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六年間の純愛と、三ヶ月の裏切り。バグだらけの彼女を、僕が静かに削除(デリート)するまで  作者: ledled


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第五話 エラー・連鎖崩壊

週明けのオフィス街は、いつも通りの無機質な活気に満ちていた。

スーツ姿のサラリーマンたちが足早に行き交い、カフェからはコーヒーの香りが漂ってくる。

だが、株式会社アド・フロンティアの営業部フロアだけは、まるで通夜のような重苦しい沈黙に包まれていた。


神崎翔吾は、自席で小さくなっていた。

いつもなら、部下に対して大声で指示を飛ばし、余裕たっぷりに足を組んでコーヒーを啜っている時間だ。しかし今は、視線をパソコンのモニターに固定し、周囲の視線から逃れるように背中を丸めている。

背中に突き刺さる視線が痛い。

ヒソヒソという話し声が、耳鳴りのように響く。


「……おい、あれだろ? 週末に流れた一斉メール」

「ああ、見た見た。女子大生と不倫して、奥さんにバレたってやつ」

「しかも経費で温泉旅行行ってたんだろ? 終わってるな」

「奥さんの実家、ウチの大口クライアントの重役だぜ? 社長も激怒してるらしいぞ」


同僚たちの容赦ない陰口が、断片的に聞こえてくる。

神崎はマウスを握る手に力を込めた。脂汗が額を伝う。

あのクソガキ、湊とか言ったか。あいつが本当にやりやがったのだ。

日曜の夜、神崎の個人メールと、会社のコンプライアンス通報窓口、そしてあろうことか部長や役員のアドレスまで含めた「CC」で、あの告発メールが届いた。

添付されていた圧縮ファイルの中身を見た瞬間、神崎は血の気が引くのを感じた。

MINEの履歴、ホテルの領収書、そしてあられもない写真の数々。

言い逃れなど不可能な、完璧な証拠だった。


「神崎」


低く、ドスの効いた声が頭上から降ってきた。

ビクリと肩を震わせて顔を上げると、営業部長が鬼の形相で立っていた。


「……はい、部長」

「社長がお呼びだ。第一会議室へ来い。……荷物をまとめてな」


「荷物をまとめて」という言葉の意味を理解した瞬間、神崎の目の前が真っ暗になった。

震える足で立ち上がり、部長の後についていく。

フロア中の視線が、処刑台に向かう囚人を見るような目で自分を追っているのを感じた。


会議室に入ると、そこには社長と人事部長、そして顧問弁護士が座っていた。

空気が凍りついている。


「神崎君」


社長が、氷のように冷たい声で切り出した。


「君が何をしたか、理解しているかね?」

「しゃ、社長、あれは誤解で……ただの遊びと言いますか、向こうが誘ってきて……」

「黙りたまえ!!」


社長の怒声が響き渡り、神崎は萎縮した。


「君の奥様のご実家である〇〇製作所から、今朝一番で連絡があったよ。『御社との取引を全面的に見直す』とな。理由はわかるな?」

「……ッ!」


〇〇製作所は、アド・フロンティアにとって年間売上の三割を占める最重要クライアントだ。

神崎がこの会社でデカい顔をできていたのも、ひとえに妻・玲子の実家との太いパイプがあったからに他ならない。

そのパイプが、自らの愚行によって断ち切られたのだ。


「君のしたことは、会社の信用を著しく毀損する背任行為に等しい。経費の私的流用についても、調査チームが裏を取っている。出張と偽って温泉に行っていた件だ。……弁明の余地はないな?」

「そ、それは……返します! 金なら返しますから!」

「金の問題ではない!」


人事部長が机を叩いた。


「本来なら懲戒解雇処分にするところだが、会社の恥をこれ以上晒したくないという判断で、諭旨退職扱いにしてやる。温情だと思え。ただし、退職金は出ない。そして、業界内での君の評判がどうなるかは……想像がつくだろう?」


諭旨退職。実質的なクビだ。

しかも、この業界は狭い。不倫で大口顧客を怒らせて会社を追われた男など、どこの代理店も雇うはずがない。


「き、今日付でですか……?」

「今すぐだ。社員証と社用携帯を置いて、即刻立ち去れ。二度と敷居を跨ぐな」


神崎は、崩れ落ちそうになる膝を必死に支えながら、社員証をテーブルに置いた。

十年間、コネと処世術だけで築き上げてきたキャリアが、音を立てて崩壊した瞬間だった。


会社を追い出された神崎は、ふらふらと昼間の街を歩いた。

行く当てはない。

家に帰れば、玲子が待っているはずだ。

いや、玲子はまだ許してくれるかもしれない。

彼女は俺に惚れていたはずだ。土下座して謝れば、あるいは義父にとりなしてくれるかもしれない。

そんな虫のいい期待を抱きながら、神崎はスマホを取り出した。

自分のスマホだ。

玲子に電話をかける。


『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』


無機質なアナウンス。

着信拒否ではない。解約されている?

嫌な予感がして、自宅の固定電話にかける。

繋がらない。

神崎はタクシーを拾い、世田谷にあるマンションへと急がせた。

妻の実家の援助で購入した、高級マンションだ。


玄関の前に立ち、鍵を差し込む。

回らない。

鍵が変えられている。


「な、なんだよこれ……!」


ドアを叩こうとしたその時、背後から声をかけられた。


「神崎翔吾さんですね?」


振り返ると、スーツ姿の男が二人立っていた。

一人は見知らぬ男、もう一人は玲子の父親の秘書だ。


「……何の用だ。玲子はどこだ!」

「玲子様は、ご実家に戻られました。私は代理人の弁護士です」


弁護士と名乗った男が、一枚の封筒を差し出した。


「離婚協議書の案と、慰謝料請求書です。不貞行為の証拠は揃っておりますので、争っても無駄かと。また、このマンションは玲子様の名義ですので、直ちに退去していただきます。荷物はトランクルームに送りました」

「ふ、ふざけるな! 俺の家だぞ! 玲子を出せ!」

「玲子様は、『不潔なあなたと顔を合わせるだけで吐き気がする』と仰っています。以降、連絡は全て私を通していただきます」


秘書の男が、冷ややかな目で見下ろしながら付け加えた。


「会長からは、『二度と娘に近づくな。もし近づけば、社会的に抹殺する』との言付けです。……まあ、すでに社会的には死んだも同然でしょうが」


二人は用件だけを伝えると、さっさと立ち去っていった。

神崎は、その場にへたり込んだ。

手には、離婚届と、五百万円の慰謝料請求書。

そして、資産凍結の通知。

仕事も、家庭も、金も、家も。

全てを失った。

たった一度の、いや、数ヶ月の火遊びの代償として。


「……くそっ、くそぉぉぉっ!!」


高級マンションの廊下に、神崎の情けない絶叫がこだました。


***


一方、その頃。

都内近郊にある住宅街の一角。

桜井琴羽の実家では、重苦しい空気が張り詰めていた。


「……これが、事実なのか?」


父親の低い声が、リビングに響く。

テーブルの上には、湊蓮から送られてきた「報告書」と、生々しい写真の数々が広げられていた。

琴羽はソファの端で小さくなり、膝を抱えて震えていた。

母親は隣でハンカチを目に当て、さめざめと泣いている。


「お父さん、違うの……これは、その……」

「何が違うんだ! 写真に写っているのはお前だろう! しかも相手は既婚者……お前、何を考えているんだ!」


普段は温厚な父親が、これほどまでに激昂する姿を、琴羽は初めて見た。

湯呑みが床に叩きつけられ、粉々に砕け散る。


「湊くんはな、お前を本当に大切にしてくれていたんだぞ。学生時代からずっと、お前のわがままを聞いて、支えてくれて……それをなんだ、この裏切りは!」

「だ、だって……湊くん、最近冷たかったし……マンネリだったし……」

「ふざけるな!」


父親の怒声が飛ぶ。


「自分の非を棚に上げて、相手のせいにするな! お前が貞操観念のないふしだらな女になり下がっただけだ! 親として情けない……こんな娘に育てた覚えはないぞ!」

「あなた、言い過ぎよ……」

「黙ってろ! お前が甘やかすからこうなったんだ!」


琴羽は唇を噛み締めた。

なんで私がこんなに責められなきゃいけないの。

確かに浮気はしたけど、悪いのは誘ってきた神崎だし、勝手にスマホを見て晒し者にした湊だって最低じゃない。

心の中でそんな身勝手な言い訳を繰り返すが、口に出せばさらに火に油を注ぐことはわかっていた。


「……もういい。お前には失望した」


父親は吐き捨てるように言った。


「大学は卒業させてやる。だが、それ以降の援助は一切しない。この家からも出て行け。勘当だ」

「えっ……嘘でしょ? お父さん、待ってよ!」

「本気だ。お前のような恥知らずを置いておくわけにはいかない。……湊くんに土下座して謝ってこい。許してもらえるとは思えんがな」


父親は背を向け、部屋を出て行ってしまった。

母親も、「どうしてこんなことに……」と泣きながら、父親の後を追う。

リビングに取り残された琴羽。

テーブルの上の写真が、嘲笑うように彼女を見つめている。

昨日の夜、湊に追い出され、泣きながら実家に逃げ帰ってきた。

両親なら味方してくれると思った。

「湊くんがひどいことするの」と言えば、慰めてくれると思った。

だが、湊の手回しは完璧だった。

私の言葉よりも先に、客観的な「証拠」が届いていたのだ。


「……なんでよ。なんでみんな、私をいじめるのよ」


琴羽は爪を噛んだ。

スマホを見る。

湊からはブロックされている。

SNSの裏垢も削除された。

友人たちからのMINEは、未読のまま溜まっている。

おそらく、湊から事情を聞いた友人たちが、私を責めるメッセージを送ってきているのだろう。

怖くて開けない。


「就活……行かなきゃ」


ふと、今日が第一志望の企業の最終面接であることを思い出した。

こんな精神状態でまともに話せるわけがない。

でも、行かなければ未来が閉ざされる。

琴羽はフラフラと立ち上がり、スーツに着替えた。

鏡に映る自分の顔は、目の下が黒く窪み、幽霊のようにやつれていた。

厚化粧でなんとか隠し、家を飛び出した。


面接会場の待合室。

周りの学生たちは皆、希望に満ちた目をしている。

琴羽だけが、泥沼のような暗いオーラを纏っていた。

名前を呼ばれ、面接室に入る。


「桜井さんですね。志望動機をお聞かせください」


面接官の男性が微笑む。

その笑顔が、一瞬、神崎のいやらしい笑顔と重なった。

あるいは、最後の夜に見せた湊の冷酷な笑顔と。


「は、はい……私は、御社の……その……」


言葉が出てこない。

喉が詰まる。

視線が定まらない。

面接官の左手の薬指に、銀色の指輪が光っているのが見えた。

既婚者。

不倫。

写真。

破滅。


『お前はただの穴だ』


幻聴が聞こえた気がした。

息が苦しい。


「桜井さん? 大丈夫ですか?」

「ひっ……ご、ごめんなさい! ごめんなさい!」


琴羽は耐えきれず、面接室から逃げ出した。

廊下を走り、非常階段を駆け下りる。

後ろで誰かが呼ぶ声がしたが、もうどうでもよかった。

終わった。

何もかも。


ビルを出て、近くの公園のベンチに倒れ込むように座った。

呼吸が荒い。

冷たい秋風が、汗ばんだ肌を冷やす。

スマホを取り出す。

誰か、助けて。

誰でもいい。

指が勝手に動く。

連絡先リストの中に、唯一残っている「希望」。

神崎翔吾。

彼もまた、湊の復讐によって追い詰められているはずだ。

だからこそ、傷を舐め合えるかもしれない。

彼なら、私の気持ちをわかってくれるかもしれない。

「奥さんと別れたよ。これからは二人で生きよう」と言ってくれるかもしれない。

そんな、あまりにも都合の良い妄想にすがりつくしかなかった。


コール音が鳴る。

一度、二度、三度。

切れるかと思ったその時、繋がった。


『……なんだ』


不機嫌そうな、低い声。


「あ、翔吾くん!? 私、琴羽! よかった、繋がって……」

『テメェか……よくも電話してこれたな』

「えっ?」

『お前の彼氏のせいで、俺の人生めちゃくちゃだよ! 会社はクビ、嫁とは離婚、慰謝料請求に実家からの絶縁! 全部テメェのせいだ!』


怒鳴り声が鼓膜を破りそうになる。


「ち、違うよ! 私だってひどい目に遭ってるの! 親に勘当されて、就活も失敗して……私たち、被害者同士じゃない!」

『被害者? ふざけんな! お前の管理が甘いからバレたんだろ! セキュリティとか抜かしてたあの彼氏に、まんまとハッキングされやがって!』

「そんな……だって翔吾くんだって、奥さんにバレないようにするって……」

『うるせえ! 今どこだ!』

「え……会ってくれるの?」

『ああ、会ってやるよ。文句の一つも言ってやらねえと気が済まねえ』


指定されたのは、新宿の歌舞伎町の外れにある薄汚い公園だった。

琴羽が到着すると、ベンチに座って缶チューハイを煽っている神崎がいた。

スーツはヨレヨレで、ネクタイは緩んでいる。

かつての「余裕ある大人の男」の面影はどこにもない。

ただの、落ちぶれた中年男だ。


「翔吾くん……」

「遅えよ」


神崎は空き缶を投げ捨て、琴羽を睨みつけた。

その目は充血し、殺気立っている。


「どうしてくれるんだよ、この落とし前は。俺の将来、どうやって補償すんだ」

「そ、そんなこと言われても……私だってお金ないし……」

「金がねえなら体で払えよ。どうせお前、そういうの得意だろ?」


神崎が下卑た笑いを浮かべて近づいてくる。

琴羽は恐怖で後ずさった。


「や、やめて……何言ってるの……私たち、愛し合ってたんじゃないの?」

「はあ? 愛? バカじゃねえの」


神崎は鼻で笑った。


「愛なわけねえだろ。お前はただの遊び相手だ。若い女子大生の体が目当てだっただけだよ。安上がりで、チョロくて、承認欲求満たしてやれば股開くバカ女。それだけだ」

「……え?」

「本気になるわけねえだろ。俺には玲子っていう完璧な妻がいたんだ。お前みたいなガキとは格が違うんだよ!」


言葉のナイフが、琴羽の心を滅多刺しにする。

遊びだった。

チョロいバカ女。

それが、彼にとっての私の価値。

湊との六年間の信頼を捨ててまで選んだ男の本性が、これだったのだ。


「う、嘘……ひどい……最低……!」

「最低なのはお前だよ。彼氏がいながら俺に尻尾振って、バレたら被害者面か? いいご身分だな」


神崎が手を伸ばし、琴羽の腕を掴んだ。


「離して! 触らないで!」

「うるせえ! 少しは俺のストレス解消に付き合え!」


パァン!

乾いた音が響いた。

琴羽の頬が熱くなる。叩かれたのだ。

暴力。

恐怖が全身を支配する。


「嫌ぁぁぁっ! 助けてぇっ!」


琴羽は必死で神崎の手を振りほどき、全速力で逃げ出した。

後ろから「待ちやがれ!」という怒声が聞こえたが、振り返らずに走った。

ヒールが折れ、転びそうになりながらも、なりふり構わず走り続けた。

大通りに出て、人混みの中に紛れ込むまで、彼女は足を止めなかった。


雑踏の中、琴羽は肩で息をしながら立ち尽くした。

髪はボサボサ、片方のヒールは折れ、頬は赤く腫れている。

通り過ぎる人々が、不審者を見るような目で彼女を避けていく。

ショーウィンドウに映った自分の姿は、まるでゴミのようだった。


「……あ、あはは」


乾いた笑いが漏れた。

何もかも失った。

恋人も、住む場所も、家族も、将来も。

そして、最後の頼みの綱だった浮気相手からも、ゴミのように捨てられた。

残ったのは、膨大な後悔と、孤独だけ。


ポケットの中でスマホが震えた。

友人からのMINEだ。

縋るような思いで画面を見る。


『琴羽、最低だね』

『湊くんから全部聞いたよ』

『あんたがそんな人だと思わなかった』

『もう関わらないで。ブロックするね』


大学のサークル仲間。高校時代の親友。

次々と届く絶縁のメッセージ。

湊は、共通の友人たちにも真実を伝えていたのだ。

私の居場所を、徹底的に潰すために。


「なんで……なんでよぉ……」


琴羽はその場に蹲り、声を上げて泣き出した。

道ゆく人々は、誰も彼女に声をかけない。

ただ冷ややかな視線を浴びせ、通り過ぎていくだけだ。

かつて湊が隣にいてくれた時には感じなかった、都会の冷たい風が、身を切るように吹き付けていた。


自業自得。因果応報。

その言葉の意味を、彼女は今、骨の髄まで味わっていた。

そして、この地獄がまだ入り口に過ぎないことを、彼女はまだ知らなかった。

湊蓮という「安全装置」を失った彼女の人生というシステムは、もはや修復不可能なまでに崩壊クラッシュしていたのだ。

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