第二話 ログの解析
大学の講義室は、プロジェクターのファンが回る低い音と、教授の単調な声に支配されていた。
スクリーンには複雑なアルゴリズムの図解が映し出されている。周囲の学生の多くは、手元のスマートフォンをいじるか、船を漕いでいるかだ。
俺、湊蓮は、ノートPCのキーボードを叩き続けていた。
講義のメモを取っているわけではない。画面に並んでいるのは、昨夜タブレットから吸い出した画像データのファイル名と、それらに付随していたメタデータの一覧だ。
「Exif情報、位置情報、撮影日時……」
小声で呟きながら、俺はデータを整理していく。
昨晩、俺は一睡もできなかった。
琴羽が寝静まった隣で、天井のシミを数えながら、朝が来るのを待った。彼女の寝息が聞こえるたびに、胃の腑が締め付けられるような感覚に襲われた。
怒り狂って彼女を叩き起こし、画像を突きつけて問い詰めることもできただろう。
だが、それは悪手だ。
俺の目的は、単なる感情の発散ではない。
この「バグ」を完全に修正し、俺の人生からノイズを排除することだ。そのためには、中途半端な状態で動いてはいけない。言い逃れのできない、完全かつ致命的な証拠が必要だ。
そして何より、相手の男――『Sho』なる人物の正体を突き止めなければならない。
俺の大切なものを土足で踏み荒らした代償は、きっちりと払わせる必要がある。
講義終了のチャイムが鳴り、俺はPCを閉じた。
周りの学生たちが「腹減ったー」「食堂行く?」と呑気な声を上げているのが、ひどく遠くの世界の出来事のように感じられた。
俺は誰とも言葉を交わすことなく、早足で教室を後にした。
今日は金曜日。
琴羽は「OB訪問」と称して、明日から一泊二日で出かける予定だ。
つまり、決戦前夜ということになる。
***
帰宅すると、琴羽はすでに家にいた。
リビングの床には、一泊用にしては少し大きめのボストンバッグが広げられている。
その横には、新調したばかりの淡いピンク色のランジェリーが無造作に置かれていた。値札がついたままだ。
「あ、おかえり蓮くん! 早かったね」
琴羽は俺の顔を見ると、慌てたようにランジェリーをバスタオルで隠した。
その動作の不自然さと、隠されたものの意味。
俺の心臓が、冷たく脈打つ。
OB訪問に、新品の下着が必要なのか?
就職活動の相談をする相手に、そんなものを見せるつもりなのか?
答えは明白だ。
「ただいま。準備、進んでる?」
「う、うん! だいたい終わったよ。ほら、資料とか、着替えとか」
彼女はバスタオルごとランジェリーをバッグの奥に押し込み、代わりに企業のパンフレットのようなものをわざとらしく一番上に置いた。
その「資料」の下に、不貞の証拠が隠されている。その構造自体が、今の彼女そのものだ。
表面上は就活に励む真面目な女子大生。その内側には、ドロドロとした欲望と裏切りが渦巻いている。
「そっか。明日、何時の新幹線だっけ?」
「えっと、十時のやつ。東京駅集合で、そこから先輩と一緒に現地に向かうの」
「現地って?」
「あ、えっと、その企業の工場見学……みたいな? 地方の支社を見せてもらえるらしくて」
嘘だ。
昨夜のタブレットの写真の位置情報によれば、彼らが行こうとしているのは北関東の有名な温泉地だ。工場見学などという名目が通用する場所ではない。
「へえ、熱心だな。頑張ってこいよ」
「うん! ありがとう。蓮くんのおかげで頑張れるよ」
琴羽は満面の笑みでそう言い、俺に抱きついてきた。
甘い香水の匂い。
かつては安らぎを感じたその香りが、今は腐臭のように鼻につく。
俺は反射的に彼女を突き飛ばしたくなる衝動を、鋼のような理性で抑え込んだ。
その代わり、彼女の背中に手を回し、優しくポンポンと叩く。
これは演技だ。俺は今、役を演じている。
何も知らない、愚かで優しい彼氏という役を。
「汗かいちゃったから、先にお風呂入ってくるね。明日に備えて、念入りにケアしなきゃ」
琴羽は鼻歌交じりに立ち上がり、脱衣所へと消えていった。
シャワーの音が聞こえ始める。
「念入りにケア」。
その言葉が、誰のために向けられたものなのかを考えると、どす黒い感情が胸の奥からせり上がってくる。
だが、今は感傷に浸っている場合ではない。
チャンスだ。
彼女は今、完全に油断している。
スマホは脱衣所に持っていったようだが、リビングのテーブルには、彼女のノートPCが置かれたままになっている。
俺が大学入学祝いに選んでプレゼントした、薄型のノートPCだ。
セットアップも、セキュリティソフトの導入も、すべて俺がやった。
彼女は機械音痴で、OSのアップデートすら自分ではやらない。
「蓮くん、なんか画面に変なのが出たー」と俺に泣きつくのが常だった。
だからこそ、俺はこのPCの管理者権限(Administrator)を持っている。
俺は静かにPCを開いた。
スリープ状態から復帰し、ログイン画面が表示される。
パスワードは以前と同じなら『kotoha0515』だ。
俺は素早くキーを叩く。
ロックが解除された。
デスクトップ画面が表示される。
壁紙は、一年前の夏に二人で行った花火大会の写真だ。浴衣姿で笑い合う二人の姿。
その笑顔が、今はひどく空虚なピクセルの集合体に見える。
俺は感傷を振り払い、ブラウザの『Chrome』を立ち上げた。
彼女は基本的に、すべてのサイトで「パスワードを保存する」「ログイン状態を保持する」設定にしているはずだ。
まずは、SNSのチェックだ。
ブックマークバーにある『MINE』のアイコンをクリックする。
PC版MINEが起動する。
予想通り、自動ログイン設定が生きていた。
画面左側にトークリストが表示され、一番上にピン留めされているトークルームがあった。
相手の名前は『Sho』。
アイコンは、高級外車のハンドルの写真だ。
俺は震える指で、そのトークルームをクリックした。
右側の画面に、夥しい数のメッセージが滝のように流れ落ちてくる。
『翔吾くん、明日楽しみだね♡ 新しい下着買っちゃった!』
『俺もだよ、琴羽。早く会いたい。奥さんには出張って言ってあるから大丈夫』
『えー、奥さん可哀想(笑) でも私の方が翔吾くんのこと癒してあげられるもんね』
『当たり前だろ。家じゃ安らげないんだよ。琴羽だけが俺のオアシスだ』
『嬉しい♡ あ、そういえば彼氏にはなんて言ったの?』
『OB訪問って言ったら信じてたよ。チョロいよね、本当に』
「……ッ」
奥歯を噛み締めすぎて、顎が痛い。
画面上の文字が、意味を持つ凶器となって俺の心臓を抉ってくる。
『チョロい』。
そうか、俺はチョロいのか。
彼女を信じ、応援し、支えてきたこの六年間の全てが、彼女にとっては「チョロい」という一言で片付けられる程度のものだったのか。
俺は深呼吸をして、感情を「解析モード」に切り替えた。
怒るな。今はデータを集めろ。
俺はトーク履歴を一番上までスクロールし、テキストファイルとしてエクスポートした。
さらに、重要なやり取りはスクリーンショットで保存していく。
『翔吾』。名前は『翔吾』だ。
文脈からして、既婚者であることは確定。
「奥さんには出張と言ってある」という発言は、不貞行為の故意を示す重要な証拠になる。
次に、ブラウザの履歴を確認する。
ここ数日の検索履歴には、『温泉 混浴 カップル』『不倫 バレない方法』『年上男性 落とし方』といったワードが並んでいた。
その中に、一つ気になる履歴があった。
『Twotter 裏垢 作り方』。
そして、その直後にアクセスしているTwotterのページ。
俺はそのリンクをクリックした。
表示されたのは、『こと@秘密の恋』というアカウント名のプロフィールページだった。
アイコンは、首から下の自撮り写真。
胸元の開いた服を着て、鎖骨のあたりにキスマークがついているのが見える。
フォロワー数は三百人ほど。
プロフィール欄にはこう書かれていた。
『女子大生。彼氏いるけどレス気味。素敵な年上彼氏(既婚者)と秘密の関係進行中♡ 愚痴とか惚気とか。身バレ防止で鍵かけてます』
鍵アカウントだが、ログイン中のブラウザで見ているため、中身が丸見えだ。
投稿を遡る。
『彼氏の作るご飯、美味しいけど飽きたなー。刺激が足りない』
『今日も彼氏はゲームばっかり。私に興味ないのかな? 翔吾くんは会うたびに綺麗だよって言ってくれるのに』
『彼氏のこと嫌いじゃないけど、重いんだよね。結婚とかチラつかせてくるし。まだ遊びたいのに』
『罪悪感とか最初はあったけど、今はもうバレなきゃいいやって感じ(笑)』
そこには、俺が知る「桜井琴羽」はいなかった。
承認欲求と性欲に塗れ、俺を嘲笑い、不貞を正当化する、醜悪な化け物がそこにいた。
俺が愛していた彼女は、俺の幻想だったのか。それとも、彼女が変わってしまったのか。
どちらにせよ、今の彼女は俺にとって有害なマルウェアでしかない。
俺はこの裏アカウントの投稿も、全てPDF化して保存した。
そして、最も重要な作業に移る。
『Sho』こと『翔吾』の特定だ。
MINEの会話の中で、彼は自分の仕事について何度か言及していた。
『今月の広告コンペ、俺の企画が通ったわ』
『クライアントの飲料メーカー、マジでうるさい』
『明日は赤坂の本社で会議だ』
赤坂に本社がある広告代理店。
そして、琴羽が以前口にしていた「サークルの先輩の紹介」という言葉。
俺はブラウザの新しいタブを開き、検索窓に打ち込んだ。
『赤坂 広告代理店 翔吾』
いくつかの候補が出てくるが、絞りきれない。
そこで、Twotterの裏垢のフォロワー欄を見てみる。
『翔吾』らしきアカウントがいるはずだ。
琴羽のアカウントと相互フォローになっている人物を探す。
いた。
『Shogo_K』というIDのアカウント。
プロフィールには『Ad Agency / Producer / Car / Golf』とある。
典型的な、自分を大きく見せたいタイプの男のプロフィールだ。
投稿されている写真を見る。
高級時計、ゴルフ場、そして車のハンドル。
MINEのアイコンと同じ写真があった。
ビンゴだ。
さらに、この『Shogo_K』のアカウントから、彼の実名Facedookへのリンクを辿ることはできなかったが、投稿内容にあった『株式会社アド・フロンティアの創立記念パーティーなう』という写真から、勤務先が特定できた。
『株式会社アド・フロンティア』。
中堅の広告代理店だ。
俺はその会社の社員紹介ページや、業界ニュースのアーカイブを検索した。
『営業部 係長 神崎 翔吾』
顔写真付きのインタビュー記事が見つかった。
整った顔立ちだが、どこか薄ら笑いを浮かべたような、軽薄そうな男だ。
年齢は三十二歳。
俺より十歳も上だ。
記事の中で彼は、「仕事も家庭も円満の秘訣は?」という質問に対し、「妻の支えがあるからこそ、仕事に全力投球できます」などと答えている。
吐き気がする。
さらに調査を進める。
神崎翔吾の名前で検索を続けると、彼の妻と思われる人物のSNSに辿り着いた。
『神崎 玲子』。
Facedookのアカウントは公開設定になっていた。
プロフィール写真には、上品そうな着物を着た女性が写っている。
投稿内容は、生け花や茶道の稽古、そして飼っている犬の写真が主だ。
『今日は結婚記念日。翔吾さんはお仕事で忙しいみたいだけど、お花を贈ってくれました。感謝』
その投稿の日付は、琴羽と神崎が初めて食事に行った日と重なっていた。
神崎は妻に花を贈っておきながら、その裏で女子大生を口説いていたわけだ。
玲子の投稿をさらに見ていくと、彼女の父親が『アド・フロンティア』の主要取引先である大手メーカーの重役であることがわかった。
そして、玲子自身も実家が資産家であり、かなりのお嬢様育ちであるようだ。
なるほど。
神崎翔吾という男の輪郭が見えてきた。
妻の親の七光りで出世し、妻の実家の資産にぶら下がりながら、外では若い女と遊んでいる。
自分の実力ではなく、他人の褌で相撲を取っているだけの寄生虫。
それが、琴羽が選んだ「大人の男」の正体だ。
「……滑稽だな」
俺は静かに呟いた。
怒りを通り越して、哀れみすら感じる。
琴羽は、こんな男に人生を賭けたのか。
俺という、地味だが誠実に彼女を愛していた男を捨ててまで。
俺は神崎翔吾の顔写真、会社の情報、そして妻・玲子のアカウント情報を全て保存し、『Evidence』フォルダに格納した。
これで役者は揃った。
証拠は十分すぎるほどにある。
あとは、これをいつ、どのように切るかだ。
その時、風呂場の方からドライヤーの音が止まるのが聞こえた。
俺は素早くブラウザを閉じ、履歴を消去する。
ただし、MINEのログアウトだけはしないでおく。次にまた確認する時のために。
PCをスリープ状態に戻し、元の位置に置く。
俺はソファに座り、テレビのリモコンを手にした。
心臓の鼓動は、不思議なほど落ち着いていた。
やるべきことが明確になったからだろう。
ガチャリ、とドアが開き、琴羽が入ってきた。
上気した肌に、念入りに塗られたボディクリームの香りを漂わせている。
「ふぅ、温まったぁ。蓮くん、お待たせ」
「ああ、お疲れ」
俺はテレビから視線を外し、彼女の方を向いた。
彼女は俺の顔を見ると、一瞬だけ怪訝そうな顔をした。
「……蓮くん? なんか顔色悪くない? 大丈夫?」
「え? そうか? ちょっと課題で根詰めてたからかな」
「もう、無理しちゃダメだってば。ほら、肩揉んであげる」
琴羽は俺の背後に回り込み、肩に手を置いてきた。
その手は温かく、柔らかい。
以前なら、この感触に心から癒されていただろう。
だが今は、その手が俺の首を絞めるロープのように感じられる。
彼女の手が触れるたびに、彼女が神崎という男に触れている映像が脳裏にフラッシュバックする。
「……ありがとう、琴羽」
俺は声を絞り出した。
「明日、早いんだろ? もう寝た方がいいんじゃないか」
「うん、そうだね。蓮くんも早く寝てね?」
「ああ。俺ももうすぐ寝るよ」
琴羽は「おやすみ」と言って、俺の頬に軽くキスをした。
その唇の感触に、俺は全身の毛穴が泡立つような嫌悪感を覚えたが、表情筋を総動員して微笑みを作った。
「おやすみ、楽しんでおいで」
彼女が寝室へと入っていくのを見送ると、俺はテレビを消した。
静寂が戻ったリビングで、俺はPCの画面をもう一度開いた。
フォルダの中に並ぶ、裏切りの証拠たち。
これらは、俺たちの六年間の思い出を破壊する爆弾だ。
だが同時に、俺を新しい未来へと解放するための鍵でもある。
「楽しんでこいよ、琴羽」
俺は暗い画面に向かって、もう一度呟いた。
「それが、お前にとって最後の楽しい思い出になるんだから」
俺の目には、もう涙はなかった。
あるのは、氷のように冷たく、鋭く研ぎ澄まされた断罪の意志だけだった。
明日、彼女が偽りの愛の旅に出ている間に、俺は全てを終わらせる準備を整える。
そして彼女が帰ってきた時、そこには彼女の居場所など、この世界のどこにも残っていないようにしてやる。
俺はPCを閉じ、深く息を吐いた。
長い夜が終わり、決別の朝が来ようとしていた。




