないのだ。
その名前を口にするだけで、胸の奥が張り裂けそうになるから。
私の名前は、桜井健一。
どこにでもいる平凡な会社員であり、かつては一人の娘を持つ、幸せな父親だった男だ。
あの日、一通のレターパックが届くまでは。
***
二年前のことだ。
その日は日曜日で、私は趣味のゴルフ中継を見ながら、のんびりと過ごしていた。
妻は台所で夕食の下拵えをしている。
話題の中心は、いつものように娘の琴羽と、その恋人の蓮くんのことだった。
「ねえ、あなた。蓮くん、最近忙しいのかしら。全然顔見せてくれないわね」
「まあ、彼も四年生だからな。卒論だの、就職前の研修だので忙しいんだろう。蓮くんは真面目だから、きっと立派なエンジニアになるよ」
「そうねぇ。あの子なら安心だわ。琴羽も就活頑張ってるみたいだし、そろそろ……ねえ?」
「ああ、結婚か。まあ、あの二人は小さい頃から一緒だからな。今更って感じもするが、式は盛大にやってやりたいもんだ」
私は目を細めた。
藍月湊――通称、蓮くん。
保育園からの付き合いで、我が家にも数え切れないほど遊びに来ていた。
礼儀正しく、聡明で、何より琴羽のことを第一に考えてくれる優しい青年だ。
私にとっても妻にとっても、彼はもはや娘の彼氏という枠を超え、実の息子のような存在だった。
琴羽は少しわがままで甘えん坊なところがあるが、蓮くんなら上手く手綱を握って、幸せな家庭を築いてくれるだろう。
そう信じて疑わなかった。
「ピンポーン」
玄関のチャイムが鳴った。
宅配便かと思い、私は重い腰を上げて玄関に向かった。
郵便局員から手渡されたのは、厚みのあるレターパックだった。
差出人の欄を見て、私は少し驚いた。
『藍月 湊』。
蓮くんからだ。
珍しいな、と思いながらリビングに戻る。
「おい、蓮くんから何か届いたぞ」
「あら、何かしら? お歳暮にはまだ早いし……もしかして、結婚式の招待状だったりして!」
妻が浮き足立った声で笑う。
私もつられて笑みを浮かべ、封を開けた。
中から出てきたのは、分厚い書類の束と、数枚の写真プリントだった。
一番上に、手書きの手紙が添えられている。
『桜井 健一様、恵子様
突然このようなものをお送りして申し訳ありません。
お二人が琴羽を大切に育ててこられたことは、僕もよく存じております。
だからこそ、これをお見せするのは心苦しいのですが、真実を知っていただきたく、筆を執りました。
僕は、琴羽と別れます。
その理由となる事実を、同封の資料にまとめました。
どうか、冷静にご覧ください。
湊 蓮』
「……え?」
私の口から、間の抜けた声が漏れた。
別れる? 蓮くんが、琴羽と?
意味がわからなかった。
妻も横から覗き込み、「どういうこと?」と不安そうに眉を寄せる。
私は震える手で、その下の書類を取り出した。
そこにあったのは、地獄だった。
精緻な報告書。
日付、場所、相手の男の名前。
『神崎 翔吾(32歳・既婚)』。
そして、写真。
温泉旅館の浴衣を着て、見知らぬ男に抱きつき、カメラに向かってピースサインをしている娘の姿。
その笑顔は、私たちが知っている無邪気な笑顔と同じだったが、状況があまりにも醜悪だった。
「いやぁぁぁぁっ!」
妻が悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちた。
私は言葉を失い、ただただその写真を見つめ続けた。
これは何かの間違いだ。合成写真だ。悪い冗談だ。
そう思いたかった。
だが、蓮くんは情報工学を専攻する優秀な学生だ。彼がこんな悪趣味な冗談をするはずがない。
何より、同封されていたUSBメモリに入っていたデータ――娘の裏アカウントのスクリーンショット――が、全ての希望を打ち砕いた。
『Twotter @こと_秘密の恋』
『彼氏重いんだよねー。早く別れたい』
『翔吾くんとの旅行楽しみ♡ 奥さんには内緒で(笑)』
『パパとママも、蓮くんと結婚しろってうるさいし。マジうざい』
画面に並ぶ文字列が、私の網膜を焼き、脳を揺さぶった。
「マジうざい」。
私たちが注いできた愛情は、彼女にとってはただの「うざい」ノイズでしかなかったのか。
そして蓮くんへの侮辱。
「重い」「ATM扱い」。
私は、娘をこんな人間に育ててしまったのか。
怒りよりも先に、強烈な吐き気と眩暈が襲ってきた。
私はソファに手をつき、荒い息を吐いた。
妻は床に突っ伏して泣いている。
平和だった日曜日のリビングは、一瞬にして通夜のような空気に包まれた。
「……電話だ。琴羽に電話しろ」
私は掠れた声で言った。
妻は泣きじゃくりながら首を振るばかりだ。
私が自分でスマホを取り出し、娘にかける。
繋がらない。
蓮くんにもかけた。
『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』
アナウンスが無情に響く。
彼はすでに番号を変え、完全に縁を切る準備を整えていたのだ。
その徹底ぶりに、彼の受けた傷の深さと、決意の固さを思い知らされた。
***
その日の深夜。
玄関のドアが乱暴に叩かれる音で、私たちは現実に引き戻された。
私は重い足取りで玄関へ向かい、鍵を開けた。
「パパ! ママ! 開けてよぉ!」
ドアを開けると、そこには髪を振り乱し、化粧が崩れ、ボロボロになった琴羽が立っていた。
手には大きなバッグと、いくつかの手提げ袋。
足元はサンダルのままだ。
「パパぁ……ううっ……ひどいの! 蓮くんが急に怒り出して、家から追い出されたの! 私、何もしてないのに……!」
琴羽は私の胸に飛び込もうとしてきた。
いつもなら、私は泣いている娘を抱きしめ、「どうしたんだ、大丈夫か」と慰めていただろう。
だが、この時ばかりは体が拒絶反応を示した。
私は一歩下がり、彼女を避けた。
「……え?」
琴羽がバランスを崩し、よろめく。
驚いたような顔で私を見る。
その目には、まだ「親なら味方してくれるはず」という甘えが見て取れた。
「パパ……? どうしたの?」
「……入れ」
私は低く告げ、リビングへと戻った。
琴羽はおずおずとついてくる。
リビングに入ると、テーブルの上に広げられた写真と報告書が目に入ったのだろう。
彼女の動きがピタリと止まった。
「あ……」
顔から血の気が引いていくのがわかった。
先ほどまでの被害者面が消え、焦りと恐怖が混じった表情になる。
「琴羽。……これはなんだ」
私は努めて冷静に、写真の一枚を指差した。
男と二人、ベッドの上で自撮りしている写真だ。
「こ、これは……その、違うの! 合成だよ! 蓮くんが私を陥れようとして作った偽物なの!」
娘はまだ嘘をついた。
証拠を突きつけられてなお、自分の保身のために、あろうことか蓮くんを加害者に仕立て上げようとしたのだ。
その浅ましさに、私の中で何かがプツンと切れた。
「嘘をつくなッ!!」
私の怒鳴り声が、家中に響き渡った。
琴羽がビクリと肩を跳ねさせ、妻が悲鳴を上げて耳を塞ぐ。
私は今まで、娘に手を上げたことも、これほどの大声を出したこともなかった。
だが、今の彼女は、私の愛した娘ではない。
ただの化け物に見えた。
「蓮くんがこんな手の込んだ嘘をつく理由があるか! お前の裏アカウントの書き込みも、全部ここにあるんだぞ! 『彼氏は重い』『親はうざい』……よくもまあ、こんなことが書けたもんだな!」
「だって……! だって寂しかったんだもん!」
琴羽は開き直ったように叫んだ。
「蓮くん、最近就職の準備とかで忙しくて、全然相手してくれなかったし! 私だって就活でストレス溜まってたし! 優しくしてくれる人がいたら、ふらっといっちゃうことだってあるじゃん! 仕方ないでしょ!?」
「仕方ない」だと?
六年間もお前を支え続け、大切にしてくれた相手を裏切って、既婚者と不貞を働き、それを「寂しかったから仕方ない」で済ませるのか。
この期に及んで、自分の非を認めず、他人のせいにするその性根。
ああ、育て方を間違えた。
完全に間違えた。
甘やかしすぎたのだ。
「女の子だから」と厳しく叱らず、欲しいものは何でも買い与え、わがままも「可愛い」と許してきた結果が、これだ。
私の責任だ。
「……琴羽」
私は静かに言った。
「お父さんはな、お前のことを信じていた。蓮くんとなら幸せになれると、心から思っていた。……だが、お前はその信頼を、蓮くんの愛情を、泥足で踏みにじったんだ」
「ごめんなさい……ごめんなさい、パパ。もうしないから。蓮くんに謝って、仲直りさせてよぉ……パパから言えば、蓮くんも聞いてくれるでしょ?」
琴羽は私の足にすがりつき、涙を流して懇願した。
まだわかっていない。
蓮くんは、私たちが口添えをしてどうにかなる段階などとうに超えている。
それに、私にはもう、蓮くんに合わせる顔がない。
こんな娘を育てて、彼に押し付けていたのだから。
「無理だ」
「え……?」
「蓮くんはもう、お前を捨てたんだ。そして私も、お前を捨てる」
「……え?」
琴羽が呆然と私を見上げる。
「出て行け。この家から」
「や、やだ! 行くとこないよ! お金もないし!」
「知らん。その男――神崎とかいう男に頼ればいいだろう。お前の『刺激的な恋人』なんだろ?」
「無理だよ! あの人は奥さんにバレて、もう連絡つかないの! パパしかいないの!」
「パパしかいない」。
その言葉が、これほど空虚に響く日が来るとは思わなかった。
「もう私をお父さんと呼ぶな。お前のような恥知らずな娘は知らん」
「ママ! ママ助けて! パパがおかしいよ!」
琴羽は妻の方へ這い寄る。
妻はずっと泣いていたが、琴羽の手が触れそうになった瞬間、ビクリと体を引いた。
「……お母さん……?」
「……ごめんね、琴羽」
妻は震える声で言った。
「お母さん、あなたがそんな子だなんて……ショックで、顔も見たくないの。……お父さんの言う通りにして」
妻もまた、限界だったのだ。
信じていた娘の裏切りは、母親にとってこそ残酷な刃となる。
「嘘……みんな、ひどいよ……私のこと嫌いなの!?」
「嫌いになったわけじゃない」
私は最後の力を振り絞って言った。
「軽蔑したんだ。……さっさと荷物をまとめて出て行け。二度と敷居を跨ぐな。学費も生活費も、これからは一切出さない。自分のしたことの責任は、自分で取れ」
私は娘の腕を掴み、玄関へと引きずっていった。
「いやだ!」「ごめんなさい!」と泣き叫ぶ声を無視し、彼女を外へと放り出した。
夜の冷たい空気が流れ込む。
私はそのまま、鍵を閉めた。
ガチャリ、という金属音が、親子の縁が切れる音のように聞こえた。
ドアの向こうで、しばらく娘が叩いたり叫んだりしていたが、私が管理会社に通報するふりをして「警察を呼ぶぞ」と怒鳴ると、やがて静かになった。
その後、どうしたのかは知らない。
友人宅に行ったのか、ネットカフェにでも泊まったのか。
私はリビングに戻り、妻と二人、朝まで一睡もせずに過ごした。
会話はなかった。
ただ、テーブルの上の、幸せそうに笑っていた頃の家族写真だけが、残酷なほど眩しく輝いていた。
***
あれから二年。
季節は巡り、私たちは日常を取り戻しつつある。
いや、取り戻したふりをしているだけかもしれない。
近所の目は厳しかった。
どこからか噂が漏れたのか、あるいは琴羽が近所で騒いだのか、「桜井さんの娘さん、不倫して勘当されたらしいよ」という噂は瞬く間に広がった。
妻は一時期、買い物に行くのも怖がっていた。
それでも私たちは、この家に住み続けている。
逃げるわけにはいかないと思ったからだ。
これが、親としての最後の責任の取り方なのかもしれない。
琴羽からは、何度か手紙が届いた。
『お金がない』『病気になった』『会いたい』。
封筒の筆跡を見るたびに胸が痛んだが、私は中身を読まずにシュレッダーにかけた。
電話番号も変えたし、MINEもブロックした。
風の噂で、彼女が水商売や日雇いのバイトを転々とし、ひどく落ちぶれた生活をしていると聞いた。
ボロボロの服を着て、街でティッシュ配りをしていたという目撃情報もあった。
助けてやりたいという親心が、全くないと言えば嘘になる。
だが、助ければ彼女のためにならない。
彼女は自分の足で立ち、自分の罪と向き合わなければならないのだ。
それに、もし私たちが彼女を受け入れれば、それは蓮くんへの裏切りになる。
彼の人生を狂わせた加害者を、親だからといって甘やかすことは許されない。
そして、蓮くんのこと。
彼とはあれ以来、一度も連絡を取っていない。
取れるはずもない。
だが、先日、思わぬ形で彼の近況を知ることになった。
街の書店で、ビジネス雑誌のコーナーを通りかかった時のことだ。
『次世代を担う若手エンジニア特集』という見出しの雑誌が目に留まった。
何気なく手に取ると、そこに彼の顔があった。
スーツをパリッと着こなし、自信に満ちた表情でインタビューに答えている蓮くん。
『サイバーネクスト シニアエンジニア 藍月 湊』。
彼は、あの大手IT企業で出世していたのだ。
記事の中で、彼はこう語っていた。
「過去の困難な経験が、今の僕を作りました。今は、支えてくれる最高のパートナーと共に、未来を見ています」
パートナー。
その言葉に、私はハッとした。
記事の横に、小さくプライベートの写真が載っていた。
海辺のレストランで、清楚な女性と幸せそうに微笑む蓮くんの姿。
二人の左手の薬指には、指輪が光っていた。
「……そうか」
書店の中で、涙が溢れてくるのを止められなかった。
よかった。
本当によかった。
彼は幸せになったのだ。
娘が壊した彼の人生は、彼自身の力で見事に修復され、さらに輝かしいものへとアップデートされていた。
隣にいる女性は、琴羽とは違う、きっと心根の優しい人なのだろう。
写真から伝わってくる穏やかな空気感が、それを物語っていた。
私はその雑誌を買い、家に持ち帰った。
妻に見せると、彼女もまた、ボロボロと涙を流して喜んだ。
「よかったわね……本当によかった……」
私たちは、蓮くんの写真に向かって、何度も頭を下げた。
「ごめんなさい」と「ありがとう」を繰り返しながら。
琴羽は、このことを知っているのだろうか。
知ったとして、何を思うのだろうか。
後悔か、嫉妬か、絶望か。
いずれにせよ、それは彼女が背負うべき十字架だ。
庭の木々は、冬になれば葉を落とす。
枯れ落ちた葉は土に還り、根の養分となる。
琴羽という枝は、腐り落ちてしまった。
だが、私たちという根は、まだ枯れるわけにはいかない。
痛みはある。
娘を失った喪失感は、一生消えないだろう。
それでも、私たちは生きていく。
自分たちの愚かさを噛み締めながら、そして遠い空の下で幸せに暮らす「かつての息子」の幸福を祈りながら。
「おい、お茶でも淹れようか」
「ええ、お願いします」
私は妻に声をかけ、キッチンへと向かった。
窓の外では、木枯らしが吹いている。
冬は厳しい。
だが、いつか必ず春は来る。
そう信じて、私たちは残りの人生を、静かに、償うように生きていくのだ。




