第三話 最後の晩餐
日曜日の夕暮れ時。部屋の中は、静寂と、煮込みハンバーグのデミグラスソースの香りで満たされていた。
俺、湊蓮は、キッチンに立ち、最後の仕上げを行っていた。
フライパンの中でふつふつと音を立てるソース。付け合わせのニンジンのグラッセと、ブロッコリーの鮮やかな緑。
それは、琴羽が一番好きなメニューだ。
記念日や、何かいいことがあった日には、彼女は決まってこれをリクエストした。「蓮くんのハンバーグは世界一だよ」と、無邪気な笑顔で頬張っていた姿が脳裏をよぎる。
だが今日、俺がこれを作っている理由は、愛でも祝福でもない。
これは「最後の晩餐」だ。
俺たちの六年という長い時間に終止符を打つための、儀式のようなものだ。
時計の針は十八時を回ろうとしている。
琴羽からは『今、東京駅に着いたよ! これから帰るね♡』というMINEが三十分前に届いていた。
俺は既読をつけ、『気をつけて。ご飯作って待ってる』と返した。
いつも通りの、優しい彼氏の返信。
その裏で、俺はリビングの大型テレビと自分のノートPCをHDMIケーブルで接続し、動作確認を終えていた。
PCのデスクトップには、『Presentation.pptx』というファイルが一つだけ置かれている。
中身は、企業の決算報告でも、研究発表のスライドでもない。
この二日間、彼女が「就活のOB訪問」という嘘で塗り固めて楽しんできた不貞行為の、動かぬ証拠をまとめたものだ。
俺はケーブルを一度外し、PCをスリープ状態にした。
まだ早い。
まずは彼女を迎え入れ、安心させ、慢心させなければならない。
高低差があればあるほど、落下した時の衝撃は大きくなる。
物理法則と同じだ。精神的なダメージも、落差によって最大化される。
ピンポーン、とインターホンが鳴った。
俺は深呼吸を一つして、表情筋を緩めた。
鏡を見なくてもわかる。今の俺は、彼女の帰りを待ちわびていた、優しく穏やかな「蓮くん」の顔をしているはずだ。
「はーい」
明るい声で応じ、玄関のドアを開ける。
「ただいまぁ! 蓮くん!」
そこには、少し疲れたような、けれどどこか艶っぽい表情を浮かべた琴羽が立っていた。
服装は出発前と同じオフィスカジュアルだが、髪の巻き方が少し変わっている。
そして何より、首元に巻かれたスカーフ。
いつもなら室内に入ればすぐに外すのに、今日はつけたまま靴を脱いでいる。
隠しているつもりなのだろうか。キスマークを。
「おかえり、琴羽。お疲れ様」
「うん、疲れたぁ……。新幹線、結構混んでてさ」
「そうか、大変だったな。荷物、持つよ」
「あ、いいよいいよ! 軽いし!」
俺がボストンバッグに手を伸ばそうとすると、彼女は過剰なほどに反応してそれを避けた。
中には、あの勝負下着が入っているのだろう。あるいは、男からのプレゼントか、旅行の思い出の品か。
俺は無理強いせず、「そう?」と微笑んでみせた。
「いい匂い! もしかしてハンバーグ?」
「正解。琴羽が頑張ってきたんだから、好物作ってあげようと思って」
「やったぁ! やっぱり蓮くん最高! 大好き!」
琴羽は靴を脱ぎ捨てると、俺に抱きついてきた。
甘い香水と、混じり合った微かな残り香。
かつては愛おしいと感じたその体温が、今はひどく不快な生温かさとして伝わってくる。
俺は彼女の背中に手を回し、優しく撫でた。
心の中で、冷徹にカウントダウンを開始しながら。
「さ、手洗っておいで。すぐ出せるから」
「うん! 着替えてくるね!」
琴羽はバッグを抱えたまま、逃げるように寝室へと入っていった。
証拠隠滅の時間だ。
俺はキッチンに戻り、皿に料理を盛り付けた。
湯気の向こうで、俺の目は冷たく光っていた。
数分後、部屋着に着替えた琴羽がリビングに戻ってきた。
スカーフは外され、首元まであるタートルネックのシャツを着ている。
徹底しているな、と思う。
彼女はテーブルに着くと、目の前の料理を見て目を輝かせた。
「わぁ、美味しそう! いただきまーす!」
一口食べた彼女は、大袈裟なほどに感嘆の声を上げた。
「んんー! 美味しい! 染みるわぁ……」
「よかった。口に合って」
「合うなんてもんじゃないよ。やっぱり蓮くんの料理が一番落ち着く。外のご飯もいいけど、家のご飯が最高だね」
よく言う。
昨夜は温泉旅館の豪華な懐石料理に舌鼓を打っていたくせに。
神崎のTwotter裏垢には、『彼女と温泉なう。料理も美味いし、酒も進む』という投稿と共に、アワビの踊り焼きの写真がアップされていたのを俺は知っている。
「工場見学はどうだった? 勉強になった?」
俺は水を向ける。
琴羽は一瞬、スプーンを持つ手を止めたが、すぐに笑顔を作った。
「う、うん! すごかったよ。ラインが自動化されててさ、ロボットがいっぱい動いてて。先輩もすごく親切に解説してくれて、やっぱり現場を見るのって大事だなって思った」
「へえ、どこの工場に行ったの?」
「えっと、北関東の方の……名前忘れちゃったけど、大きな工場団地があってさ」
嘘だ。
具体性がない。
彼女が見てきたのはロボットアームではなく、神崎という男の愚かな欲望だけだ。
「先輩って、どんな人なの? 優秀な人?」
「うん、すごく仕事できる感じの人! 厳しそうだけど、話すと面白いし、頼りになるっていうか。あ、でも全然おじさんだよ? 三十過ぎてるし」
「三十過ぎてたらおじさんか。俺たちもすぐそうなるよ」
「やだぁ、蓮くんはいつまでも若々しいよ。あんなおじさんとは違うもん」
琴羽は笑いながら、俺のグラスに水を注ぎ足してくれた。
その仕草がいじらしいほどに甲斐甲斐しい。
罪悪感の裏返しだ。
裏切っているからこそ、優しくする。
後ろめたいことがあるからこそ、普段以上に「いい彼女」を演じようとする。
その心理メカニズムが透けて見えて、俺は吐き気をこらえるのに必死だった。
「ねえ、蓮くん」
「ん?」
「私ね、今回のことで思ったの。やっぱり私には蓮くんしかいないなって」
「……どうして?」
「んー、なんかね。外の世界を見て、いろんな人と話して、刺激的ではあるんだけど……結局、帰ってくる場所はここなんだなって。蓮くんの隣が、私の一番の居場所なんだなって、改めて実感したの」
琴羽は潤んだ瞳で俺を見つめ、テーブルの上で俺の手に自分の手を重ねてきた。
その瞳には、一点の曇りもないように見える。
彼女自身、本気でそう思っているのかもしれない。
火遊びを楽しんで、刺激を満喫して、そして「安全地帯」である俺の元へ帰ってくる。
彼女にとってそれは、理想的なバランスなのだろう。
俺という存在を、都合の良い「母港」として利用しているに過ぎない。
「……そう思ってくれるなら、嬉しいよ」
俺は彼女の手を握り返さず、そっと引き抜いてグラスを持った。
琴羽は少し寂しそうな顔をしたが、すぐに気を取り直してハンバーグを食べ続けた。
食事が終わり、俺がコーヒーを淹れてリビングに戻ると、琴羽はソファでくつろいでいた。
テレビではバラエティ番組が流れている。
彼女はスマホをいじりながら、時折笑い声を上げている。
そのスマホの画面には、神崎からの『無事帰れた?』というメッセージが表示されているのかもしれない。あるいは、昨日の写真を見返して余韻に浸っているのかもしれない。
「琴羽」
俺はコーヒーカップをテーブルに置き、静かに彼女の名を呼んだ。
いつもと違う、低く硬い声色。
琴羽が顔を上げる。
「ん? 何? コーヒーありがと」
「少し、話があるんだ」
「話?」
「ああ。すごく、重要な話だ」
俺はリモコンを手に取り、テレビの音量を消した。
静寂が戻る。
琴羽は俺の真剣な表情を見て、少し頬を赤らめ、居住まいを正した。
「……重要な話って、何?」
彼女の目が、期待に揺れているのがわかった。
そうか。
彼女は勘違いしている。
就活の悩みを乗り越え、「やっぱり蓮くんしかいない」と再確認した直後の、この真剣な雰囲気。
彼女の脳内では、「プロポーズ」という五文字が浮かんでいるに違いない。
大学四年生。周りでも結婚を意識し始めるカップルが増えてくる時期だ。
六年間付き合って、同棲もしている。タイミングとしては完璧だ。
彼女は、自分が犯した罪が露見するとは微塵も思わず、むしろ「愛が深まった」と錯覚している。
「私たち、もう六年だもんね……」
琴羽はもじもじしながら、上目遣いで俺を見てきた。
「うん、そうだね。六年だ。長いようで、あっという間だった」
「……うん」
「琴羽とは、たくさんの思い出を作ってきた。楽しいことも、喧嘩したこともあったけど、全部大切だと思ってた」
「思ってた……?」
彼女が僅かに眉をひそめる。
俺は立ち上がり、テレビの横に置いてあったノートPCを開いた。
HDMIケーブルを接続する。
テレビの画面が暗転し、PCのデスクトップ画面が表示された。
「蓮くん? 何するの?」
「琴羽に見てもらいたいものがあるんだ。これまでの……そう、総決算みたいなものかな」
「えっ、もしかして思い出ムービーとか!? やだ、恥ずかしいけど嬉しい!」
琴羽は手を合わせて目を輝かせた。
サプライズプロポーズの演出だと思っているのだ。
その無知さが、哀れで、そして滑稽だった。
「ああ、ある意味では思い出ムービーだ。君が、俺に隠れて作っていた思い出のな」
俺はエンターキーを叩いた。
スライドショーが始まる。
一枚目。
画面いっぱいに映し出されたのは、温泉旅館の入り口で撮られたツーショット写真だ。
琴羽が、見知らぬ男――神崎翔吾の腕に抱きつき、ピースサインをしている。
満面の笑み。
日付と時刻のタイムスタンプが、右下に鮮明に刻まれている。
『昨日 15:42』。
「……え?」
琴羽の笑顔が凍りついた。
意味が理解できないというように、目が点になる。
思考が停止しているのがわかる。
俺は無言で次のスライドへ進める。
旅館の部屋での食事風景。
浴衣姿で酌をする琴羽。
そして、布団の上でじゃれ合う二人の写真。
これらは全て、彼女が神崎のスマホで撮影し、後に自分に送らせてクラウドに保存していたものだ。
「あ……え、いや、あの……」
琴羽の口から、空気が漏れるような音がする。
顔から血の気が引いていくのが目に見えてわかった。
さっきまでの幸福なピンク色は消え失せ、土気色へと変わっていく。
さらにスライドを進める。
今度は、MINEとTwotter裏垢のスクリーンショットだ。
『蓮くんは優しいけど、重いんだよね』
『ただのATMだと思えば便利かな』
『翔吾くんとのセックスの後だと、彼氏とするの苦痛かも』
『早く別れたいけど、引っ越しとか面倒だし』
大画面に映し出される、彼女の本音。
醜悪な言葉の羅列。
それを、俺は淡々と読み上げた。
「『蓮くんは重い』。『ただのATM』。『セックスが苦痛』。……そう思ってたんだな、琴羽」
俺の声は、自分でも驚くほど冷静だった。
怒鳴ることも、泣くこともない。
ただ事実を確認するだけの、機械的な音声。
「ち、ちが……違う、違うの!!」
琴羽が悲鳴のような声を上げて立ち上がった。
テーブルの上のコーヒーカップが倒れ、茶色い液体がラグに広がるが、彼女は気にも留めない。
「何が違うんだ? これは君のアカウントだろ? 写真に写っているのも君だ。位置情報も、タイムスタンプも、全て整合性が取れている。言い逃れできるレベルじゃない」
「こ、これは、その……遊びで! 本気じゃないの! ただの冗談で書いただけ!!」
「冗談で既婚者と温泉旅行に行って、冗談で寝るのか? 神崎翔吾という男と」
男の名前を出した瞬間、琴羽は幽霊でも見たかのように目を見開いた。
「な……なんで、名前……」
「調べればすぐにわかる。情報工学を専攻している彼氏を持って、セキュリティ管理の甘い端末を使っていれば、丸裸にされるのは当然だ」
俺は冷ややかな目で見下ろした。
そこにいるのは、愛する恋人ではない。
嘘をつき、裏切り、俺を愚弄した、ただの浅はかな女だ。
「蓮くん、聞いて! お願い、聞いて!」
琴羽は俺の足元にすがりついてきた。
涙で化粧が崩れ、顔がぐしゃぐしゃになっている。
「寂しかったの! 蓮くん、最近忙しくて構ってくれなかったから……魔が差しただけなの! あの人が、しつこく誘ってきて、断れなくて……」
「被害者ぶるなよ」
俺は冷たく言い放った。
「ログは全部見た。君から積極的に誘っているメッセージも、君から『奥さんにバレないようにね』と助言しているメッセージも、全部保存してある。君は被害者じゃない。共犯者だ」
「ごめんなさい、ごめんなさい……! もう二度としない! すぐ別れる! ブロックするから! だから捨てないでぇ……!」
琴羽は子供のように泣きじゃくり、俺のズボンの裾を握りしめた。
「蓮くんがいないと生きていけない」「愛してるのは蓮くんだけ」と繰り返す。
その言葉の軽さに、俺の心は完全に冷え切っていた。
「愛してる? よくその口で言えるな」
俺は彼女の手を振り払い、一歩下がった。
「君が愛していたのは、俺じゃない。俺が提供する『便利で安楽な生活』と、『無条件に自分を愛してくれる都合のいい男』だ。でも、もうそのサービスは終了した」
「そ、そんな……」
「俺は、君みたいな不潔な人間とは一緒にいられない。同じ空気を吸うのも、同じ食器を使うのも、生理的に無理だ」
俺は彼女の目を見て、はっきりと告げた。
「別れよう、琴羽。今ここで」
琴羽は絶望に染まった顔で首を横に振る。
「いやだ、いやだぁ……」
だが、俺の決意は岩のように固い。
俺は顎で玄関の方をしゃくった。
「荷物は、まとめておいた」
「……え?」
琴羽が呆然と玄関の方を振り返る。
廊下の突き当たり、玄関ホールの明かりの下に、見覚えのある段ボール箱が積み上げられているのが見えた。
今日の昼間、彼女がいない間に俺が詰めたものだ。
彼女の服、靴、化粧品、そして思い出の品々。
生活に必要な最低限のものは、すべてあの箱の中にある。
「俺の家から出て行ってくれ。今すぐに」
「そ、そんな……急に言われても、行くところなんて……」
「実家に帰ればいい。優しいご両親が待ってるだろ」
「無理だよ! こんなこと言えるわけないじゃん!」
「言わなくていいよ」
俺は薄く笑った。
その笑顔は、きっと彼女が今まで見た中で一番冷酷なものだっただろう。
「事実は、俺から伝えておいたから」
「……え?」
「君のご両親には、詳細な報告書と、さっき見せた写真のプリントアウトを郵送済みだ。明日には届くと思うよ。だから、君が説明する必要はない」
琴羽の口がパクパクと動く。
声にならない悲鳴。
彼女は今ようやく、自分が置かれた状況の深刻さを理解し始めたようだ。
ただの痴話喧嘩ではない。
彼氏に浮気がバレて怒られた、というレベルではない。
社会的制裁と、生活基盤の崩壊が、同時に襲いかかろうとしているのだ。
「あ、あと」
俺は追い打ちをかけるように言った。
「神崎の奥さんと会社にも、同じものを送る手配をした。……さあ、忙しくなるぞ、琴羽。泣いてる暇なんてないんじゃないか?」
琴羽は腰が抜けたようにその場にへたり込み、焦点の定まらない目で俺を見上げた。
そこには、かつての輝きは微塵もなかった。
ただの抜け殻。
自らの欲望で身を滅ぼした、哀れな残骸。
俺はPCを閉じ、ケーブルを抜いた。
プツン、とテレビ画面が消え、部屋が少し暗くなる。
俺たちの関係も、これと同じだ。
スイッチ一つで消える。
六年間の愛も、信頼も、すべては幻だったのだ。
「立てよ。追い出されたくなかったら、自分で歩いて出て行け」
俺は冷徹に言い放ち、彼女が立ち上がるのを腕組みをして待った。
部屋には、彼女の嗚咽だけが、いつまでも虚しく響いていた。
これが、俺たちの最後の晩餐の結末だった。




