後日談 賢者の選択、愚者の末路
初冬の柔らかな日差しが、障子越しに和室へと差し込んでいる。
静寂に包まれた空間で、私はハサミの音だけを響かせていた。
パチン、パチン。
余分な枝を切り落とし、花本来の美しさを引き出していく作業。
生け花は、私の心を整える大切な儀式だ。
無駄なものを削ぎ落とし、あるべき形へと導く。それは、人生においても同じことなのかもしれない。
「先生、素晴らしいです。凛としていて、それでいて温かみがあって」
生徒の一人が、ため息交じりに感想を漏らした。
私はハサミを置き、微笑んでみせた。
「ありがとう。迷いを捨てれば、花は自然と答えてくれるものよ」
私の名前は、神崎玲子。……いいえ、今はもう旧姓の『西園寺』に戻っている。
かつて『神崎』という姓を名乗っていた時期が数年ほどあったが、今となっては遠い前世の記憶のように希薄だ。
三十代半ばを迎え、私は実家の事業を手伝いながら、こうして生け花教室を開いている。
経済的にも精神的にも自立し、穏やかで満ち足りた日々。
かつて私の人生に寄生していた「害虫」を駆除したことで、私の庭はようやく本来の美しさを取り戻したのだ。
ふと、庭の寒椿に目をやりながら、私は二年前の出来事を思い出していた。
私の人生における、最初で最後の大掃除。
そして、そのきっかけをくれた、見知らぬ青年からのメールのことを。
***
あの頃の私は、表面上は幸せな結婚生活を送っているように見えていたはずだ。
夫の神崎翔吾は、中堅広告代理店に勤める営業マン。
見た目は良く、人当たりも柔らかい。私の父が経営に関わる企業の重役たちにも気に入られ、順風満帆なキャリアを歩んでいるように見えた。
けれど、妻である私だけが感じる違和感はずっとあった。
彼の言葉の端々に滲む、薄っぺらさ。
私そのものではなく、私の背後にある「実家の資産」や「コネクション」を見ているような、値踏みする視線。
そして、時折ふっと消える時間。
「今日も接待だよ。玲子のパパの会社の担当者とだから、無碍にできないんだ」
そう言って帰宅が遅くなる日が増えていた。
私は愚かではなかった。女の勘といってしまえばそれまでだが、彼が嘘をついていることくらい、なんとなく察していた。
けれど、決定的な証拠がなかった。
それに、もし黒だったとしても、一度誓った結婚の誓いを破棄するには、それなりの覚悟とエネルギーが必要だ。
私は波風を立てることを避け、見て見ぬふりをしていたのかもしれない。
そんな私の怠惰な眠りを覚ましてくれたのが、あの一通のメールだった。
日曜日の夜。
翔吾は「地方の工場視察と接待ゴルフがある」と言って、泊まりで出かけていた。
一人きりの広いリビングで、紅茶を飲みながらタブレットを見ていた時、通知音が鳴った。
『件名:神崎翔吾様の不貞行為に関するご報告と証拠の提出について』
差出人は『湊 蓮』という、聞き覚えのない名前。
迷惑メールかと思った。
けれど、件名にある夫の名前を見て、指が止まった。
胸騒ぎがした。
震える指でメールを開く。
そこには、丁寧だが事務的な文面で、夫が女子大生と不倫関係にあること、現在進行形で旅行中であること、そしてその証拠が添付されていることが記されていた。
私は深呼吸をして、添付された圧縮ファイルを解凍した。
画面いっぱいに広がる、おぞましい真実。
温泉旅館でのツーショット写真。
浴衣姿で、だらしなく笑う夫の顔。
その隣にいる、娘といってもいいくらい若い女性。
そして、MINEのスクリーンショット。
『玲子って本当に堅物でつまんないんだよな』
『家事は家政婦任せだし、俺の世話なんて全然焼いてくれない』
『琴羽ちゃんの方が百倍可愛いよ。玲子はただの金づる(笑)』
夫が不倫相手に送っていたメッセージの数々。
そこには、私への愛情など欠片もなく、あるのは侮蔑と利用価値への言及だけだった。
怒り? 悲しみ?
いいえ。
私がその時感じたのは、底冷えするような「納得」と、強烈な「軽蔑」だった。
「……ああ、やっぱり」
私は独り言を漏らした。
やっぱり、この男は中身のない空っぽな人間だったのだ。
私の家柄と金に目が眩んで近づいてきただけの、ただの寄生虫。
そんな男に、私は人生の数年間を費やし、情をかけ、尽くそうとしていた。
自分の不明を恥じた。
そして同時に、感謝した。
この事実を、ここまで明確な形で突きつけてくれた、湊蓮という青年に。
彼は、不倫相手の女性の恋人だという。
文面からは、感情を押し殺した冷静さと、強い意志が伝わってきた。
彼もまた、傷つき、裏切られた被害者なのだ。
それなのに、私にまで配慮し、こうして真実を知らせてくれた。
彼の勇気と誠実さに報いるためにも、私は私がすべきことを完璧に遂行しなければならない。
私はすぐにタブレットを持って書斎に行き、父に電話をかけた。
夜分だったが、緊急事態だと告げると、父はすぐに電話に出た。
「お父様、夜分に申し訳ありません。……翔吾さんのことで、重要なお話があります」
私は感情を交えず、淡々と事実を伝えた。
送られてきた証拠のデータも転送した。
父の反応は早かった。
激昂し、「あの野郎、殺してやる」と息巻く父をなだめつつ、私は今後のプランを提示した。
「お父様、感情的になってはいけません。社会的に、かつ法的に、二度と立ち上がれないように処理しましょう。……私に任せていただけますか?」
父はしばらく沈黙した後、「……わかった。玲子の好きなようにしなさい。会社の方への手回しは、私がやっておく」と言ってくれた。
電話を切った後、私は顧問弁護士に連絡を入れ、翌朝一番での面談を予約した。
さらに、家の鍵を交換するための業者を手配し、翔吾の荷物をまとめるための段ボールを用意した。
その夜、私は一睡もしなかった。
けれど、不思議と眠くはなかった。
むしろ、頭は冴え渡り、体中に力がみなぎっていた。
長く降り積もっていた澱が流れ落ち、視界がクリアになったような感覚。
断捨離。
そう、これは人生の大掃除なのだ。
***
翌日の月曜日。
会社を追い出された翔吾が、血相を変えてマンションに戻ってきたのは、昼過ぎのことだった。
鍵が開かないことに気づき、ドアを叩き、喚き散らしている声が聞こえた。
私はインターホン越しに対応などしなかった。
すでに待機してもらっていた父の秘書と弁護士に対応を任せ、私は優雅に紅茶を飲んでいた。
「玲子! いるんだろ! 話を聞いてくれ!」
外からの叫び声が止み、代わりに携帯電話が鳴った。
翔吾からだ。
私は一度だけ、電話に出た。
最後の別れの言葉くらい、くれてやろうと思ったからだ。
「……はい」
『玲子! よかった、電話に出てくれて……! 誤解なんだ、あれは全部誤解で……!』
開口一番、見え透いた嘘。
どこまで私を愚かに思えば気が済むのだろう。
「誤解? 写真も、メッセージの履歴も、すべて捏造だとでも言うの?」
『そ、それは……あいつが、あの女が勝手に……俺はハメられたんだ!』
「見苦しいわよ、翔吾さん」
私は冷たく言い放った。
「あなたの言う『金づる』で『堅物』の妻はね、あなたが思っているほど馬鹿じゃないの。あなたの裏切りも、私への侮辱も、すべて把握しました」
『……っ!』
「離婚届は弁護士に預けてあります。慰謝料請求も。私の実家の顧問弁護士団が、総力を挙げてあなたを追い詰めるでしょう。覚悟してね」
『ま、待ってくれ! 愛してるんだ! 俺には玲子しかいないんだ! あの女とは遊びで……!』
「愛?」
私は鼻で笑った。
「あなたが愛していたのは、私の実家の資産と、私の父のコネクションでしょう? でも残念ね。その全てを、あなたは失ったのよ」
『玲子……お願いだ、捨てないでくれ……俺はこれからどうすれば……』
「自分で考えなさい。いい歳をした大人なんでしょ? ……さようなら、他人さん」
私は通話を切り、着信拒否設定にした。
胸がすくような爽快感があった。
情など、一ミリも残っていなかった。
あるのは、汚物を処理した後の清々しさだけ。
その後、彼がどうなったかは、弁護士からの定期報告で知っている。
会社を懲戒に近い形で解雇され、業界内での再就職も絶望的。
私への慰謝料、そして会社の経費不正使用に対する返済で、彼は借金まみれになったそうだ。
実家に泣きつこうとしたらしいが、私の父の手回しにより、彼の実家も彼を見放した。
今は日雇いの肉体労働や、怪しげなバイトを転々とし、狭いアパートでその日暮らしをしているらしい。
かつてブランド物のスーツに身を包み、高級車を乗り回していたプライドの高い彼にとって、それは死ぬよりも辛い屈辱だろう。
不倫相手の女子大生――桜井琴羽さんについても、少しだけ耳に入った。
彼女もまた、全てを失い、街を彷徨っているという。
湊様という方の、徹底的な復讐によって。
彼らは自らの欲望のために他人を踏みにじり、その報いとして、自らの人生を燃やし尽くしたのだ。
因果応報。
古臭い言葉だが、これほど真理を突いた言葉はないと思う。
***
「先生、どうされました?」
生徒の声に、私は我に返った。
いけない、昔のことを思い出して手が止まっていたようだ。
「ううん、なんでもないわ。……さあ、仕上げましょうか」
私は最後の枝を整え、作品を完成させた。
凛と咲く一輪の椿。
冬の寒さに耐え、なお美しく咲き誇るその姿は、今の私自身のようだと思いたい。
教室が終わり、生徒たちを見送った後、私は片付けをして外に出た。
夕暮れの街は、冷たい風が吹いているが、イルミネーションが美しく輝いている。
コートの襟を合わせ、私は歩き出した。
今日は父と母と食事をする約束がある。
離婚後、両親との関係は以前よりも良好になった。
特に父は、「変な男を宛てがってすまなかった」と私に頭が上がらないようで、今は私の事業を全面的にバックアップしてくれている。
ふと、信号待ちをしている時、向こう側の歩道に一人の男の姿が見えた。
薄汚れた作業着を着て、コンビニの袋を提げて歩く、猫背の男。
白髪が増え、顔はむくみ、目は虚ろだ。
すれ違う人々が彼を避け、彼もまた、誰とも目を合わせようとしない。
……翔吾だ。
一瞬、見間違えかと思ったが、あの特徴的な歩き方は間違いない。
かつての彼は、常に胸を張り、自信満々に歩いていた。
今はまるで、重い荷物を背負わされた老人のようだ。
彼の視線が、ふとこちらに向いた気がした。
けれど、彼の瞳には何も映っていないようだった。
綺麗なコートを着た、幸せそうな女性。
今の彼にとって、私はただの「風景」の一部であり、かつての妻だと認識することさえできないのかもしれない。
あるいは、認識したくなくて、無意識に視線を逸らしたのか。
信号が変わる。
私は彼の方へ歩き出したわけではない。
彼とは逆方向へ、背を向けて歩き出した。
声をかけるつもりも、憐れみをかけるつもりもない。
彼と私は、もう住む世界が違うのだ。
「……お幸せに」
皮肉でもなんでもなく、私は小さく呟いた。
彼が選んだ地獄の中で、精一杯這いつくばって生きればいい。
それが、彼に残された唯一の「生」なのだから。
駅前の広場では、若いカップルたちが楽しそうに笑い合っている。
その中に、とても幸せそうなオーラを放つ二人連れがいた。
理知的な顔立ちの青年と、彼を尊敬の眼差しで見つめる可愛らしい女性。
男性の指と、女性の指には、お揃いの指輪が光っている。
もしかしたら。
本当にただの偶然の妄想に過ぎないけれど。
あの青年が、私にメールをくれた湊様かもしれない。
なんとなく、そんな気がした。
彼は過去を乗り越え、新しい幸せを掴んだのだろうか。
もしそうなら、心から祝福したい。
あなたのおかげで、私も自由になれました、と。
私は夜空を見上げた。
一番星が、澄んだ空気の中で鋭く輝いている。
私の人生は、まだ半ばだ。
一度の失敗で終わるほど、私の人生は安っぽくない。
これからは、誰かのためではなく、私自身のために生きていく。
自分の足で立ち、自分の目で見極め、自分の手で幸せを掴み取る。
それが、元・神崎玲子という女の、新しい生き方なのだ。
私はヒールの音を高く響かせ、光の溢れる街へと、力強く歩き出した。
冬の風は冷たいけれど、今の私には、それが心地よい追い風のように感じられた。




