第四話 システム・パージ(排除)
重厚な金属製のドアが、ドン、ドンと鈍い音を立てて振動している。
その音と共に、くぐもった叫び声が廊下から響いてくる。
「開けて! お願い、蓮くん! 開けてよぉっ!」
琴羽の声だ。
泣き叫び、喉を枯らしたその声には、もはや理性のかけらも残っていない。
俺は玄関のドアノブに手をかけ、二重ロックが確実にかかっていることを確認した上で、ドアスコープを覗き込んだ。
魚眼レンズの向こう側で、琴羽がドアに額を擦りつけ、拳で叩いている姿が歪んで見える。
髪は振り乱れ、マスカラが涙で溶けて頬を黒く汚している。
かつて俺が「守ってあげたい」と心から思った愛らしい顔は、今は見る影もなく崩れ落ちていた。
「寒いよぉ……中に入れて……ごめんなさい、なんでもするからぁ……」
彼女は靴も履かず、サンダルのようなつっかけだけで外に出された。
季節は秋も深まり、夜の冷え込みは厳しい。
だが、俺の心はそれ以上に冷え切っていた。
同情など湧くはずもない。彼女が神崎という男と肌を重ねていた時、俺がどれほどの寒気を感じていたか、彼女は想像もしなかっただろう。
俺はスマホを取り出し、マンションの管理会社に電話をかけた。
「あ、もしもし。夜分にすみません、〇〇号室の湊です。はい、実はちょっとトラブルがありまして……。元交際相手が部屋の前で騒いでいて、近隣の方のご迷惑になりそうなんです。はい、警察の方にお願いした方がいいでしょうか? ……わかりました、そちらから注意していただけるんですね。お願いします」
通話を終え、俺はドア越しに声を張り上げた。
「琴羽、聞こえるか」
ドアを叩く音が止まり、鼻をすする音が聞こえる。
「れ、蓮くん……? 開けてくれるの?」
「管理会社に通報した。あと数分で警備員か警察が来る。このまま騒ぎ続ければ、不法侵入や迷惑防止条例違反で連行されることになるぞ」
「えっ……?」
「就職活動中なんだろ? 警察沙汰になったら、内定どころの話じゃなくなるぞ。……まあ、もう手遅れかもしれないけどな」
俺の冷淡な言葉に、彼女が息を呑む気配がした。
就活、内定。その単語が、パニック状態の彼女の理性を辛うじて呼び覚ましたようだ。
「ひどい……どうして、そんなことするの……」
「ひどいことをしたのは誰だ? 自分の胸に聞いてみろ」
俺はそれ以上何も言わず、ドアから離れた。
しばらくして、廊下から足音が遠ざかっていくのが聞こえた。
エレベーターが到着する音。そして、静寂。
彼女は去った。
おそらく、逃げ場を失って実家に向かうか、あるいは神崎に助けを求めるかだろう。
どちらに転んでも、彼女を待っているのは地獄だ。
部屋に戻ると、リビングは異様なほど静かだった。
テーブルの上には、手つかずのハンバーグが冷え固まっている。
俺はそれを迷わずゴミ箱に捨てた。
もったいないが、この料理には彼女の嘘と俺の愚かさが染み付いている気がして、食べる気にはなれなかった。
時計を見る。二十一時。
ここからが本番だ。
俺はPCデスクの椅子に深く座り直し、スリープ状態だった画面を復帰させた。
モニターの明かりが、暗い部屋の中で俺の顔を青白く照らす。
画面上には、二つのメーラーウィンドウが開かれている。
一つ目の宛先は、『ad-frontier.co.jp』ドメインの、コンプライアンス通報窓口。
そしてもう一つは、神崎の妻、玲子さんの個人のメールアドレスだ。
玲子さんのアドレスは、彼女が運営している生け花教室のホームページから特定したものだ。
本来ならDMなどでコンタクトを取るべきかもしれないが、確実性を期すために、そして彼女に考える時間を与えるために、メールという手段を選んだ。
俺はまず、玲子さん宛のメールの文面を最終確認した。
『件名:神崎翔吾様の不貞行為に関するご報告と証拠の提出について』
『突然のご連絡、大変失礼いたします。
私は、湊蓮と申します。
貴女様の夫である神崎翔吾氏と、私の交際相手であった桜井琴羽との間で、約三ヶ月にわたり不貞行為が行われている事実を確認いたしました。
本件に関しまして、客観的な証拠(メッセージ履歴、写真、宿泊の記録等)を収集いたしましたので、添付ファイルにて送付させていただきます。
私としては、桜井琴羽とは本日をもって関係を解消いたしました。
突然このような事実をお伝えすることは心苦しいのですが、被害者である貴女様にも真実を知る権利があると考え、ご連絡差し上げました。
今後の対応につきましては、貴女様のご判断にお任せいたします。もし証拠の原本や追加の情報が必要であれば、ご遠慮なくお申し付けください。』
添付ファイルには、『Evidence_Kanzaki.zip』という圧縮ファイルを貼り付けてある。
解凍すれば、時系列順に整理された地獄絵図が展開される仕組みだ。
パスワードはかけていない。彼女がその気になれば、すぐにでも中身を確認できる。
俺はマウスカーソルを『送信』ボタンの上に合わせた。
指先に、微かな重みを感じる。
これを押せば、一つの家庭が壊れる。
神崎玲子という、会ったこともない女性の人生を大きく狂わせることになる。
罪悪感がゼロだと言えば嘘になる。
だが、それを上回る義憤と、けじめをつけなければならないという義務感が、俺の背中を押した。
元凶は神崎と琴羽だ。俺はただ、隠蔽されていた真実を、あるべき場所に還すだけだ。
「……さようなら」
誰に向けたわけでもない言葉と共に、俺は左クリックを押した。
『送信しました』のポップアップが表示される。
続いて、会社宛の通報メール。
こちらはより事務的に、事実関係のみを淡々と記述した。
社内規定違反、公序良俗に反する行為、そして会社の経費や時間を私的流用している疑い(OB訪問を装ったデートや、出張と偽った旅行)についても言及した。
『送信』。
二つの「爆弾」は投下された。
サイバースペースを通って、それぞれの標的へと音もなく飛んでいく。
着弾は明日、月曜日の朝になるだろう。
神崎が出社し、メールチェックをする時間。あるいは、コンプライアンス担当者が通報を確認する時間。
そして玲子さんが、夫を送り出した後の静かなリビングで、スマホを見る時間。
俺はPCを閉じ、大きく息を吐き出した。
もっと劇的な感情――例えば狂気的な笑いとか、涙とかが出るかと思っていたが、実際には驚くほど静かなものだった。
まるで、長いデバッグ作業を終えて、正常に動作するようになったプログラムを見届ける時のような、乾いた達成感だけがあった。
その夜、俺はウィークリーマンションへの引っ越し準備を進めた。
この部屋の契約は今月末まで残っているが、もう一秒たりともここにいたくなかった。
必要なものだけをキャリーケースに詰め込む。
琴羽との思い出の品――ペアのマグカップ、一緒に買ったクッション、記念日の写真立て――は、全てゴミ袋に放り込んだ。
躊躇いはなかった。
それらはもう「思い出」ではなく、「汚染物質」でしかないからだ。
***
翌朝。月曜日。
俺は大学を休み、朝から引っ越し業者の到着を待っていた。
スマートフォンが震えたのは、午前十時を少し過ぎた頃だった。
画面を見る。
表示されているのは、登録のない番号。
だが、市外局番は東京の『03』。
俺は直感した。神崎だ。
深呼吸をして、通話ボタンをスワイプする。
「……はい、湊です」
『おい! お前、ふざけんなよ!!』
受話器の向こうから、劈くような怒鳴り声が飛んできた。
予想通りの第一声に、俺は冷静さを保ったまま、スマホを少し耳から離した。
「どなたでしょうか? 突然怒鳴られましても」
『とぼけんじゃねえ! 神崎だ! お前だろ、会社に変なメール送りつけたのは!』
神崎の声は震えていた。
怒りだけではない。焦燥と、恐怖が混じっている。
どうやら、会社で相当絞られている最中か、あるいは呼び出しを食らった直後なのだろう。
「ああ、神崎さんですか。はじめまして。……あ、『変なメール』とは失礼ですね。事実に基づいた公益通報のつもりですが」
『事実だとかどうでもいいんだよ! おかげで俺は今、部長に呼び出されて……クソッ、どうしてくれるんだ! 名誉毀損で訴えるぞ!』
「どうぞ。訴えてください。法廷で全ての証拠を公開することになりますが、よろしいんですか? MINEの履歴も、ホテルの領収書のコピーも、全部揃ってますよ」
『ッ……!』
神崎が言葉に詰まる気配がする。
痛いところを突かれたのだろう。
彼は俺を、ただの世間知らずの大学生だと思って舐めていたに違いない。
だが、俺は徹底的に準備をしてきた。
「それに、名誉毀損の成立要件をご存知ですか? 公共の利害に関する事実で、公益目的があり、真実であると証明できる場合は、違法性が阻却されるんですよ。今回の件、会社の経費不正使用の疑いも含めてますから、公益性は十分にあるかと」
俺が法律の知識を少しひけらかすと、神崎はさらに狼狽した様子を見せた。
『お、お前……何なんだよ……琴羽から聞いてたのと全然違うじゃねえか……』
「琴羽がなんて言ってたか知りませんが、彼女も僕のことを何も理解していなかったんでしょうね。……ああ、そうそう」
俺はわざと明るい声色を作って、トドメの一言を放った。
「会社だけじゃないですよ」
『……あ?』
「奥様の玲子さんにも、同じデータを送らせていただきました。昨夜のうちに」
沈黙。
電話の向こうで、呼吸が止まる音が聞こえたような気がした。
『……は?』
「奥様のメールアドレス、特定するのは簡単でした。今頃、ご覧になっているんじゃないですかね。あの、温泉旅館での楽しそうなツーショット写真」
『う、嘘だろ……? おい、嘘だと言え……!』
「嘘をつく理由がありません。……神崎さん、あなたは僕から大切なものを奪いました。だから僕も、あなたの大切なものを奪った。それだけのことです」
『ふざけるな! 俺には子供もいるんだぞ! 家庭を壊す気か!』
「家庭を壊したのは僕じゃありません。あなた自身ですよ。自業自得という言葉、ご存知ですよね?」
俺の冷徹な言葉に、神崎は絶句し、やがて「あ、ああ……」と呻き声を上げた。
背後で、「神崎! ちょっと来い!」という男性の太い声が聞こえる。
上司だろうか。
『くそっ……覚えてろよ……!』
捨て台詞と共に、通話が切れた。
プー、プー、プーという電子音が、俺の勝利を告げるファンファーレのように響いた。
不思議と、爽快感はあった。
ざまぁみろ、と思った。
だが同時に、ひどく虚しい気持ちも込み上げてきた。
こんな下劣な男に、俺の六年間の恋は踏みにじられたのだ。
相手がもっとマシな人間なら、まだ諦めもついたかもしれない。
だが、あんな情けない男に琴羽が惹かれたという事実が、俺自身の男としての自信を根底から揺さぶるようだった。
「……終わったな」
俺はスマホをポケットにしまい、部屋を見渡した。
ちょうどその時、インターホンが鳴った。
引っ越し業者だ。
「ちわーっす! 引っ越しのアリさんマークでーす!」
元気のいい作業員たちが部屋に入ってきて、テキパキと荷物を運び出していく。
俺の荷物は少ない。単身パックで十分だ。
琴羽の荷物が詰まった大量の段ボール箱は、部屋の隅に残されたままだ。
これらは午後、別の配送業者が回収に来て、彼女の実家へと着払いで発送される手配になっている。
作業は一時間ほどで終了した。
何もない、がらんどうになった部屋。
フローリングの床に、家具の跡だけが白く残っている。
二年間の生活の痕跡。
俺たちがここで笑い、ご飯を食べ、眠った日々の記憶。
それらが急速に色褪せ、過去の遺物へと変わっていくのを感じた。
俺は鍵を閉め、ポストに鍵を投函した(退去の立ち会いは管理会社に頼んで後日にしてもらった)。
マンションを出ると、秋晴れの空が広がっていた。
眩しい日差しに目を細める。
その時、スマホが再び震えた。
今度はMINEの通知だ。
『Kotoha』という名前。
『蓮くん、お願い、話を聞いて』
『お父さんとお母さんに怒られた。勘当だって言われた』
『神崎さんからも連絡が来て、もう終わりだって』
『私、どうしたらいいの?』
『死にたい』
通知バーに次々と表示されるメッセージ。
謝罪、報告、そして同情を誘う言葉。
「死にたい」。
卑怯な言葉だ。
かつての俺なら、この言葉を見て飛んでいったかもしれない。
だが今は、それが彼女の最後の切り札であり、計算された演技であることを見抜くことができた。
本当に死にたい人間は、MINEなんて送ってこない。
俺はアプリを開き、彼女のトーク画面を表示した。
これが最後だ。
『死ぬ気なんてないくせに、軽々しく言うな。
君が選んだ道だ。自分で責任を取れ。
二度と俺に関わるな。
さようなら』
送信ボタンを押し、すぐに『ブロック』を選択した。
彼女のアイコンが、俺のタイムラインから永遠に消える。
続けて、電話番号も着信拒否設定にする。
SNSの相互フォローも全て解除し、アカウント自体を非公開にした。
さらに念のため、今日中に携帯ショップに行って、電話番号を変更する予定だ。
これで、繋がりは完全に断たれた。
物理的にも、デジタル的にも。
俺の世界から、「桜井琴羽」というバグは完全にパージされたのだ。
「……よし」
俺はキャリーケースのハンドルを強く握りしめた。
振り返らない。
マンションを見上げることもせず、俺は駅に向かって歩き出した。
足取りは軽い。
心に空いた穴はまだ塞がらないけれど、風通しは悪くない。
ここからまた、新しいシステムを構築していけばいい。
今度はバグのない、堅牢で、美しいシステムを。
駅前の雑踏に紛れながら、俺は一歩ずつ、確かな足取りで未来へと進んでいった。
背後で、街の喧騒が、過去の亡霊たちを飲み込んでいくようだった。




