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六年間の純愛と、三ヶ月の裏切り。バグだらけの彼女を、僕が静かに削除(デリート)するまで  作者: ledled


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後日談 賢者の選択、愚者の末路

初冬の柔らかな日差しが、障子越しに和室へと差し込んでいる。

静寂に包まれた空間で、私はハサミの音だけを響かせていた。

パチン、パチン。

余分な枝を切り落とし、花本来の美しさを引き出していく作業。

生け花は、私の心を整える大切な儀式だ。

無駄なものを削ぎ落とし、あるべき形へと導く。それは、人生においても同じことなのかもしれない。


「先生、素晴らしいです。凛としていて、それでいて温かみがあって」


生徒の一人が、ため息交じりに感想を漏らした。

私はハサミを置き、微笑んでみせた。


「ありがとう。迷いを捨てれば、花は自然と答えてくれるものよ」


私の名前は、神崎玲子かんざき れいこ。……いいえ、今はもう旧姓の『西園寺さいおんじ』に戻っている。

かつて『神崎』という姓を名乗っていた時期が数年ほどあったが、今となっては遠い前世の記憶のように希薄だ。

三十代半ばを迎え、私は実家の事業を手伝いながら、こうして生け花教室を開いている。

経済的にも精神的にも自立し、穏やかで満ち足りた日々。

かつて私の人生に寄生していた「害虫」を駆除したことで、私の庭はようやく本来の美しさを取り戻したのだ。


ふと、庭の寒椿に目をやりながら、私は二年前の出来事を思い出していた。

私の人生における、最初で最後の大掃除。

そして、そのきっかけをくれた、見知らぬ青年からのメールのことを。


***


あの頃の私は、表面上は幸せな結婚生活を送っているように見えていたはずだ。

夫の神崎翔吾は、中堅広告代理店に勤める営業マン。

見た目は良く、人当たりも柔らかい。私の父が経営に関わる企業の重役たちにも気に入られ、順風満帆なキャリアを歩んでいるように見えた。

けれど、妻である私だけが感じる違和感はずっとあった。


彼の言葉の端々に滲む、薄っぺらさ。

私そのものではなく、私の背後にある「実家の資産」や「コネクション」を見ているような、値踏みする視線。

そして、時折ふっと消える時間。


「今日も接待だよ。玲子のパパの会社の担当者とだから、無碍にできないんだ」


そう言って帰宅が遅くなる日が増えていた。

私は愚かではなかった。女の勘といってしまえばそれまでだが、彼が嘘をついていることくらい、なんとなく察していた。

けれど、決定的な証拠がなかった。

それに、もし黒だったとしても、一度誓った結婚の誓いを破棄するには、それなりの覚悟とエネルギーが必要だ。

私は波風を立てることを避け、見て見ぬふりをしていたのかもしれない。


そんな私の怠惰な眠りを覚ましてくれたのが、あの一通のメールだった。

日曜日の夜。

翔吾は「地方の工場視察と接待ゴルフがある」と言って、泊まりで出かけていた。

一人きりの広いリビングで、紅茶を飲みながらタブレットを見ていた時、通知音が鳴った。


『件名:神崎翔吾様の不貞行為に関するご報告と証拠の提出について』


差出人は『湊 蓮』という、聞き覚えのない名前。

迷惑メールかと思った。

けれど、件名にある夫の名前を見て、指が止まった。

胸騒ぎがした。

震える指でメールを開く。

そこには、丁寧だが事務的な文面で、夫が女子大生と不倫関係にあること、現在進行形で旅行中であること、そしてその証拠が添付されていることが記されていた。


私は深呼吸をして、添付された圧縮ファイルを解凍した。

画面いっぱいに広がる、おぞましい真実。


温泉旅館でのツーショット写真。

浴衣姿で、だらしなく笑う夫の顔。

その隣にいる、娘といってもいいくらい若い女性。

そして、MINEのスクリーンショット。


『玲子って本当に堅物でつまんないんだよな』

『家事は家政婦任せだし、俺の世話なんて全然焼いてくれない』

『琴羽ちゃんの方が百倍可愛いよ。玲子はただの金づる(笑)』


夫が不倫相手に送っていたメッセージの数々。

そこには、私への愛情など欠片もなく、あるのは侮蔑と利用価値への言及だけだった。

怒り? 悲しみ?

いいえ。

私がその時感じたのは、底冷えするような「納得」と、強烈な「軽蔑」だった。


「……ああ、やっぱり」


私は独り言を漏らした。

やっぱり、この男は中身のない空っぽな人間だったのだ。

私の家柄と金に目が眩んで近づいてきただけの、ただの寄生虫。

そんな男に、私は人生の数年間を費やし、情をかけ、尽くそうとしていた。

自分の不明を恥じた。

そして同時に、感謝した。

この事実を、ここまで明確な形で突きつけてくれた、湊蓮という青年に。


彼は、不倫相手の女性の恋人だという。

文面からは、感情を押し殺した冷静さと、強い意志が伝わってきた。

彼もまた、傷つき、裏切られた被害者なのだ。

それなのに、私にまで配慮し、こうして真実を知らせてくれた。

彼の勇気と誠実さに報いるためにも、私は私がすべきことを完璧に遂行しなければならない。


私はすぐにタブレットを持って書斎に行き、父に電話をかけた。

夜分だったが、緊急事態だと告げると、父はすぐに電話に出た。


「お父様、夜分に申し訳ありません。……翔吾さんのことで、重要なお話があります」


私は感情を交えず、淡々と事実を伝えた。

送られてきた証拠のデータも転送した。

父の反応は早かった。

激昂し、「あの野郎、殺してやる」と息巻く父をなだめつつ、私は今後のプランを提示した。


「お父様、感情的になってはいけません。社会的に、かつ法的に、二度と立ち上がれないように処理しましょう。……私に任せていただけますか?」


父はしばらく沈黙した後、「……わかった。玲子の好きなようにしなさい。会社の方への手回しは、私がやっておく」と言ってくれた。

電話を切った後、私は顧問弁護士に連絡を入れ、翌朝一番での面談を予約した。

さらに、家の鍵を交換するための業者を手配し、翔吾の荷物をまとめるための段ボールを用意した。


その夜、私は一睡もしなかった。

けれど、不思議と眠くはなかった。

むしろ、頭は冴え渡り、体中に力がみなぎっていた。

長く降り積もっていた澱が流れ落ち、視界がクリアになったような感覚。

断捨離。

そう、これは人生の大掃除なのだ。


***


翌日の月曜日。

会社を追い出された翔吾が、血相を変えてマンションに戻ってきたのは、昼過ぎのことだった。

鍵が開かないことに気づき、ドアを叩き、喚き散らしている声が聞こえた。

私はインターホン越しに対応などしなかった。

すでに待機してもらっていた父の秘書と弁護士に対応を任せ、私は優雅に紅茶を飲んでいた。


「玲子! いるんだろ! 話を聞いてくれ!」


外からの叫び声が止み、代わりに携帯電話が鳴った。

翔吾からだ。

私は一度だけ、電話に出た。

最後の別れの言葉くらい、くれてやろうと思ったからだ。


「……はい」

『玲子! よかった、電話に出てくれて……! 誤解なんだ、あれは全部誤解で……!』


開口一番、見え透いた嘘。

どこまで私を愚かに思えば気が済むのだろう。


「誤解? 写真も、メッセージの履歴も、すべて捏造だとでも言うの?」

『そ、それは……あいつが、あの女が勝手に……俺はハメられたんだ!』

「見苦しいわよ、翔吾さん」


私は冷たく言い放った。


「あなたの言う『金づる』で『堅物』の妻はね、あなたが思っているほど馬鹿じゃないの。あなたの裏切りも、私への侮辱も、すべて把握しました」

『……っ!』

「離婚届は弁護士に預けてあります。慰謝料請求も。私の実家の顧問弁護士団が、総力を挙げてあなたを追い詰めるでしょう。覚悟してね」

『ま、待ってくれ! 愛してるんだ! 俺には玲子しかいないんだ! あの女とは遊びで……!』

「愛?」


私は鼻で笑った。


「あなたが愛していたのは、私の実家の資産と、私の父のコネクションでしょう? でも残念ね。その全てを、あなたは失ったのよ」

『玲子……お願いだ、捨てないでくれ……俺はこれからどうすれば……』

「自分で考えなさい。いい歳をした大人なんでしょ? ……さようなら、他人さん」


私は通話を切り、着信拒否設定にした。

胸がすくような爽快感があった。

情など、一ミリも残っていなかった。

あるのは、汚物を処理した後の清々しさだけ。


その後、彼がどうなったかは、弁護士からの定期報告で知っている。

会社を懲戒に近い形で解雇され、業界内での再就職も絶望的。

私への慰謝料、そして会社の経費不正使用に対する返済で、彼は借金まみれになったそうだ。

実家に泣きつこうとしたらしいが、私の父の手回しにより、彼の実家も彼を見放した。

今は日雇いの肉体労働や、怪しげなバイトを転々とし、狭いアパートでその日暮らしをしているらしい。

かつてブランド物のスーツに身を包み、高級車を乗り回していたプライドの高い彼にとって、それは死ぬよりも辛い屈辱だろう。


不倫相手の女子大生――桜井琴羽さんについても、少しだけ耳に入った。

彼女もまた、全てを失い、街を彷徨っているという。

湊様という方の、徹底的な復讐によって。

彼らは自らの欲望のために他人を踏みにじり、その報いとして、自らの人生を燃やし尽くしたのだ。

因果応報。

古臭い言葉だが、これほど真理を突いた言葉はないと思う。


***


「先生、どうされました?」


生徒の声に、私は我に返った。

いけない、昔のことを思い出して手が止まっていたようだ。


「ううん、なんでもないわ。……さあ、仕上げましょうか」


私は最後の枝を整え、作品を完成させた。

凛と咲く一輪の椿。

冬の寒さに耐え、なお美しく咲き誇るその姿は、今の私自身のようだと思いたい。


教室が終わり、生徒たちを見送った後、私は片付けをして外に出た。

夕暮れの街は、冷たい風が吹いているが、イルミネーションが美しく輝いている。

コートの襟を合わせ、私は歩き出した。

今日は父と母と食事をする約束がある。

離婚後、両親との関係は以前よりも良好になった。

特に父は、「変な男を宛てがってすまなかった」と私に頭が上がらないようで、今は私の事業を全面的にバックアップしてくれている。


ふと、信号待ちをしている時、向こう側の歩道に一人の男の姿が見えた。

薄汚れた作業着を着て、コンビニの袋を提げて歩く、猫背の男。

白髪が増え、顔はむくみ、目は虚ろだ。

すれ違う人々が彼を避け、彼もまた、誰とも目を合わせようとしない。


……翔吾だ。

一瞬、見間違えかと思ったが、あの特徴的な歩き方は間違いない。

かつての彼は、常に胸を張り、自信満々に歩いていた。

今はまるで、重い荷物を背負わされた老人のようだ。

彼の視線が、ふとこちらに向いた気がした。

けれど、彼の瞳には何も映っていないようだった。

綺麗なコートを着た、幸せそうな女性。

今の彼にとって、私はただの「風景」の一部であり、かつての妻だと認識することさえできないのかもしれない。

あるいは、認識したくなくて、無意識に視線を逸らしたのか。


信号が変わる。

私は彼の方へ歩き出したわけではない。

彼とは逆方向へ、背を向けて歩き出した。

声をかけるつもりも、憐れみをかけるつもりもない。

彼と私は、もう住む世界が違うのだ。


「……お幸せに」


皮肉でもなんでもなく、私は小さく呟いた。

彼が選んだ地獄の中で、精一杯這いつくばって生きればいい。

それが、彼に残された唯一の「生」なのだから。


駅前の広場では、若いカップルたちが楽しそうに笑い合っている。

その中に、とても幸せそうなオーラを放つ二人連れがいた。

理知的な顔立ちの青年と、彼を尊敬の眼差しで見つめる可愛らしい女性。

男性の指と、女性の指には、お揃いの指輪が光っている。

もしかしたら。

本当にただの偶然の妄想に過ぎないけれど。

あの青年が、私にメールをくれた湊様かもしれない。

なんとなく、そんな気がした。

彼は過去を乗り越え、新しい幸せを掴んだのだろうか。

もしそうなら、心から祝福したい。

あなたのおかげで、私も自由になれました、と。


私は夜空を見上げた。

一番星が、澄んだ空気の中で鋭く輝いている。

私の人生は、まだ半ばだ。

一度の失敗で終わるほど、私の人生は安っぽくない。

これからは、誰かのためではなく、私自身のために生きていく。

自分の足で立ち、自分の目で見極め、自分の手で幸せを掴み取る。

それが、元・神崎玲子という女の、新しい生き方なのだ。


私はヒールの音を高く響かせ、光の溢れる街へと、力強く歩き出した。

冬の風は冷たいけれど、今の私には、それが心地よい追い風のように感じられた。

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