第六話 アップデート・完了
東京都港区、六本木。
ガラス張りの高層オフィスビル『グランドタワー』の二十八階に、俺、湊蓮が勤務する大手IT企業『サイバーネクスト』の開発フロアはある。
広々としたデスクには、最新鋭のデュアルモニターとハイスペックなマシンが鎮座している。
キーボードを叩く軽やかな音だけが、静寂な空間にリズムを刻んでいた。
「……よし。コンパイル完了。バグなし」
画面に表示された『Build Successful』の緑色の文字を見て、俺は小さく息を吐き、伸びをした。
入社して二年。
俺は今、この会社でシニアエンジニアとして、大規模なクラウドシステムの開発プロジェクトを任されている。
学生時代から培ってきた技術力に加え、あの「事件」を経て身についた冷徹なまでの論理的思考とリスク管理能力が、皮肉にも仕事においては最強の武器となった。
感情に流されず、事実に基づいて最適解を導き出す俺のスタイルは、社内でも高く評価され、異例のスピード出世を果たしていた。
「湊先輩、お疲れ様です。さすがですね、あの難解なモジュール、もう終わらせちゃったんですか?」
背後から、鈴を転がすような明るい声がかかる。
振り返ると、そこにはコーヒーの入ったマグカップを二つ持った女性が立っていた。
一ノ瀬真耶。
俺の二年後輩にあたる二十四歳で、同じチームに所属するUIデザイナーだ。
肩まで切り揃えられた黒髪が艶やかで、知的な瞳の奥に、いつもひたむきな情熱を宿している。
「ああ、ありがとう一ノ瀬。ボトルネックになってた処理、アルゴリズム書き換えたらスムーズに流れるようになったよ」
「すごい……! 私なんて、デザインの修正だけで手一杯なのに。やっぱり先輩は私の目標です」
真耶は尊敬の眼差しを向けてくる。
その瞳には、かつての琴羽が向けていたような、甘ったるい依存や打算の色は微塵もない。あるのは、一人のプロフェッショナルとしての敬意と、そして……純粋な好意だ。
「買いかぶりすぎだよ。君のデザインだって、ユーザービリティが高くて評判いいじゃないか。クライアントも喜んでたぞ」
「そ、そうですか? えへへ、先輩に褒められると自信になります」
彼女は照れ臭そうに頬を染め、コーヒーを俺のデスクに置いた。
ふわりと、優しい石鹸の香りがした。
あの強烈な香水の匂いとは違う、清潔で安心できる香り。
俺たちが交際を始めたのは、半年前のことだ。
入社当初、過去の傷を引きずり、誰に対しても心の壁を作っていた俺に、彼女は根気強く、しかし踏み込みすぎない距離感で接してくれた。
「先輩の背中を見てると、安心するんです」
そう言ってくれた彼女の誠実さに、俺の凍りついていた心は少しずつ解凍されていった。
彼女は、俺が過去に酷い裏切りに遭ったことを知っている。
詳しくは話していないが、「信じていた人に裏切られて、人間不信になっていた時期がある」と伝えた時、彼女はただ黙って俺の手を握り、「今の湊さんが素敵なら、それでいいです」と言ってくれた。
その言葉が、俺を過去の呪縛から救い出してくれたのだ。
「さてと、今日はキリがいいから上がろうか。……予約の時間、ギリギリになりそうだし」
「あ! そうでしたね! 急がないと!」
今日は、俺たちにとって特別な日だ。
付き合って半年の記念日であり、そして俺にとっては、人生の新たなフェーズへ進むための決意の日でもある。
俺たちはパソコンをシャットダウンし、オフィスを後にした。
エレベーターで一階に降り、エントランスを出る。
冬の澄んだ空気が、火照った頭を心地よく冷やしてくれる。
街はクリスマスイルミネーションで彩られ、幸せそうなカップルたちが行き交っていた。
二年前の俺なら、この光景を見て胸を痛めていただろう。
だが今は、隣にいる真耶の手の温もりだけが、俺の世界の全てだった。
***
タクシーで向かったのは、お台場の海沿いにあるイタリアンレストランだった。
レインボーブリッジと東京タワーの夜景が一望できる、予約の取れない人気店だ。
案内されたのは、窓際の特等席。
キャンドルの揺らめく光が、真耶の顔を優しく照らしている。
「わぁ……綺麗。こんな素敵な場所、初めてです」
「喜んでもらえてよかった。今日は特別だからね」
シャンパンで乾杯し、コース料理を楽しむ。
会話は尽きない。
仕事の話、趣味の映画の話、次の休みの計画。
琴羽との会話は、いつも彼女の愚痴か、欲しいものの話か、俺への要望ばかりだった。
でも真耶との会話は違う。
お互いの価値観を共有し、尊重し合い、未来を語り合うことができる。
「一緒にいる」ということが、これほどまでに安らぎと活力を与えてくれるものだとは、俺は彼女に出会うまで知らなかった。
メインディッシュが終わり、デザートが運ばれてくるタイミングで、俺はポケットに忍ばせていた小箱を握りしめた。
手汗が滲む。
大規模システムのリリース直前よりも緊張しているかもしれない。
「……真耶」
「はい?」
スプーンを口に運ぼうとしていた彼女が、俺の方を向く。
俺は居住まいを正し、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「俺は、過去に失敗をした。人を見る目がなかったし、傷つくのが怖くて、本当の意味で人と向き合えていなかったのかもしれない」
「湊さん……」
「でも、君と出会って、俺は変われた。信じることの強さを、君が教えてくれたんだ。……これからの人生、楽しいことばかりじゃないかもしれない。またバグが発生するかもしれない。でも、君と一緒なら、どんなトラブルも解決していけると思う」
俺は小箱を取り出し、テーブルの上で開いた。
中には、シンプルなデザインながらも、最高品質のダイヤモンドが輝くプラチナの指輪。
給料の三ヶ月分を優に超える、俺の覚悟の結晶だ。
「真耶。俺と、結婚してください」
一瞬の静寂。
周囲の雑音が消え、世界に二人だけになったような感覚。
真耶の大きな瞳から、ぽろりと涙が溢れ落ちた。
「……はい。……はいっ!」
彼女は何度も頷き、ハンカチで口元を押さえた。
「私で、いいんですか……? 私、ドジだし、湊さんみたいに完璧じゃないし……」
「君がいいんだ。君じゃなきゃ、ダメなんだ」
俺は彼女の左手を取り、薬指に指輪を滑らせた。
サイズはぴったりだ。
彼女の指で輝くそのリングは、かつて俺が琴羽に渡そうとして渡せなかった安物とは違う、本物の輝きを放っていた。
「ありがとうございます……。私、世界で一番幸せです」
泣き笑いのような表情で微笑む彼女を見て、俺の心の中にあった最後の「しこり」が、音もなく消滅していくのを感じた。
琴羽への恨みも、神崎への憎しみも、もうどうでもいい。
俺は今、過去を完全に上書き保存し、新しいバージョンへとアップデートされたのだ。
***
レストランを出ると、夜風はいっそう冷たくなっていた。
だが、繋いだ手から伝わる温もりが、寒さを忘れさせてくれる。
俺たちは駅に向かって、イルミネーションで飾られた並木道をゆっくりと歩いていた。
「夢みたい……」
真耶は左手を掲げ、街灯の光に指輪をかざしてうっとりしている。
「夢じゃないよ。これから、もっと幸せにするから」
「はい。私も、湊さんを支えられるように頑張ります!」
幸せの絶頂にいた俺たちの視界に、ふと、異質なものが飛び込んできた。
駅前の広場。
煌びやかなイルミネーションの下で、大勢の人々が行き交う中に、ぽつんと立っている人影があった。
薄汚れたベージュのダウンコートを着て、マスクをし、通行人にティッシュを配っている女性だ。
寒さで震えているのか、それとも疲労からか、その動きは緩慢で、誰からも相手にされていない。
多くの人が、汚いものを避けるように彼女を迂回していく。
「……寒い中、大変そうですね」
真耶が同情のこもった声で呟く。
俺は何気なくその女性に目を向けた。
その瞬間、女性が顔を上げ、俺たちの方を見た。
マスクの上から覗く目。
生気のない、澱んだ瞳。
目の下にはクマがあり、肌は荒れている。
髪はパサつき、根本が黒くプリン状態になっている茶髪。
だが、俺はその目を忘れていなかった。
かつて六年間、毎日のように見つめ合った目。
そして、最後に俺を嘲笑い、絶望に染まった目。
桜井琴羽だ。
彼女もまた、俺に気づいたようだった。
配っていたティッシュを持つ手が止まる。
見開かれた目が、俺の顔と、隣にいる真耶を行き来する。
そして、俺たちの繋がれた手と、真耶の薬指に輝く指輪に釘付けになった。
「……あ……」
マスク越しに、彼女の声が聞こえた気がした。
彼女はふらりと一歩、こちらに近づいてきた。
「……れ、蓮くん……?」
掠れた声。
真耶が「え?」という顔で俺を見る。
琴羽はマスクをずらし、そのやつれ果てた素顔を晒した。
頬はこけ、口角は下がり、かつての華やかさは見る影もない。
まるで十歳以上老け込んだようだ。
彼女は縋るような目で俺を見つめた。
その目には、「助けて」「許して」「まだ私のこと好きでしょ?」という、身勝手で浅ましい期待が渦巻いていた。
「蓮くん……だよね? 私だよ、琴羽だよ……」
彼女が手を伸ばしてくる。
その指先は赤切れし、爪は短く切られ、マニキュアなど塗られていない。
かつて俺に家事を押し付け、自分はネイルサロンに通っていたその手。
俺は足を止めた。
琴羽の顔を見る。
かつては、この顔を見ると胸がときめいた。
裏切られた時は、はらわたが煮えくり返るような怒りを覚えた。
だが、今。
俺の胸に去来した感情は、「無」だった。
怒りも、悲しみも、同情さえもない。
道端に転がっている石ころを見るのと同じ感覚。
彼女はもう、俺の人生というプログラムにおいて、認識する必要のない「削除済みデータ」なのだ。
「湊さん? 知り合いですか?」
真耶が不思議そうに俺に尋ねた。
俺は琴羽から視線を外し、真耶の方を向いて、優しく微笑んだ。
「ううん、全然」
俺ははっきりと答えた。
「知らない人だ」
その言葉を聞いた瞬間、琴羽の表情が凍りついた。
絶望。
拒絶よりも残酷な、完全なる「無視」。
存在そのものを否定された衝撃に、彼女は口をパクパクとさせ、言葉を失った。
「そうですか。人違いだったみたいですね」
真耶は俺の言葉を疑うことなく、納得してくれた。
「行こうか、真耶。風邪ひいちゃうよ」
「はい!」
俺は琴羽の横を、視線もくれずに通り過ぎた。
彼女の放つ、古びた衣服の匂いと、安っぽい生活臭が鼻をかすめたが、それも一瞬のことだった。
俺たちの背後で、ガサリと何かが落ちる音がした。
おそらく、彼女が持っていたティッシュの束だろう。
「あ……あぁ……」
嗚咽のような声が聞こえたが、俺は振り返らなかった。
隣には、未来の妻がいる。
前には、輝かしい未来が広がっている。
後ろを振り返る必要など、もうどこにもないのだ。
***
桜井琴羽は、寒空の下、コンクリートの地面に散らばったポケットティッシュを見つめていた。
拾わなきゃ。
これ全部配り終わらないと、今日の日給がもらえない。
そう思うのに、体が動かない。
指先が震え、涙が溢れて止まらない。
今の彼は、今まで見た中で一番カッコよかった。
仕立ての良い高級なコートを着て、自信に満ちた顔をして。
そして隣にいた女性。
若くて、綺麗で、品があって。
何より、あの指輪。
あんなに大きなダイヤモンド。
あれは、本来なら私の指にあるはずだったものだ。
私が、あの「安全地帯」で、彼に守られて、幸せに笑っていたはずだったのだ。
「……ううっ……」
二年前、実家を追い出された私は、友人の家を転々としたが、すぐに全員から縁を切られた。
神崎には暴力を振るわれ、逃げ出した。
大学は中退した。学費を払えなかったからだ。
就職先などあるはずもなく、日雇いのバイトや水商売の体験入店で食いつなぐしかなかった。
安いアパートの家賃を払うので精一杯。
食事はコンビニの廃棄や、半額の弁当。
肌は荒れ、服はヨレヨレになり、心は荒んだ。
毎日、後悔した。
どうしてあんな馬鹿なことをしたんだろう。
どうして蓮くんを裏切ったんだろう。
あの温かい部屋。美味しい手料理。優しい笑顔。
それがどれほど奇跡的な幸福だったのか、失って初めて気づいた。
「蓮くん……蓮くん……」
名前を呼んでも、彼はもう振り向かない。
「知らない人」。
そう言われた時の彼の目は、私を人間として見ていなかった。
ただの背景。ただの障害物。
彼の中で、私は完全に死んだのだ。
「戻りたい……あの頃に……戻りたいよぉ……」
琴羽はその場に蹲り、人目も憚らずに泣き崩れた。
通行人たちが、冷ややかな視線を向けて通り過ぎていく。
「何あれ」「関わらない方がいいよ」
そんな囁き声が聞こえる。
かつて自分が、蓮を「重い」「ATM」と見下していた報い。
自分が他人の心を土足で踏みにじった代償。
それは、一生消えない焼き印のように、彼女の背中に張り付いている。
彼女はこれからも、この冷たい世界で、誰からも愛されず、誰にも必要とされず、ただ「かつて幸せだった記憶」だけを反芻しながら、孤独に生きていくしかないのだ。
イルミネーションの光が、涙で滲んで歪んで見える。
その光の向こう側へ消えていった二人の背中は、もう二度と、彼女の視界に映ることはない。
冬の夜空に、彼女の慟哭だけが虚しく吸い込まれていった。




